最終話. 未来へと吹く風
数ヶ月後──。
アルーシア王宮の、フロレンティーナ王女のサロン。
王女の前には今、大陸各国の地図と交易路について記された書類が広がっている。さっき彼女が侍女に指示し、持ってこさせたものだ。
王女は真剣な眼差しで羽ペンを握り、私の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けている。今日は大陸数ヶ国の重鎮が集まっての昼食会が、このアルーシア王宮で行われる予定だ。午前中はルシンダ様も交え、フロレンティーナ王女と私の三人で軽いお喋りをするつもりだった。けれど気付けば王女からの質問攻めに遭い、いつものお勉強会と同じような雰囲気になってしまった。
「君主として豊かな国を保つためには、国土にあるものと足りないものを正しく見極め続けていなくてはなりません。持たぬものは交易で補い、余裕のある物資は他国へとまわす。その協力体制が、大陸の小国らが共に豊かに生きていくための基本です」
「けれど、その余るものすらない貧しい国々もありますわよね……?」
王女が無垢な瞳でこちらを見上げる。常に真面目な彼女の姿を好ましく思い、私は微笑みながら言葉を続けた。
「そうした国は協定の中で助力を仰ぎながら、まず民を育てるのです。最も肝要なのは、教育と技術。資源は尽きることもございますが、人の知恵は決して尽きません。働き手が増えれば、そこに新しい価値が生まれます。周辺国から頼れる国だと、組めば自分たちにも利がある国だと思わせることができるようになります。そしてその価値を認めさせるには、誠実な交渉を積み重ねるしかありません」
「誠実な交渉……」
「ええ。この大国も大きく変わっていく最中にはございますが、あなた様が女性だから、若いからと軽んじられる場面は、これから幾度もあるでしょう。そういう時、決して感情的になってはいけません。交渉の席では自分がどう思うかだけではなく、この交易でこれだけの利益が上がった、この施策で民の暮らしが向上したと、数字や事例を示すのです。誰もが認めざるを得ない結果を突きつければ、反論は封じられます」
「……はいっ」
王女は凛々しい表情で大きく頷く。そんな彼女の様子を、そばに座っていたルシンダ様も温かく見守っている。けれど次の瞬間、王女はふと眉を寄せ、もじもじしながら呟いた。
「……でも私、算術は少し苦手で……。大丈夫でしょうか」
年相応なその告白に、私とルシンダ様は思わず顔を見合わせ、同時にくすりと笑ってしまった。勇敢で賢い王女だけれど、やはりまだ九歳なのだなとしみじみ思う。
「心配いりませんわ、王女殿下」
ルシンダ様が優しく言葉を添える。
「数字は慣れです。毎日の学びの中で少しずつ積み重ねていけば、必ず身につきますから」
「ええ。最初から得意な人の方が少ないのですよ」
私もそう同調し、王女を安心させる。
「あまり根を詰めすぎず、無理のないペースでお勉強なさいませ。心配せずとも、お父上が立派に公務をこなしていらっしゃいますから、この大国も随分と落ち着きましたし。王女殿下は、今は学ぶことを楽しむくらいの気楽さでちょうどよいのですわ」
そう言うと、フロレンティーナ王女はぱちぱちと瞬きをしてから小さく笑った。
「楽しむ……お勉強を……ですか?」
「ええ。算術でも歴史でも、遊びのように面白がってしまえば不思議と身につくものです」
ルシンダ様がすかさず口を挟む。
「たしかに! 私なんて子どもの頃は、数式を歌にして覚えておりましたのよ。いま思えばおかしな歌ばかりでしたけれど」
それを聞いた王女の表情が、途端に和らぐ。
「まぁ、歌で? それなら楽しそうですわ。私も実践してみます!」
王女の明るく朗らかな笑い声が、心地良くサロンに響いた。
昼食会が始まる前に一度客間へと戻り、テレーザの手を借りてドレスの乱れや髪を整える。窓から差し込む日差しは明るく、外では昼を告げる鐘の音が響いていた。
少し経つと、重鎮会議に参加していたトリスタン様が迎えにきてくださった。私たちは並んで王宮内の食堂へと向かう。磨き込まれた床が光を反射し、窓から吹き込む風が心地良く頬を撫でた。
「会議はいかがでしたか?」
「ああ。問題なく終わった。……アウグスト殿下も随分とたくましく、健康的になられたな。イルガルド王宮を訪れてこられた時は本当に弱々しい雰囲気だったが、今では自ら堂々と意見を述べておられる」
彼の言葉に、私は先ほどのフロレンティーナ王女の様子を思い出していた。
「王太子殿下も王女殿下も、どんどん前に進んでいらっしゃいますわね」
「それを導いているのは君だ、セレステ。君のことを誇らしく思うよ」
「……それはあなた様もですわ」
優しい眼差しに少し照れながら、私はそう答えた。
愛する人とこうして言葉を交わすだけで、不思議なほど心が満たされていく。
(この方は……ずっと私のそばにいてくださった)
隣を歩く彼の凛々しい横顔をひそかに見つめながら、これまでのことを思い出す。冷遇され続けたアルーシア王宮から離れ、父とも決別し、賭けに出るような思いでこの人を頼りイルガルド王国へと向かった。萎縮しながらも出した一通の手紙で、私が滞在している宿屋にすぐさま迎えを寄越してくださり、それから先はずっと、すぐそばで私を支え続けてくださった。いつも私の考えを真剣に聞き、決して否定することなく受け入れ、常に後押ししてくださった。そのおかげで私は初めて自分の力を開花させ、思う存分それを振るうことができたのだ。
……ふと、一つの疑問が胸に湧いた。
「……どうした? セレステ」
見つめすぎていたせいか、トリスタン様が私の視線に気付き、こちらに顔を向ける。心臓が跳ね、思わず目を逸らした。
「いえ……。何でもございません」
「何でもないことはないだろう。何か尋ねたそうな顔をしている」
「……」
「聞きたいことがあれば何でも聞け。……ん?」
そう言うと彼は身をかがめるようにして、私の顔を間近で覗き込む。その仕草に、頬が熱を帯びた。恥ずかしいけれど、ごまかしきれそうにない。
意を決し、尋ねてみた。
「あの……、トリスタン様。あなたは一体、いつから私のことを……?」
すると彼は一瞬、不思議そうな顔をした。そして理解したとばかりに口角を上げると、微塵も照れた様子を見せることなく真っ直ぐに答える。
「最初からだ。メロウ侯爵領の国境沿いで、用水路の開通作業をしている君と話をしたあの時から、俺は君に惚れていた」
「……あ、あの時、ですか?」
彼のその言葉に、思わずそう尋ね返す。あの時……私は自分のみっともない姿に半ばやけっぱちになりながら、開き直って挨拶をしたというのに。あそこで好かれた理由がさっぱり分からない。
そんな私の疑問に答えるかのようにトリスタン様が言う。
「両手もワンピースも泥まみれなのに毅然とした表情でカーテシーをする君が、やけに可愛く見えてならなかった。それと同時に、こんな姿でも相変わらず気高く美しい人なんだなと思った。その瞬間、俺はもう恋に落ちていたよ」
「……変わった人です、あなたは」
愛情に満ちた眼差しにどうしようもなく照れてしまい、私はついそんなことを言って俯いた。トリスタン様が小さく笑い、そして私の手を優しく握った。
「っ!? ト、トリスタン様……」
「泥にまみれて作業をする侯爵令嬢の方がよほど変わっている。品位も知性もありながら、真っ直ぐな情熱と行動力を持つ君に強く惹かれた。唯一無二の人だと思ったよ。それと同時に、危なかしくて目を離したくないとも。だから誘ったんだ。イルガルドへおいでと。……俺を頼り、来てくれてありがとう、セレステ。おかげで今がある」
低い声で噛み締めるように囁かれたその言葉が胸に沁み、私は思わず彼を見上げた。するとトリスタン様はにやりと口角を上げた。
「まぁ、来なかったら俺から迎えに行くつもりでいたがな」
「な……っ」
(そうだったの……!?)
自信に満ちた彼の笑みはたまらなく魅力的で、心臓の鼓動が速くなるのを止められない。胸の奥に灯った熱が、喜びとともに全身に広がっていく。
食堂が見えてきた。彼の想いに応えるように、私は繋いだ指先に一度だけ力を込めると、そっと手を離す。
扉が開いた瞬間、柔らかな風が私とトリスタン様の間をふわりと吹き抜けていった。皆の談笑と、和やかな笑顔。そこにはアウグスト王太子とフロレンティーナ王女の姿もある。各国の代表たちと肩を並べ、かつての国境の壁などなかったかのように笑顔で語り合っている。
吹き抜けた風は、きっと未来へと続いている。
これから先も生まれるはずの、いくつもの希望を運ぶために。
─── end ───
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