37. 凱旋
広がった交易の輪を順調に維持するイルガルド王国に、ある日届けられた一通の書簡。
リューデ局長とともに王弟殿下のもとへと呼ばれ、その見慣れた紋章が刻まれた封蝋を見た瞬間、心臓が大きく脈打った。
「……アルーシア王国から、ですね……」
「ええ」
リューデ局長は固い表情で頷く。同じくこの場に召集されていた宰相が、渋面で唸った。
「両国の益のため、会談の場を設けたい。貴国の大使には早急に我が国へ来訪賜りたく……。表向きは友好的な文言ですが、もちろん内心は違うでしょう。直接的な対話を求めてきたのは初めてですな」
「むしろ遅すぎるくらいだ。なかなか接触して来ないなとは思っていたが。随分とのんびりしているものだな」
トリスタン王弟殿下が、呆れたように鼻で笑う。リューデ局長は銀縁の丸眼鏡をクイッと上げた。
「追い詰められている証左と見るべきでしょうか。大国の逼迫については、噂に聞こえてきておりますが……」
皆の言葉を聞きながら、私の胸はひどくざわめいた。
(あちらの体制が変わっていなければ、交渉の場に立つ中心人物は間違いなくヒューゴ殿下だわ。いずれ避けられないことだと分かってはいたけれど……)
大国に歯向かう行動を起こしている以上、いつかは何らかの形で対峙することにはなったのだ。
動揺を隠し、私は殿下に静かに問いかける。
「……どのようにご対応なさるおつもりですか、殿下」
王弟殿下はまっすぐに私を見据え、即座に答える。
「もちろん、会談の席に着こう。アルーシア側がこうして対話を求めてきた時点で、すでに形勢は逆転している。我々が築いた周辺諸国の交易の輪は、もはや揺るがぬものだ。崩させはしない。だが別に我々は、大国を潰すことを望んでいるわけではない。アルーシア支配の体制を終わらせ、繁栄を共にする道を示せばいいんだ。こちらが共存の姿勢を見せれば、アルーシアとて突っぱねはしないだろう」
リューデ局長も深く頷く。
「おっしゃる通りです。小国同士の信頼関係と交易の先陣を切ったイルガルドが怯んだと周囲に受け取られないためにも、ここは堂々と臨むべきですね」
覚悟の決まった皆の雰囲気に、宰相が言葉を添えた。
「……では国王陛下にご報告し、使節団を編成いたしましょう」
◇ ◇ ◇
そうして数週間後。私たちはアルーシア王国を目指す旅路についた。
我々イルガルド使節団はトリスタン王弟殿下を筆頭に、上級外交顧問である私、外務局長のリューデ卿、その他副官や書記官たち数名で編成された。そのうち約半数が女性だ。さらに十数名の護衛騎士たちが随行する。
馬車が国境を越え、アルーシアの王都へと足を踏み入れた途端、懐かしさと緊張で息がつまった。この国を去ってから、もう三年以上もの月日が経ったのだ。
(……メロウ侯爵家のタウンハウスも、ここから近いわね……)
父は元気にしているのだろうか。ベアトリス夫人や、リリエッタは……?
馬車の小窓から外を眺め、かつての辛く苦しい日々を思い返し、胸が疼く。幼い頃からたくさんのことを我慢して、ひたすら勉強にばかり打ち込んできた。母が死に、父とのぎこちない生活が始まり、やがてベアトリス夫人とリリエッタを屋敷に迎えることになり。父のためにもどうにか上手くやっていこうと努力したけれど、ベアトリス夫人には嫌われたままで……。リリエッタにも、手酷く裏切られた。
王宮での、孤独と悲しみの日々。夫に愛されない私。お飾り王子妃である私に向けられる、数々の冷たい視線。侮蔑をあらわにした、露骨な態度。
最後まで義母と義妹の肩を持つ父の態度に失望し、私はこの王国を去った。自分自身の人生を取り戻すために。
そして今、私は帰ってきた。
もう何も知らないアルーシアのお飾り王子妃ではない。侯爵家の手駒の娘でもない。
今の私は、イルガルド王国の外交の要なのだ。
我々外交官たちは皆深い紺色の礼服に身を包み、同色のマントを羽織っている。胸元にはイルガルド王国の紋章をあしらった金の飾りが留められた。
私の礼服も他の外交官らと同じだけれど、上級外交顧問という立場を示すため、細部のデザインが違う。襟や袖口には、白銀の糸で繊細な蔦模様が縫い込まれている。胸元の紋章には小さな宝石が嵌め込まれ、マントの縁取りにも銀糸が施されていた。
トリスタン王弟殿下は、銀糸の刺繍に彩られた深いロイヤルブルーの礼服姿。その胸元には、王家の紋を刻んだ勲章が輝いている。長いマントの裏地は、荘厳な気配を一層際立たせる真紅。腰には儀礼用の剣を佩き、その凛々しい姿はイルガルド王家の威信を十分に感じさせた。
馬車がアルーシア王宮の高い門をくぐった瞬間、私の緊張は頂点に達した。胸が破けそうなほど心臓が大きく脈打っている。見慣れた白亜の大理石の壁、金色の装飾が施された高くそびえる円柱に、深紫色のタペストリー。大きなアーチ窓に、揃いの鎧をまとった衛兵たち……。
(ああ……。まるであの頃に戻ったみたいだわ……)
回廊を歩きはじめると、あの頃の皆の視線をまざまざと思い出してしまう。すれ違う文官や侍女、騎士や貴族たちの冷たい目つき。私は毅然とした態度を決して崩すまいと、いつも前を向いて歩いていた。けれど胸の奥は常に激しく痛んでいて……。
「セレステ」
その時、私の前を歩いていたトリスタン王弟殿下に呼びかけられ、はっと我に返った。顔を上げると、こちらを振り向いている殿下と目が合う。周りに他の人たちがいるのに名前で呼ばれて狼狽えてしまう。
「なんて顔をしている」
「……も、申し訳ございません。少し考え事を……」
(やだ……。私今、どんな顔をしていたのかしら……)
久しぶりにアルーシア王宮を歩いて、ついあの頃の自分に思いを馳せてしまった。さぞや陰気で浮かない顔をしていたのだろう。
気まずい思いをしていると、殿下がまるで挑発するような、それでいて快活な笑みを見せる。
「自信を持て、セレステ・ラザフォード。今の君はかつての王子妃とはもう別人だ。それに……誰が君のそばにいると思っている」
(……殿下……)
力強く頼もしいその言葉に、一瞬で心が軽くなる。この方は本当に、私のことをよく見てくださっている。そして、とても優しい。
「……はい。ありがとうございます、殿下」
「私もここにおりますよ」
隣を歩いていたリューデ局長が遠慮がちに口を挟んでくる。その様子がなんだか少し可愛らしく見え、つい笑ってしまった。
「はい。頼りにしています、リューデ局長」
王宮奥の回廊を抜け、ついに謁議の間へとたどり着いた。目の前には、磨き上げられた黒檀の扉。両脇には近衛兵が無言で立ち、鋭い眼差しでこちらを見ている。
案内役の侍従が一歩前へ出て、張り詰めた声で告げた。
「──イルガルド王国よりの使節団、ご到着にございます」
重々しい音を立て、扉が開かれた。その隙間から見える室内の人々の視線が、一斉にこちらへと注がれる。
(……すごい人数だわ……)
最奥中央に座すヒューゴ殿下の姿がちらりと見えた。
深呼吸をひとつして、私はトリスタン王弟殿下の後に続き、中へと足を踏み入れた。




