33. 悔し涙(※sideリリエッタ)
王子妃の私室で、あたしは血が滲むほど唇を噛み締めながら、そのティアラを手に取った。繊細に編み上げられた金細工は波のように緩やかに連なり、その間に散りばめられた無数のダイヤモンドがきらきらと美しく輝いている。そして中央には、大粒のサファイア。今日の日のためにヒューゴ様が作らせエリヴィアに贈ったというそのティアラは、地団駄を踏むほど素晴らしいものだった。
「リリエッタ、早くしてちょうだい。遅れてしまうわ」
エリヴィアが偉そうに私に指図する。ティアラを持つ指先に、思わず力が入った。
あたしは仏頂面のまま、他の侍女たち五人がかりで身支度を整えられているエリヴィアのもとへと、ティアラを持っていく。すると彼女はこちらをギロリと睨みつけてきた。
「ちょっと、あなた何なの? その態度は。つい先日も言ったはずよ。身の程を弁え、態度を改めなさいと。また躾け直す必要があるかしら。今度は厨房で下働きでもなさる? それとも、庭園の整備に加わってもらおうかしら。いっそのこと、お給金をもっと減額したっていいのよ」
「……」
黙って歯を食いしばるあたしのことを面白そうに見つめる、豪奢なウェディングドレス姿のエリヴィア。その後彼女はわざとらしく眉をひそめ、深い息をついた。
「はぁ……まったく。こんな日にまでお説教しなきゃならないなんて。自分の立場を考えなさいな。そんなに小生意気な態度ばかりとるようなら、メロウ侯爵家に返品したっていいのよ。ただし、王子妃のそばで勤めるには不適格な人格の娘であったと噂が広まれば、あなたにはもうまともな縁談も来ないでしょうけれどねぇ」
(こ……っ、この女……!!)
咄嗟にエリヴィアを睨みつけたあたしは、慌てて目を伏せた。もう何度もこうして嫌みを言われては、罰を与えられている。腹は立つけど、罰はもうごめんだわ。
すると、顔に無数の小皺を刻んだ侍女長があたしの背中を指先で小突いてきた。
「リリエッタ、妃殿下の御心を乱すような真似はお止しなさい! きちんと謝罪をして」
「…………申し訳……ございませんでした、妃殿下……」
渋々呻くようにそう言葉を吐くと、エリヴィアはこちらを見ながら片方の口角を意地悪く吊り上げた。
義父であるメロウ侯爵から、このエリヴィアの……第二王子妃の侍女として王宮に上がることを通告された日から、およそ一年半。あたしは椅子に縛り付けられるようにしてやりたくもない勉強をさせられ、侍女として必要な知識を無理やり頭に詰め込まれた。
言葉使い、礼儀作法から始まり、歴史、地理、宗教学、舞踏や詩歌の練習まで。さらには実務能力を鍛えるためとかで、衣装管理の仕方や香水、化粧の知識、文書の読み書きなども。
なんでこのあたしが、なりたくもないエリヴィアの侍女になるために、こんなに苦労しなきゃいけないの!? そう思ったあたしは、ふと思い立ち、途中から覚えることを放棄した。出来が悪ければ王子妃付きの侍女にはさせられないはず。そのことに気付いたのよ。
だけど結局あたしは、王子妃付きの中で最も不出来な、皆からの嘲笑と軽蔑を受ける侍女になった。王宮に上がってからおよそ三月。今や毎日のようにエリヴィアから叱られ、侍女長からさらに厳しく叱責され、そして他の侍女たちから馬鹿にされ、笑われている。
侍女たちの中で、あたしが断トツで家格が上なのに。
屈辱にまみれ、頭がおかしくなりそうだった。
そして今日。その意地悪女エリヴィアが、ヒューゴ様と結婚式を挙げるのだ。
「お時間でございます、エリヴィア妃殿下」
侍女長が慇懃に声をかけると、エリヴィアがゆっくりと立ち上がった。
純白のウェディングドレスには、金糸と銀糸で精緻に施された刺繍が胸元から裾まで流れている。百合や羽根を象ったそれらはため息が漏れるほどに美しく、ふいに引き裂いてやりたい衝動にかられた。あたしは両手の拳をぐっと握りしめ、その衝動に耐えた。エリヴィアはもう一度あたしにちらりと視線を向け、勝ち誇ったように微笑んで扉へと歩きはじめた。その後ろに続きながら、お腹の底にふつふつと怒りが滾る。
もう分かっていた。この女がなぜわざわざあたしを侍女にと指名してきたのか。元々気に入らなかったんだわ。子爵家出身の元々は格下のあたしが、ヒューゴ様の寵愛を得ていたのが。しとやかにふるまいあたしをおだてながらも、その座を奪う機会を虎視眈々と狙っていたんだ。そしてまんまとヒューゴ様の妃の座を得たエリヴィアは、今や毎日のようにあたしに嫌みを言ってくる。自分とあたしじゃ格が違うのだと。ヒューゴ様はようやく目を覚まされたのだと。
大聖堂の前では、正装したヒューゴ様がエリヴィアを待っていた。彼女の姿を目にした途端、ヒューゴ様の表情が輝き、頬に赤みが差す。
「うわぁ……最高に美しいよ、エリヴィア。夢のようだ」
「うふふ、ありがとうございます、ヒューゴ様。あなた様こそ、とても素敵」
そんなことを言いながら笑い合う二人。エリヴィアの背後に控えているあたしは、怨念を込めてヒューゴ様を睨みつけた。この裏切り者。あんなにあたしに愛の言葉を囁いていたくせに。絶対にあたしと結婚するんだって、他の女なんか考えられないって、何度も言っていたくせに。嘘つき。
ふいにエリヴィアとイチャイチャしていたヒューゴ様が、あたしの方に視線を向けた。けれど目が合うと彼は露骨に動揺し、明後日の方を向いてしまった。
(この……! 流されやすくて頼りない、情けないダメ男!! 一生許さないんだからね!! バカ!!)
あたしは屈辱にまみれながら、幸せの絶頂にいるエリヴィアの世話をした。結婚式、祝賀パレード、晩餐会……。深夜にはぐったりとベッドに寝そべるエリヴィアの足までマッサージさせられた。これも絶対にわざとあたしを指名してやらせている。これまであたしがヒューゴ様の愛を一身に受けて浮かれていたのが、よっぽど気に入らなかったんでしょうね。嫌な女。
うつ伏せになったエリヴィアは深く息をつくと、まるで独り言のように言う。
「はぁ……。最近、外交成果が芳しくないそうなのよ。交易で入ってくる品物の質も量も、前より悪くなっているみたい。以前はイルガルドから豊富に届いていた穀物や燃料も、随分と数が減っているとか……。こちらから各国へ出す品々は、値が下がっているようだし。どうしたのかしら。第二王子は外交担当のようなものだから、私がしっかりとヒューゴ様をお支えしていかなくてはね。……まぁ、何の話だかあなたには全然分からないでしょうけれど」
(……足の骨、折ってやろうかしら)
実際何の話だかさっぱり分からなかったけれど、この女があたしを馬鹿にしていることだけは分かる。
エリヴィアは目を閉じくつろぎながら言葉を続ける。
「ヒューゴ様は単純なお方だから……。あなたがセレステ様に虐められていたと言っていたのは全部あなたの嘘に決まってるって、私がちゃんと教えておいたわ。今では私に夢中よ。やはり王家に相応しい妃は、冷静さと知性を併せ持つ、相応の出自の者でなくてはね。分不相応な野心を持つ下々の者なんて、侍女がせいぜいだわ」
「……っ!」
「……ちょっと! 痛いじゃないの。もっと丁寧にやりなさい」
露骨な嫌みにカッとなり、思わず指先に力が入った。
しばらくすると満足したらしいエリヴィアはゆっくりと起き上がり、ガウンを羽織った。
「さ、あまりお待たせするとヒューゴ様が拗ねてしまうわね。夫婦の寝室に行かなくては」
わざとらしくそんなことを言いながら、エリヴィアは夫婦の寝室へと続く扉の方へ向かった。
「後継となる子をなすことも、私の大切な務めだわ」
そう言い残し扉の向こうへと消えていったエリヴィアの背中を、あたしは最後まで強く睨みつけた。
(あたしのはずだったのに……。本当なら今日王国中から祝福されて、王子夫妻の寝室で彼と一緒に眠るのは、このあたしのはずだったのに……!!)
気が付くと、やけどするほど熱い悔し涙が頬を伝っていた。どうしてこんなことに。許せない。ヒューゴ様も、あの女も、これ以上ないほど不幸になればいいのに……!!
セレステがメロウ侯爵家を去って、約二年。
この時のあたしは何も知らなかった。
大陸一の大国であるこのアルーシアが、すでに緩やかに傾きはじめていたことも。これからおよそ一年後、後に引けないほどに追い詰められていくことも。
そして、全く予想もしていなかった形で、あのセレステと衝撃の再会を果たすことになることも。




