52. 初めての夜
夜着をまとった私は、何度も深呼吸を繰り返す。そしてようやく覚悟を決めると、寝室への扉をおそるおそる開けた。
案の定、トリスタン様はすでにそこにいた。窓辺に立ち、濡れた髪をタオルで拭きながら外を眺めている。
開け放たれた窓から流れ込む月明かりに、彼のその銀色の髪がきらめき、まるで絵画のように美しい。
神秘的な横顔に束の間見とれていると、私の気配に気付いたトリスタン様がゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳が私を捉えた瞬間、彼の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「遅かったな。迎えに行くべきかと悩んでいたところだ」
「……もっ、申し訳、ございません」
「……」
(や、やだ……)
ひどく震え掠れた自分の声に、耳まで熱くなる。
トリスタン様は目を丸くした後、くすりと笑ってこちらに近付いてきた。全身が石のように固くなる。
「冗談のつもりだったんだが。そんなに真面目に謝ることじゃない。……大丈夫か? セレステ。疲れただろう」
私を和ませようとしてくれているのだろうか。そんなことを言いながら目の前まで歩み寄ってきたトリスタン様が、さりげなく私の手を取った。それだけで肩が跳ね、喉がヒュッと音を立てる。
トリスタン様は困ったように微笑むと、私の手を引きながら歩く。
「今夜は月が美しい。ゆっくりと堪能する時間などなかっただろう? ……ほら。見てみろ」
そう言って、彼は先ほど立っていた窓辺へと私を誘う。外を見てみると、たしかに月明かりがとても綺麗だった。神々しささえ感じる。けれど、喉の奥がつかえたように言葉が上手く出ない。
「……ええ。はい、とても……」
そう答えながらも、空に輝く月よりも、今隣に立っているトリスタン様の一挙手一投足の方が気になって仕方がない。私の全神経はそちらに集中していた。早鐘を打つ心臓が、ひっくり返ってしまいそう。
私がこれほどいっぱいいっぱいになっていることなど知らないトリスタン様は、窓の外から私へと視線を移し、優しくこちらを見下ろす。
「今日の君の美しさが目に焼きついて離れない。純白のドレスをまとい俺の方へと一歩ずつ歩いてくる君の姿は、今夜の月も霞むほどだった。愛おしさで、どうにかなりそうだったよ」
「……トリスタン様……」
「君が俺の妻になってくれたことが、心の底から誇らしく、幸せだ」
噛み締めるようにそう言う彼の澄んだ瞳には、嘘偽りなど欠片もなくて。
嬉しさと愛おしさで、自然と笑みがこぼれた。
するとトリスタン様は私を優しく抱き寄せ、そしてその腕に、少し息苦しくなるほどの力を込める。
耳元で囁く彼の声に、幸福感で痺れていた脳の奥が目覚めるような心地がした。
「この夜を夢にまで見た。セレステ、……このまま君をベッドに運んでも構わないか?」
低く熱を帯びた声が耳を掠めた瞬間、ふわりと視界が揺れた。
気付けば私は、彼に軽々と抱え上げられていた。
大きな腕で、お姫様のように横抱きにされ。
頭が真っ白になり、鼓動が暴れる。
「やっと君を独占できる。今夜俺たちは、夫婦になるんだ」
そう言いながら愛おしげに私を見つめ、ゆっくりと歩くトリスタン様。
次の瞬間、私の体が柔らかなシーツの上にそっと降ろされた。体を起こした彼が、枕元のランプの灯りを落とす。
再び覆いかぶさるようにして近付き、真上から私を見つめるトリスタン様。その熱を帯びた瞳が、ゆっくりと、私のそばに──。
(〜〜〜〜っ!!)
私は思わず、固く目を閉じた。もう心臓が壊れてしまいそう。
すると、私に近付くトリスタン様の動きがぴたりと止まる気配がした。しばらくして、小さな笑い声が聞こえる。
「……参ったな。そんなに俺が怖いか? セレステ。……心配しないでくれ。俺が君に乱暴な真似をするはずがないだろう。何年も恋い焦がれて、ようやく手に入れた大切な妻なんだぞ。大切にする。だから、そう怯えないでくれ」
少し困惑した彼の声に、ついに私は観念した。わざわざ宣言するのはとても恥ずかしいけれど、かと言って最後まで隠し通すことなんてできそうもない。
「……は……初めてなんです……っ!」
「……。……ん?」
一呼吸置いて聞こえてきた、トリスタン様の怪訝そうな声。私はたまらず両手で顔を覆った。
「わ、私……、初めてなんです。このように、その……殿方との、夜を過ごすのは……。で、ですから、その」
「……」
「い、至らぬところも多々あるかとは思いますが、どうぞご容赦くださいませ……っ」
「…………」
一体私は何を言っているのだろうか。仕事じゃあるまいし。なんて色気のない宣言なのだろう。
でも他にどう伝えればいいのか分からなかった。ただ恥ずかしくて、怖くて、緊張して……。
顔を覆っていても、この熱くなった耳の赤さは隠せていないだろう。全身にじんわりと汗が滲む。
トリスタン様は、何も言わない。目を瞑り息を止めていた私は、徐々に不安になってくる。……失望されたのだろうか。もしかして、嘘をついていると思われている……?
そんなことが頭をよぎった時、私の両手が彼の手によって外された。反射的に目を開けると、そこには驚きの表情を浮かべるトリスタン様のお顔があった。
「……すまない。どういう意味だ? その、……え? 何が……」
「わ、私とヒューゴ様は、……白い結婚だったのです。あの方の妃でいたおよそ三年間、彼が私に触れたことはただの一度もございませんでした」
情けなさなのか何なのか、涙が滲み、トリスタン様のお顔がぼやける。唇を噛み締めている私に向かって、トリスタン様は確認するようにゆっくりと尋ねる。
「……一度も?」
「はい」
「……では、君は無垢なままだと……?」
「……はい……」
はっきりとそう聞かれ、体中が燃えるほどに熱くなる。トリスタン様はしばらく呆然と私を見つめた後静かに目を閉じ、深く息をつきながらがっくりと項垂れた。肩口に彼の額が押し当てられ、艶やかな銀髪がさらりと私の頬を撫でた。
「……そうか。そういうことだったのか……。それなのに、あんな根も葉もない噂を立てられ……。三年間、君がどれほど苦しんできたかと思うと……胸が痛む」
(……トリスタン様……)
まるで彼の方が苦しんでいるかのような、切なく掠れた声。トリスタン様はそのまま私を強く抱きしめた。シーツの擦れる音と彼の体の重みに、また心臓の鼓動が速くなる。
やがて彼はゆっくりと体を起こし、真正面から私を見つめた。両腕を私の顔の横についたその姿勢が、まるで私を閉じ込めているみたいだ。
「……セレステ。改めて誓うよ。俺は君を生涯大切にする。今夜も、これから先のどの夜も、君に触れる権利を与えられた唯一の男として、君を守り、愛し抜くよ」
「……トリスタン様……」
その真摯な眼差しと愛の言葉は、私の心を包み込んだ。喜びが胸に溢れ、涙となって眦を伝う。
「……私もです、トリスタン様。あなたのことを、ずっとお慕いしておりました。ありがとうございます、あの日、行き場を失くしていた私に新たな道を示してくださって……。あなたのおかげで、今の私になれました。私がこんな想いを抱くのは、生涯あなた様だけです。……愛しています、心から」
私は初めて、自分の想いを言葉にして伝えた。
トリスタン様の瞳が見開かれ、その中の光がかすかに揺れる。そして彼は、これまで見たことがないほどに幸せそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう、セレステ」
小さくそう答えると、彼の唇がゆっくりと私に重なる。私は静かに目を閉じた。
優しいぬくもりに、不思議なほど心が解れていく。この方になら全てを委ねても大丈夫なのだと、安堵にも似た幸福感が私を包む。
トリスタン様の大きくて熱い手のひらが、私の体を優しくなぞる。自然と力が抜け、世界が二人だけのものになった。
その夜、私は彼の愛を全身で受け止めた。
深い海のようなそれは、抗うことなく溺れていく私を優しく受け止めてくれた──。




