35. 告白
思わず肩が跳ねるほど、切羽詰まった王弟殿下の声が響いた。動揺したけれど止まることなく、私は一層早足で石畳を抜ける。もうすぐ馬車寄せだ。とにかく、ここから離れたい。殿下には明日謝罪しよう。盗み見ていたわけではないと……、立ち止まらなかったのは、お二人のお邪魔をしてはいけないと、そう思ったと……。
ドクドクと脈打つ心臓が、張り裂けるほど痛んでいる。ふいに視界が滲んだ、その時。
荒い靴音が迫ってきたと気付いた瞬間、突然強い力で手首を摑まれ、喉がヒュッと音を立てた。
咄嗟に振り返ると、王弟殿下が眉間に皺を寄せ、肩で息をしながら私のことを見つめていた。その漆黒の瞳に、見たことのない焦燥を滲ませながら。
「……なぜ逃げるんだ、セレステ」
「で……殿下……っ」
間近に迫る殿下の瞳を見つめ返した、その時。急に両足から力が抜け、視界がぐるりと回転した。
(あ……あれ……?)
目の前が真っ白になり、殿下のお顔も見えなくなる。
「セレステ……! 大丈夫か!?」
ひどく焦った殿下の声が聞こえた瞬間、私の体はふわりと宙に浮いた、ような気がした。
気力を総動員して目を開けると、目の前にはやはり殿下のお顔がある。……そしてあろうことか、今自分が殿下のたくましい腕に横抱きにされ、そのまま運ばれているのだということに気付いた。
「殿下、担架を持ってまいります……!」
「いい。このまま俺が運ぶ。近くの部屋に連れて行くから、すぐに侍医を呼べ」
「はっ!」
従者と思われる人たちとそんな言葉を交わした殿下が、私の体をしっかりと抱いたまま歩きはじめた。体がふわふわと心地良く揺れる。
「……殿下……も、申し訳ございません……」
自分の声とは思えないほど小さく弱々しい、掠れた声が出る。殿下は私の目を見ると、困ったように眉尻を下げた。
「……君は頑張りすぎだ。いずれこうなるんじゃないかと思っていた。全く……。何度言い聞かせても結局は無理をするのだから、呆れたものだ」
そんなことを言いながらも、その口調はとても優しかった。
しばらくすると、私はそのままどこかの部屋のベッドの上にゆっくりと体を下ろされた。その瞬間、殿下のお顔がすぐ近くに迫り、また心臓が大きく跳ねる。
「すぐに侍医が来る。このまま寝ていろ」
「……はい……」
そう言った殿下は部屋から出ていくそぶりもない。その上ベッドサイドに腰を下ろし、なぜだか私の片手を優しく握っている。
戸惑いながらも、私はおそるおそる口を開いた。
「あの、も、もう大丈夫でございます。本当に……ご迷惑をおかけいたしました。今夜こそ早く休みますので」
そう伝えてみても、殿下は私のことをじっと見つめたまま動く気配がない。
「……殿下……?」
「そんなことを言って、俺がここを去ったら起き上がって帰ってしまうかもしれないだろう。心配で目が離せない」
「ま、まさか。そのような……」
そんなことをするはずがない。ここまで具合が悪くなったのだから、しばらくは横になっていないとさすがに自分でも怖い。
けれど殿下は動こうとはしない。しばらく見つめ合った後、私はそっと尋ねた。
「王女殿下は、よろしいのですか……? ま、まだ庭園で待っていらっしゃるのでは……」
「いや、もう用件は済んだ。お部屋にお戻りになったはずだ。気にしなくていい」
「……さようでございますか……」
言葉が途切れると、殿下は握っていない方の手をさりげなくこちらへと伸ばし、私の髪をそっと撫でた。驚いて固まった後、頬がじんわりと熱を帯びる。
「……セレステ。さっきはなぜあんな風に逃げたんだ」
「……っ、そ、それは……」
何と答えればいいか逡巡しながら、頭の片隅でぼんやりと思う。
(そういえば……殿下、さっきから私のことをセレステって呼んでる……)
いつもは「ラザフォード嬢」なのに。
無意識なのか、わざとなのか。
ドキドキしながら、私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「……お見かけしてつい立ち止まってしまいましたが、お、お邪魔してはいけないと思い……」
「だからといって逃げることはないだろう。何か変な誤解をされたのではと焦ったじゃないか」
(へ、変な誤解……?)
「……大切なお話をされているのかと……」
ためらいつつもそう口にすると、殿下は静かな眼差しで答える。
「ああ。まぁな。グランハルドの王子殿下から、妹君が俺との婚約を望んでいるから考えてほしいと言われた。もちろん即断ったが、ご本人が俺と直接話したがっていると言われ、さっきやんわりとこちらの気持ちを伝えた」
(……やっぱりそうだったのね……)
さっきの王女の表情を見て、あちらの気持ちは察しがついた。トリスタン王弟殿下は、もう二十六歳。この歳まで独り身でいること自体が王族としてはかなり異例のことだし、さらにこの容姿と才覚だ。きっと私の知らないところでも、数え切れないほどの縁談が持ちかけられているのだろう。
「お断りして、よろしいのですか……? グランハルドは豊かな農地を持っております。永続的な食料の供給を約束してくれるでしょうし、王女との縁組は交易の安定にも繋がるはず……」
「たしかにそうだな。だがそれらの実利は、既に外交の積み重ねで得られはじめている。わざわざ俺がグランハルドの王家と婚姻を結ぶ絶対的な必要性はない。似たような手段なら、他にいくらでもある」
「……ですが……」
戸惑う私を見て、殿下は不満げな表情で片眉を上げた。
「俺がグランハルドの王女と結婚すればいいと思っているのか? 随分と酷だな。俺の気持ちはこの二年間、かなり分かりやすく君に示してきたつもりだが」
(……っ!!)
直接的なその言葉に、息が止まる。
ぴくりと動いた私の指先を、殿下の手が一層強く握った。そして私の目を見つめたまま、その指先をゆっくりと自分の唇へと近付ける。
柔らかな体温を感じた瞬間、彼の低く穏やかな声が響いた。
「……君が好きだ、セレステ。他の女性など、俺には考えられない」
──時間が止まった気がした。
呼吸も忘れ、私は殿下の端正なお顔を見つめる。
自分の心臓の音だけが、耳の奥で激しく鳴り響いていた。
徐々に体温が上がり、あまりの熱さに自分の顔が真っ赤に染まったことが分かった。いたたまれずに逃げ出したくなった時、殿下が小さく笑った。
「……今はもうこの話はよそう。とにかく休むんだ」
そう言って殿下が優しく微笑んだ時、衛兵が侍医の到着を告げ、侍女たちが中へと通した。
私は過労と診断され、運び込まれたその部屋で、そのまま一夜を過ごすこととなった。
殿下は運ばれてきたパン粥やフルーツをちびちびと食べる私をじっと見つめ、食べ終わったのを見届けると、眠りに落ちる瞬間までずっとそばについていてくださった。
その後の一年間も、私は歩みを止めなかった。
共同備蓄や交易路の取り組みは安定し、確かな成果を上げていた。凶作の年を迎えた小国の村々にも滞りなく穀物が行き渡るようになり、また街道を利用する商人たちからは「道が安全になった」と喜びの声が届くようになった。
同時に、各地で交わされた小さな協定が重なり合う中で、条件の不一致や重複による混乱も生じはじめていた。私は各国の要人たちのもとを都度訪ね歩き、状況を整理し、互いに矛盾のない枠組みへとまとめ上げることに奔走した。争いに発展する前に火種を鎮めていったのだ。
こうしてイルガルドは小国同士を繋ぐ拠点として揺るぎない地位を築き、私は外交官としてより重い責任を背負う立場となっていた。
トリスタン王弟殿下には、あの夜以来いまだ明確なお返事はできずにいた。だって私は、ただの平民なのだ。外交官としての地位をいくら確立しようとも、それで王族である彼にどう応えることができるというのか。
けれどその一方で、殿下の揺らぐことのない私への深い愛情は、ますます強く感じていた。
甘く不安定なくすぐったい距離感の中で、私はそこから目を逸らすようにひたすら仕事に邁進したのだった。
そして、外務局に入ってから三年。
これまでの数々の功績が認められ、私はついに上級外交顧問へと任命された。前例のない早さの昇進だと、外務局の同僚たちも驚きつつ祝福してくれた。
さらにその働きに加え、今後の外交官としての地位をより強固なものとするため、私は国王陛下より子爵位を賜ることとなった。




