42. 論破
現れたのは、トリスタン王弟殿下だった。
青みを帯びた銀髪を外灯にきらめかせ颯爽と姿を見せた彼は、その漆黒の瞳で真っ直ぐにヒューゴ殿下を見定めている。
「……殿下……」
ホッとして、思わず息をつく。彼の姿を目にした瞬間、もう大丈夫だと思ったのだ。殿下がそばにいるだけで、私はこんなにも安心する。
トリスタン王弟殿下は私の隣へやって来ると、私を自分の背に隠すよう、片手でそっと誘導した。背の高い王弟殿下が前に立ち塞がってくれたことで、私からはもうヒューゴ殿下の姿が見えなくなった。
そのヒューゴ殿下が、上擦った声を漏らす。
「イ、イルガルド王弟よ……な、なぜ、ここに……」
「ラザフォード子爵は、とうに貴国の者ではない。我がイルガルド王家が正式に任じた上級外交顧問であり、その功績をもって爵位を賜った我が国の高官だ。彼女に向けられた侮辱は、そのまま我が国への侮辱と受け取ろう」
堂々たる言葉に、ヒューゴ殿下が怯んだ気配がした。ザリ……という足音で、彼が一歩後退したのが分かる。トリスタン王弟殿下は淡々と言葉を続けた。
「アルーシア側が今、失った彼女の才を惜しいと感じているのなら、それは自業自得だ。追い出したのはそちらであり、彼女の能力を見抜けず軽んじたのもそちらだろう。今さら女々しい真似はなさるな」
「な……っ! だ、誰が、女々しいと……!?」
静かながらも断固とした王弟殿下の声に、ヒューゴ殿下はもうたじたじだ。王弟殿下の言葉には会談の時と同じ、いやそれ以上の毅然とした迫力があった。胸がいっぱいになり、私はそっと目を伏せる。
「これ以上彼女を責め強引な勧誘を続けるのならば、イルガルド側が話し合いの席に戻ることはない。我々は帰国し、アルーシアが諸国から孤立し困窮していくのを見届けるだけだ」
「……っ!」
ヒューゴ殿下の不安定な荒い呼吸がしばらく聞こえていた。やがて彼は一言も発することなく、中庭から大股で去っていった。
「……ありがとうございました、殿下」
トリスタン王弟殿下の背にそう声をかけると、彼は振り返って私を見下ろし、優しく微笑んだ。
「疲れただろう。さぁ、もう部屋に戻ろう。もしも万が一、この後また何か接触があるようならば、対応する前に俺を呼ぶんだ。いいな?」
「……はい。承知いたしました」
まるで小さな野良犬でも追い払った程度に落ち着き払った殿下の姿に、私はまた強くときめいてしまうのだった。
そして翌日。会談はなかなか始まらなかった。
早朝から打ち合わせを済ませた我々イルガルド使節団は、「召集があるまでは待機されよ」とのアルーシア側からの伝言に、ただ待つしかなかった。
昼食も済ませ、各々が部屋でしばらく待っていると、ようやく使者が現れた。
そして我々一同が連れて行かれたのは、小会議室。昨日の謁議の間よりもだいぶ小さい部屋だった。
扉が開き、トリスタン王弟殿下に続いて中に足を踏み入れた私はぽかんとしてしまった。
(あら……? 今日はたったこれだけなの?)
昨日は五十人ほどの大人数で迎え撃ってきたのに、会議室にいたのはヒューゴ殿下の他に、主要大臣らと数名の書記官のみで、総勢およそ十名。父や他の領主たち、そして王子妃やリリエッタらの姿などはなかった。
(……さてはもう見せたくないのね。自国に不利な話し合いの状況を、貴族たちに悟らせたくないってところかしら。まぁもう手遅れだとは思うけれどね……)
昨日と同じように王弟殿下の隣に私、リューデ局長、そして他の文官や書記官らが着席した。するとヒューゴ殿下が目を伏せ手元の資料を見ながら、何度か空咳をした。
「……い、いくつかの譲歩案を用意してある」
そう言うとヒューゴ殿下は、隣に座っている外務大臣に目配せする。大臣は会議室に響き渡るほどの一際大きな咳払いをした。嫌な予感しかしない。
「……まずは、交易の関税だ。従来の、アルーシア王国を中心とした大陸交易に全て戻すというのであれば、イルガルドからの品にかかる税は、これまでよりも大幅に下げてやろう。これは貴国だけの、特別優遇措置だ」
「必要ない。我らは既に互いに税を調整し合い、十分に利益を得ている。今さらアルーシアに頼る理由はない」
昨日と同じように、トリスタン王弟殿下が間髪を容れずにそう返した。アルーシアの外務大臣は王弟殿下をギロリと睨めつける。会議室がしばらく静まり返った後、今度はアルーシアの軍務大臣が声を上げた。
「ああ言えばこう言いおって……小賢しい! 交易を支えるにはな、大国の力が不可欠なんだ! 我がアルーシア王国の軍勢こそが長きにわたり街道を守り、交易の安定を保障してきた。それを忘れたか? 我らの庇護なくして、真の安全などあり得ぬ! ……従来の体制に戻すと約束するのならば、イルガルドとの交易路には我が軍を重点的に配備し、常に守りを固めてやろう」
「それも不必要だ。今我々の交易は、各国が互いに信頼関係を結び、責任を分かち合うことで成り立っている。武力に依存する体制は、一度綻べば脅威そのものに変わる。我らはその危うさを避け、協力による新たな均衡を築いた。……体制はすでに、完全に変わっている。ゆえにアルーシアの庇護という名の搾取は、不要だ」
「……っ!!」
軍務大臣の手元の資料が、くしゃりと音を立てた。王弟殿下を睨みつける彼のこめかみには、太い青筋が立っている。黙っていられず、私は静かに口を開いた。
「……恐れながら、ヒューゴ第二王子殿下」
「っ! う、うん? なんだ? セレ……、ラ、ラザフォード子爵よ」
一体何を期待しているのか、弾かれたように顔を上げ私を見つめるヒューゴ殿下の目が妙に輝いている。それを拒絶するように、私は冷静に告げた。
「先ほどから聞いていれば、我が国だけを優遇することでイルガルドを懐柔しようとお考えのようですが、それでは他の諸国はどうなるのですか? 従来のアルーシア王国中心の体制に戻せば、周辺諸国は再び重い負担を強いられ、またも苦しい思いをすることになるのですよね。そんな不公平な条件を、私たちが受け入れるはずがございません。こちらが望んでいるのは、大陸全ての国が互いに助け合い、安定して利益を分かち合える健全な仕組みです。あなた方のその、自国さえ潤っていれば、周囲の中小国などどうなってもいいというような考え方を改めない限り、この会談は何一つ成果を得られませんよ」
「……………………」
シン……と静まり返る会議室。アルーシアの宰相が、舌打ちをして呟いた。
「まったく……! 女のくせに、しゃしゃり出おって……」
「それです、宰相閣下」
聞き漏らさなかった私は、すぐさま反応した。
「……は?」
宰相は胡乱げな目で私を睨む。私は彼に、そしてヒューゴ殿下やその周囲を固めるアルーシアの重鎮たちに向かってはっきりと言った。
「女性を蔑み、小国を軽んじる。その古い体制こそが、いまのアルーシアをここまで追い詰めているのです。女性の中にも、優れた知恵や才覚を持つ者は数多くいます。実際アルーシアを除いた周辺諸国では、女性も政や外交の場に積極的に立ち、大きな成果を上げているのです。いつまでも「女性のくせに」「小国のくせに」などと侮り、思い上がっているようでは、アルーシアは永久に孤立したままですよ」
「〜〜〜〜っ!!」
宰相の顔が真っ赤に染まった。こめかみに血管を浮きだたせ、今にも破裂するのではないかと心配になるほど小刻みに震えている。ヒューゴ殿下も他の大臣たちも、皆同じような顔をして私のことを凝視する。……そんなに腹が立つのかしら。私の言っていること、そんなにも理解できない?
(まぁ、アルーシアの男性たちにとってはそうよね。女は飾り、子をなすための道具。そんな風に思い込んでいる人で溢れているんだもの)
しばらくの沈黙の後、ヒューゴ殿下は周囲の大臣らと何やらヒソヒソと小声で話しはじめた。かと思いきや、引きつった笑みを浮かべてこちらを見る。そして恩着せがましく、ゆっくりと話しはじめた。
「ぐ……軍のことなどはさておき……。ではこれが、我が国の最終譲歩案だ。よく聞くがいい。アルーシア王家は、イルガルドを決して軽んじてはおらぬ。むしろ深い縁を結んでやろうと思っていたのだ。……イルガルド王家には、我が国の王女が十四歳を迎える際、輿入れさせようと考えている。王族同士の結びつきは、最も確かな絆となるだろう。……貴殿はまだ独身であったな? トリスタン王弟殿下よ」




