「貴女はホットケーキみたいな人だ」と婚約者は言い、公爵令嬢の騎士になるため去っていった。
「貴女はホットケーキみたいな人だな」
元婚約者は言った。
「貴女に非はない。ただ俺があの宝石のようなひとを傍でお支えしたくなっただけだ」
そうして彼は去っていた。
美しく優秀な公爵令嬢の騎士となるために。
しかたなかった。
王家やそれに連なる公爵家の騎士となる者は、貞潔の誓いを立てねばならぬのだから。結婚も当然、ご法度だ。
しかたなかった。
高貴な才媛を想う彼の瞳は熱くて儚くて、ああ恋をしているのだな、と私は了解した。
元婚約者のことは嫌いではなかったが恋でもなかった私に言えることは、何もなかった。
ただ、なんとなくホットケーキは食べられなくなった。
それで困ったりは別にしないが。
手軽で程よいおやつだが、食べられなくてもどうということはない。ホットケーキはそういうものだ。
その後 ――
私は王宮に文官として就職し、数年を経て職場の同僚と結婚した。
穏やかで優しい人だ。
出世のために上に取りいったり他人の手柄を奪ったり足を引っ張って陥れたりは決してしない。
ただ民のためにコツコツと堅実に働く、そういう人が、私が恋した人だった。
分相応のホットケーキ夫婦。
結婚式のとき、そんな言葉がふと頭を過ぎり可笑しくなった。
そうして私たちは、ほの甘いキスをして夫婦になった。
それから何年も私と夫は大したことのない日々を一緒に送った。毎日毎日、朝食を一緒にとって一緒に出勤し、一緒に帰ってその日のことを話しながらディナーを食べる。
それだけの暮らしを重ねることは柔らかな生地を幾層も積み上げることに似ていて、やっぱりホットケーキみたいだった。
やがて私はある知らせを耳にした。
元婚約者が罪を犯して騎士位を剥奪され、鉱山に送られたという。
彼は公爵令嬢の側近騎士の座を切望するあまり、事故に見せかけてライバルの同僚に大怪我を負わせたそうだ。
―― そのとき私は、公爵令嬢に恋した彼の瞳を思い出していた。
あの、砂糖を溶かすかのような情熱と憧憬と野心とは今でも、決して手の届かない美しく煌めくものとして私の記憶の底にしまわれている ――
翌朝は私の食事当番の日だった。
いつもどおりに卵を焼こうとし、私はふと思い立ち小麦粉を手に取る。
キッチンに幸福に似た匂いが漂いはじめたころ、夫が起きてきた。
「ホットケーキか。珍しいね」
私は微笑んだ。
「昔、ホットケーキみたいって言われたのよ、私」
「どうりで、出会ったころから大好きだ」
私と夫は、ホットケーキみたいなキスをした。
なろうラジオ大賞応募用、千文字短編です。お題は 『ホットケーキ』




