32. 小さな一歩から
「──まぁ! お受けしたらいいじゃありませんか、お父様! 素敵なお申し出だわ!」
その後。ルシンダ様は公爵の隣に座り私たちの交渉の内容を聞くと、明るい顔でそう言い両手を胸の前で合わせた。
「……しかしな。アルーシアの目を掻い潜って直接取引など……。大国の機嫌を損ね報復を招くようなことになったらどうする。やすやすとは決断できぬことだ」
そう渋る公爵に、ルシンダ様は無邪気な声で言い募る。
「けれどお父様、今のままでは民の生活はこれ以上向上しませんわ。まずはイルガルドの皆様のご提案内容で取引を始めてみて、そのうちほら、こんな大口の交易ができるようになれば、民たちの暮らしはもっともっと楽になるはずよ」
ルシンダ様はリューデ局長が差し出した交渉案の書類と公爵の顔を交互に見ながら、そう父君を説得してくださる。
トリスタン王弟殿下が、公爵を安心させるような静かな口調で言った。
「イルガルドとしても、軽率に危険な賭けに打って出るつもりなどないのです。互いに無理のない形で、少しずつ信頼と実績を積み重ねていくのはどうだろうか」
公爵の表情が、少し和らいだ気がする。そこにルシンダ様がすかさず言葉を重ねた。
「相手の立場を尊重しながら誠実に行動されるセレステ様が、今こうしてイルガルドのために動いておられるのですもの。それに、王弟殿下をはじめとするイルガルドの皆様も、民を思う真摯なお気持ちでここにいらっしゃっているのですわ。皆様を信じて、慎重に始めてみましょうよ!」
(……ルシンダ様……。まさかこんなに我々の味方をしてくださるなんて……)
それはもちろん公女として、このドラヴァン公国の民たちのことを思えばこそなのだろうけれど、今はこの後押しがとてもありがたかった。
結局この日、ドラヴァン公爵は私たちの申し出を受け入れてくださった。
決まった取引はごく小さな規模のものにすぎなかったけれど、それでも確かに踏み出した一歩だった。長らくアルーシアに縛られていた交易に、初めて別の道筋ができたのだから。
この成果をもって王都に戻った私は、外交補佐官から一段昇進し、正式な外交官に任命された。
これまでよりも責任は重くなったけれど、不思議と恐れはなかった。
むしろ胸の奥で静かに灯りはじめた希望の炎が、私を突き動かしていた。
(今回の小さな一歩が、やがて大きな道となって国々を結びつける。そう信じて全力を尽くそう……!)
ドラヴァン公国との小さな取り引きが実現してからというもの、物事は予想以上に早く進みはじめた。
次に交渉の席に着いたのは、商人の国メリダス自由都市同盟。王子妃時代に築いた人脈を駆使し、どうにか交渉の場を設けてもらうことはできたものの、彼らも最初はやはり難色を示した。けれど、ドラヴァン公国との取引成立などを引き合いに出し説得を続けた結果、同様に小さな交易から始めてもらえることとなったのだ。
交易の輪は、周辺のいくつかの小国へ次々に広がりはじめた。やはりどこの国も、アルーシアの搾取に近い取引条件を不満に思っているのは同じだった。
これらの小さな積み重ねは、やがて西側の中堅国、グランハルド王国への道を開いた。広大な農地を有しながら、燃料や鉄製の農具に不足するこの国も、最初は私たちへの疑念を隠さなかった。けれど、数々の実績を示すことで、次第に耳を傾けてくれるようになったのだ。
これらの交渉の場には、必ずトリスタン王弟殿下とリューデ局長も同席し、ともに相手国の説得に臨んでくださった。
殿下はそのお立場と説得力で、私を力強く援護してくださった。私やリューデ局長だけでは押し切れなかったであろう場面で、彼の一言が空気を変えたことが何度もあった。
こうして各国との交渉や小規模な取引を繰り返す中で、私は新たに一つの提案をした。
それは、イルガルドが周囲の国々を繋ぐ中継拠点としての役割も担うということだった。
アルーシアのように利益を独占するのではなく、物資が安全に行き来できるよう橋渡しをする。その際に最低限の通行税を受け取ることで、交易路の維持や治安の確保に充てることにした。
「イルガルドが望むのは利権の独占ではありません。必要以上の取り分を求めるつもりはないのです。むしろ、いずれは諸国が直接繋がることができるよう、その橋を整えることが務めだと考えています」
そう繰り返し説き、信頼を得ていった。
ドラヴァンから得た鉱石をグランハルドへ、メリダスから届いた織物や香辛料をさらに別の国へ。小国同士が互いに不足を補い合う輪の中心に、イルガルドが立つようになっていった。
そして、外務局に入ってから約二年──。
私は異例の早さで、主席外交官に任じられることとなった。かつて王子妃として培った人脈は、決して無駄ではなかった。イルガルドで積み重ねてきた信頼もまた、大きな力となった。
そして何より、いつも私をそばで温かく見守り、時に強く背中を押してくださるトリスタン王弟殿下の存在があったからこそ、私はここまで歩んで来られたのだ。
尊敬や、感謝の思いだけではない。
この二年間をともに過ごすうちに、私にとって殿下は、誰よりも愛おしく大切な方となっていたのだった。




