34. いつの間にこんなに
主席外交官となってから、私はさらにいくつかの国々とのやり取りを主導するようになった。
外交の席で「アルーシアの元王子妃」という肩書きに注がれていた好奇や猜疑の目が、次第に「イルガルドの外交官ラザフォード」という信頼に変わっていくのを感じていた。
アルーシア王国も、さすがに異変には気付いているはずだ。この二年で物資の流れが目に見えて変わっているのだから。けれど、まだ私の存在までは知られていないらしい。イルガルドも周辺諸国も、交渉の詳細や旗振り役の名を大国へと口外することは決してなかった。そのおかげで、私は今も表舞台で思うままに動くことができている。
そんな中で私が次に提案したのは、周辺諸国による共同備蓄制度だった。
干ばつや寒波による不作の年、これまではどこもアルーシアに足元を見られ、さらに不当な取引を強いられてきた。けれど各国が少しずつ生活必需品を出し合い、イルガルドに共同で備蓄すれば、有事の際に融通し合えるのではないか。そう考えたのだ。
各国にとってリスクの少ない試みであることを、私は何度も繰り返し説明し、やがて複数の国が参加を決めてくれた。
実際に共同備蓄が稼働しはじめると、参加国の安堵は徐々に広がっていった。危機のたびにアルーシアを頼らずとも済むという事実が、皆の心に確かな自信を芽生えさせたのだ。
その成功を土台に、私はさらに踏み込んだ提案を行った。共同交易路の整備である。
各国との物資のやり取りは、徐々に大掛かりなものになっていた。安全に、確実に運べる仕組みを急ぎ整える必要があったのだ。イルガルドが治安維持と路の整備を担い、通行税は最低限に留め、浮いた費用は路の維持に回す。この案もまた慎重に議論を重ね、やがて各国の賛同を得ることができた。
そんなある日のことだった。
新しく稼働しはじめたそれらの事業への対応のため、私は連日深夜まで王宮に残り、仕事に没頭していた。今が正念場だ。トリスタン王弟殿下からは常々「無理をするな」と言われているけれど、今だけはそうも言っていられない。責任ある立場に就き、こうして新事業まで主導しているのだから。全てが軌道に乗るまでは頑張らなくてはと、私は疲れの溜まる頭と体に鞭打つように働いていた。
その日もかなり遅くまで書類を確認し、ようやくきりのいいところで顔を上げ、立ち上がった。その瞬間、血の気が引くような感覚がして、思わず倒れそうになってしまった。
(……連日の睡眠不足がさすがに体にきてるみたいね。今夜は帰ったらすぐに休もう。夕食は……もういいか、今日は)
何か準備してくれていたら申し訳ないけど……などと考えながら、私は外務局の執務室を後にした。そして王宮の回廊を抜け、庭園に面した石畳を通り、馬車寄せへと向かう。
通りがかりに、夜気の漂う薄暗い庭園に何気なく目を向けた、その時だった。ところどころに置かれた外灯が静かに揺らめき、花々や石畳をほの白く照らす中に、トリスタン王弟殿下と一人の女性の姿を認めたのだ。反射的に心臓が大きく跳ねる。思わず足が止まった。
(……あれは……グランハルド王国の、第二王女殿下では……?)
数日前から、グランハルド王国の王子と外務大臣、そして今庭園にいる第二王女が、このイルガルド王宮に滞在なさっていた。件の共同交易路についての話を詰めるためだった。わざわざ第二王女まで同行なさったことに多少驚いてはいたのだけれど……。
(なぜこんな遅い時間に、あのお二人がこんなところでお話をなさっているのかしら……)
すこし離れた場所には、何人もの従者や護衛たちの姿がある。とはいえ、ひどく不自然に感じた。グランハルドの第二王女はまだ未婚で、たしか十八歳くらいだったはず。互いに伴侶のいない身で、もうとうに日も沈んだ時刻だというのに二人きりで話をするなんて。一体どうして……?
言いようのない焦燥感がこみ上げ、私はその場に佇んだまま二人の背を見つめていた。夜空の下、ほのかな明かりに照らされた二人のシルエットは絵になるほど美しく、とてもお似合いに見えた。ふいに王女が、トリスタン王弟殿下の方を見上げた。その愛らしい横顔に浮かぶ甘やかな笑みにハッとした、その時。
王弟殿下が彼女を見下ろし、慈しむような柔らかな笑みを浮かべた。その優しい眼差しが、私の胸を鋭く抉った。指先から体温がすうっと消えていくような感覚とともに、めまいがした。
そしてこの時、グランハルドの王女がわざわざ王子たちとともにここへやって来た理由をぼんやりと察した。
(……いつの間に……私はこんなにもあの方に惹かれてしまっていたんだろう)
この二年間、王国や民を思うあの方の誠実さと情熱に触れ、そのたびに痺れるほど胸が熱くなった。行き場をなくしこのイルガルド王国へとやって来た私を救ってくださったあの時から、王弟殿下はずっと私のことを見守り、助けてくださっていた。私を否定する人々から庇い、無謀ともいえる私の外交案を肯定し、理想の実現に向けてともに歩んできてくださった。何度助けられてきたことだろう。
実直で、頼もしくて、優しくて。
好きにならずにいられるわけがなかった。
二人を見つめたまま呆然と立ち尽くしていると、ふいに王弟殿下がこちらを振り返った。それにつられたように、グランハルドの第二王女もこちらへと視線を向ける。
(──っ!!)
しまった。そう思った私は慌てて一礼し、身を翻して足早にその場を去った。けれど、次の瞬間。
「セレステ!!」




