50. 伝え合う想い
そんな日々の中、ついにイルガルド国王の許可が下り、私はフロレンティーナ王女の相談役として再びアルーシア王国へと赴くことになった。その最初の旅立ちは来月初めに定められ、そのことを国王陛下から直々に告げられた際、私はさらに叙爵を受け、伯爵位を賜ることとなった。
「セレステ・ラザフォード子爵。そなたの働きは我が国のみならず、大陸諸国にとっても大きな支えとなり、新風を吹き込んだ。その功績を讃え、新たに伯爵位を授ける。今後も王国の柱として、その才を存分に振るうがよい」
国王陛下からそのお言葉をいただいた瞬間、胸の奥が熱いもので満たされた。私は深く一礼し、謹んで拝命したのだった。
かつて妃として過ごしたあのアルーシア王宮に、今後は相談役という名の外交官として、幾度となく足を運ぶことになりそうだ。かすかな緊張と同時に、新しい未来を切り拓く責任感で背筋が伸びる。
過去搾取に苦しめられてきた周辺諸国も、大国の劇的な変化を目の当たりにし、徐々に信頼を寄せつつあった。私たちとの始まりの時と同様に、諸国は再びアルーシアと小さな交易を結びはじめたのだ。
アルーシア王国では、従来の「王位を継承するのは男子のみ」という法を見直す動きまで始まり、日々議論が交わされているという。これは容易に結論の出る話ではないけれど、少なくとも、未来を見据えて国の在り方を改めようという意思が芽生えたこと自体大きな前進に他ならなかった。
そして、アルーシア王国への出立を翌週に控えた、ある日の夜のこと。
私はトリスタン王弟殿下の使者から、やけに改まった呼び出しを受けた。
怪訝に思いつつ使者について行くと、着いたのは王弟殿下の私室。緊張しながら中へ入ると、殿下が優しい微笑みを浮かべ、私を迎えてくれた。
「来たか、セレステ。……おいで」
そう言うと、殿下はごく自然に私の手を取る。一体何事だろうか。ドキドキしながらついて行くと、開け放たれた大きな窓から、彼がバルコニーへと私を連れ出す。
「……っ!」
彼に続き表へと出た私は、息を呑んだ。
手すりには小さなランタンが連なり、その金色の光が夜風に優しく揺れている。床には真紅と白の薔薇の花弁が惜しげもなく散り敷かれ、甘やかな香りが漂っていた。小さなテーブルにはキャンドルが灯され、赤やピンク、そして白の薔薇が美しく飾られた花瓶が中央に置かれている。ランタンとキャンドルに照らされた花々は、ため息が出るほどロマンチックだった。
バルコニーの下には王都の灯り。頭上には満天の星。
そしてその狭間にあるこの空間は、まるで世界から切り離された二人だけの聖域のよう。
美しい光景に心奪われた私は、それらの景色をしばらくうっとりと眺めた。
「セレステ」
低く穏やかな声に、ふと我に返る。気付けば殿下は私の手を握ったままだ。
「殿下……。これは一体……」
私は半ば無意識に、殿下にそう問いかける。すると彼は、少し強張った表情でもう片方の私の手も取り、ご自分の両手で優しく包み込んだ。
「で、殿下……?」
緊張を含んだその眼差しに、私まで体が固くなる。漆黒の瞳を見つめ返しながら、心臓の鼓動がどんどん速くなっていった。
殿下は私から片時も目を逸らさず、低く掠れた声で囁くように言う。
「そろそろいいんじゃないかと思った。この数年間、君はがむしゃらに働いて自分の責務を果たし、イルガルドでの地位を確立してきた。この国のみならず、大陸全土の小国をも救い、民たちの暮らしを向上させ、あのアルーシアさえも変えてしまった……。ここに来て以来、やるべきことは十二分にやってきただろう。今なら、俺が自分の気持ちをはっきり伝えても許されると思うのだが」
「……え……」
彼の真摯な瞳と、大きな手のひらから伝わってくる、たしかな熱。
めまいがするほどの緊張に、息がつまる。どんどん大きくなる自分の鼓動を意識するばかりで何も口にできない私に、殿下は少し身をかがめ顔を近づける。
「陛下に臣籍降下を願い出て、許しをいただいた。……セレステ、俺は君と一緒に生きていきたい。この先の人生を、この俺とともに歩いていってくれるか」
「……殿下……」
頭が真っ白になる。しばらくしてその言葉の意味を理解した途端、涙が堰を切ったように溢れた。胸がいっぱいになり、言葉が出ない。
優しく抱き寄せられ、殿下の腕の中で顔を覆うと、私は何度も頷いた。
彼の熱い想いに気付いていながら、そして一度ははっきりと伝えられたにもかかわらず、応えることができなかった。
それなのに、この数年間、殿下は私のことを待ち続けていてくださった。溢れる想いはただ嗚咽となり、私の肩を震わせる。
殿下は宥めるように私の頭を優しく撫で、そこにそっと唇を押し当てる。
「誰よりも一番近くで、君を支え続けたい。……結婚しよう、セレステ」
「……はい、殿下……。ありがとうございます……」
それだけの言葉をようやく伝えると、殿下が息をつく気配がした。
「よかった。やっと言えた。君もやっと答えてくれたな」
少しおどけたようなその口調に、彼の安堵が滲んでいた。
「……顔を見せて、セレステ」
そう言うと、殿下の骨ばった指先が探るように私の頬に触れ、優しく顔を持ち上げる。
涙に濡れた頬を気恥ずかしく思いながらも、私は彼の瞳を見つめ返した。
微笑みの中に切羽詰まった熱を宿した彼の顔が、ゆっくりとこちらに近付く。
瞳を閉じると、唇が静かに重なり、そしてそのまま息もできないほど強く抱きしめられた。
温もりを確かめ合うようにゆっくりと交わされる口づけ。体が蕩けていくような幸福感の中、やがて二人の唇がそっと離れる。その瞬間、殿下の低く掠れた声が私の耳をくすぐった。
「愛しているよ、セレステ。誇り高く生きる君は、誰よりも綺麗だ。……俺はそんな君の、唯一無二の存在でありたい」
「……あなたはもうすでに、私の唯一無二の人です」
泣き濡れた声でどうにかそう答えると、彼は目を細め私の頬を撫でた。
「可愛いことを言う。……誰にも見せない君の弱さも、これからは俺に預けてほしい。俺は君が安らげる場所になりたいんだ。君は少し目を離すと、すぐに頑張りすぎるからな。今後はもう無理はさせないぞ。一人でがむしゃらに突っ走らず、一緒に歩いていくんだ。……いいな?」
「ふふ……。はい」
もう一度引き寄せられ、私は殿下のたくましい腕の中で静かに目を閉じた。ムスクのような甘い香りが鼻腔をくすぐり、鼓動が高鳴る。
ひんやりとした夜風が、火照る体と頬をゆっくりと撫でていく。
またたく星々の下で、私はその幸せに満ちた時間をそっと噛み締めたのだった──。




