36. 流され続けた果てに(※sideヒューゴ)
一体何が起こっている……?
三年間の白い結婚生活を送った元妃セレステが王宮を去り、それからさらに三年あまりの月日が経った。
セレステを失った喪失感など、当時は微塵もなかった。むしろこれでようやく、密かに想いを交わしていた可愛いリリエッタを真の妃として迎えることができると、たまらなく高揚した。
けれど、父王のリリエッタに対する拒絶の意志が予想以上に固く、どうしても彼女を新たな妃に迎える許しが出なかった。
厳しい父の機嫌を損ねることが恐ろしく、リリエッタの話を繰り返すのが面倒になってきた頃、母が別の令嬢たちを集めて僕の妃を選定すると言い出した。その場にリリエッタは呼ばないという。
『当然の判断です。この大国の王子妃となる女性は、知識と教養、人心掌握力、気品、精神力、そして民に寄り添う真心。それらのうちどれが欠けていても駄目なのです。……分かるわね? 一つも備わっていない娘など、お話にもならないのよ』
僕を冷たく見定めそう言った母に、歯向かう気力はなかった。
王国一美しく可愛いリリエッタを、何としてでも我が妻に得たい。あれほど強かったはずのその気持ちが、なんだかもうこの時点ですっかり冷めてしまっていた。あの両親に逆らってまで固執することでもないように思えた。
(……そうだよな。僕は大国の第二王子。兄上があんな状態で引きこもってしまっている今、実質第一王子のようなものなんだ。可愛いというだけで妻を選んじゃいけないよな。……どんな子に決まるんだろう、僕の妻は。できれば顔が可愛くて、胸が大きい子がいいな、やっぱり。その上で甘え上手で優しい子だとなおいい。政治は男の仕事だけど、正直賢い子だとありがたいなぁ。セレステは公の場での言い回しとか、誰に相談したらいいとか、よく僕に細々としたアドバイスをくれていたから……)
男性優位のこの大国では、女が政に口を出すのはご法度。だから妃は外交の場ではただの顔だし、それ以外の役目といえば、慈善事業や祝宴に姿を見せ、民や貴族たちに王家の威光を示すこと。そして、後継を産むことだ。
けれどセレステは、僕が政の場でどのようにふるまうべきか、事前にどのような知識を持っておくべきかを毎日のように助言してくれていた。鬱陶しくもあったけれど、助かっていたのも事実だ。彼女と同じように僕を陰から支えてくれる人がいい。
ぼんやりとそんなことを考え妃が決まるのを待っていたが、なんとその母の茶会に、リリエッタが強引に参加したらしい。茶会の直前、メロウ侯爵経由で嘆願してきたというのだ。母は参加だけは渋々許可したようだが、その茶会でリリエッタが派手にやらかした。
あろうことか、母への貢ぎ物を大量に持参していたというのだ。しかもその内容は、恋愛小説だの僕の部屋に飾るための自分の肖像画だの。よりにもよって母が最も不快に思うであろう品々だったのだ。
極めつけは、若返り効果のある美容クリーム。天より高いプライドを持つあの母を、高位貴族の若い令嬢が多数集まった席で辱めたのも同然だ。
母からそれを伝え聞いた時、僕はまるで自分が大失態を犯したかのようないたたまれなさを感じた。
それ以来、僕は両親の前でリリエッタの話をすることはなかった。
新たに決まった僕の妃は、エリヴィア・ラモール侯爵令嬢。顔も胸の大きさもリリエッタほどじゃないけれど、十分素敵だ。十九歳という年齢でなぜ今まで婚約さえしていなかったのかと問うと、『だって私がお慕い申し上げておりますのは、幼少の頃からヒューゴ殿下お一人だけなんですもの。あなた様のことを胸の内でひそかに想い続けながら、一人きりで生きていくつもりでございました』だって。可愛い。すぐに好きになった。
ただ、彼女がどうしても『リリエッタを自分の専属侍女にしたい』と言い張った時にはかなり困った。僕が気まずいじゃないかと。けれど……。
『リリエッタさんは知識こそ乏しいけれど、見目は抜群ですわ。私のもとで礼儀作法から仕込めば、いずれは使い道があると思いますの。育成次第では、諜報活動のようなこともできるようになるかもしれませんわ。試しに鍛えてみたいのです』
エリヴィアが熱心にそう言うものだから、渋々母に相談してみた。すると母は『エリヴィア嬢はなかなか賢い提案をするじゃないの』と喜び、快諾したのだ。そしてメロウ侯爵にその件を打診した。おそらく茶会での彼女の振る舞いを根に持っており、その私情も入った決断だったのだろう。侯爵家の令嬢が侍女になるなんて、屈辱の極みのはずだ。
エリヴィアの後ろをついて回るようになったリリエッタは、隙あらば僕のことを怨念のこもった目で睨みつけてくる。ばつが悪いし、ものすごく怖い。
そうして新たな妃を迎えた生活が始まったが、ふと気付けば、周囲がきな臭いことになってきていた。
いつの間にか周辺諸国が、アルーシアを介さずに直接物資をやり取りしはじめているというのだ。我が大国は、大陸の中心。数十年、いやおそらくは百年以上もの間、近隣の全ての国々が我が国を通して交易を行うスタイルは変わることなどなかった。それが当たり前のことだったのだ。
最初は微細な変化だった。それが突然、市場に出回る品々が急激に減りはじめた。これまで山のように集まっていた輸入品が、今や全盛期の三分の一以下の量になっている。穀物や燃料が著しく不足しはじめていた。
税収も目に見えて落ち込んでいる。財務卿が青ざめて報告を持ち込み、宰相は苛立ちを隠さぬまま会議の席で声を荒らげた。
(なぜ突然こんなことに……? 周辺国はほぼ全て、我らがアルーシア主導のもとで交易を行ってきた。奴らにそんな、深い繋がりなどはなかったはずだ。いつの間に結束していた? ここまで逼迫する前に誰も対策しなかったのか!?)
不安定になった市場、物価の高騰、治安の悪化……。
ふと我に返ると、王宮内部にも動揺は広がっており、状況の変化はあっという間だった。皆が切羽詰まった恐ろしい顔で、どうするのだと僕に詰め寄ってくる。
「エリヴィア……ど、どう思う? 僕はこれからどう動くのが最良なのかな……」
歳のせいか、父王は最近急激に体調が悪化し、臥せっていることが多くなった。兄上は言わずもがな、全く頼りにはならない。大臣たちも頭を抱えている。
エリヴィアは困ったように小首を傾げ、頬に手を添えた。
「どう動くべきかは……私はよく分かりませんので……。政は殿方のお仕事。お励みになるあなた様を、陰ながら応援し、癒してさしあげることしかできませんわ。今が正念場なのでしょう? 頑張ってくださいまし!」
そう言って可愛らしく微笑み、胸の前でぐっと拳を握る。僕は軽く絶望した。母が選び抜いた妃の“知識と教養”の中に、政治に関するものは入っていないらしい。母自身も、別に政の表に立ったことはないしな……。だってそれが、我が国の伝統なのだから。
この時、僕の頭の中を一人の女性の姿がよぎった。
(いや……もしも今ここにいるのがセレステならば、彼女はきっと僕に、何らかの具体的な対策について提言してくれたはずだ)
女性でありながら鬱陶しいほどに勉強ばかりしていたセレステ。婚約者であった頃から、頼んでもいないのにやたらと僕に助言を繰り返していた彼女。
リリエッタに恋をしてセレステを排除しようと企み、三年間も冷たくし、ないがしろにした。それでも彼女は王子妃としての務めを黙々と全うし、二人で臨む公の場では、僕が窮するとすかさず隣から耳打ちし発言を助けてくれていた。
彼女なら、今のこの状況を相談すればすぐさまその方面の知識を詰め込み、僕に指針を示してくれたに違いない。
(……失敗したな……)
初めてそう思った。
彼女は王子妃として、非の打ち所がなかった。賢く真面目で、民からの信頼も厚かった。
追い出したのは、ただリリエッタと結婚したかったからなんだ。でもそれも叶わなかった。浅はかだった……。
(……今どこで何をしているんだろう、セレステは。別の形で、王宮に戻ってきてはくれないだろうか。それこそ、体裁は侍女でも教育係でも何でもいい。エリヴィアのそばに侍らせるように見せかけ、王国の体制を整え直すために動いてもらえないだろうか……僕の右腕として)
大臣たちはあてにならない。ここまで窮する前に誰一人対応することができなかったのだから。大国ゆえの慢心か……? 皆危機感がなさすぎたんだ。僕だって、まさかこんな日が来るなんて想像もしていなかった。アルーシア王国の安寧は、未来永劫続くものだと……。
(……メロウ侯爵に問おう。父親なんだ。セレステの行方について探り当てているかもしれない)
なぜだか僕は、彼女ならこの危機的局面をどうにかしてくれるという強い確信があった。
けれど、呼び出したメロウ侯爵の顔色は悪かった。
「領地や王都のみならず、王国のほうぼうへ手を広げ捜索しましたが、いまだ娘の行方は分かっておりません」
「……そんな……。一体どこへ消えたというのだ、セレステは。彼女なら……この大国の危機を打開する良き手段を導き出してくれると期待していたのに……」
顔を覆い、深くため息をつく。もう一刻の猶予もない。この勢いで市場が崩れれば、下手すれば民は飢え、暴動が起きるかもしれない。税収の激減は軍備を直撃する。貴族らが離反すれば、国は一気に瓦解しかねない。
だけど……僕にはどうすればいいのか分からない。
父は床に臥し、兄にも相談できない。あてにしていた大臣たちは顔を見合わせるばかりで、誰一人として有効な策を口にしない。
その時、メロウ侯爵が口を開いた。
「殿下、我が国の状況を鑑み私もいろいろと調べましたが、旗振り役となっているのは南東のイルガルド王国にございます。各国の交易網を取りまとめ、アルーシアを通さぬ流れを築いたのも、あの小国だとか」
「……イルガルド……本当に? あんなちっぽけな国が……?」
信じられぬ思いでそう問い返すと、侯爵が言葉を続ける。
「屈辱ではございますが、まずは話し合いの場を設け、彼らの腹の内を探るべきではございませんか。何でもイルガルドには、近頃とみに辣腕を振るう外交顧問がいると聞き及びます。各国の橋渡しを担い結託させたのも、どうやらその人物のようです」
「……外交顧問……」
大層な肩書きに、なんだかものすごく不安になる。間違いなく、僕より賢い人物なのだろう。まぁいい。同席させる大臣たちに話を主導させればいいのだから。
「……メロウ侯爵。貴殿の領地はイルガルドの国境と接しているだろう。あちら側の人間の気質も肌で知っているはずだ。交渉の場で有利に働くかもしれないし、それに……イルガルド側に弱みを見せたくはない。人数を揃えこちらの威を示すために、君にも同席してもらいたいのだが」
少しでも役に立ちそうな人員を確保したくて、僕はそう侯爵に告げた。
彼は目を伏せ、同意する。
「承知いたしました、殿下。微力ながら、お力添えいたします」
その返事にホッとしながら、僕は考えた。
「……そうだ。妃も同席させようか。役には立たないかもしれないけれど、とにかく人数を揃え仰々しく迎えれば、大国の威圧感も増すはずだ」




