27. 後悔(※sideメロウ侯爵)
居間を出た瞬間、私は失望のため息をついた。なんという恥さらしな。このメロウ侯爵家の義娘が、王子妃ではなくその侍女に納まるなど。やはり最下層の女の産んだ娘。ベアトリスの言葉などわずかでも真に受けた私が愚かだった。
ベアトリスと出会ったのは、とある高級娼館だった。
当時、娘のセレステは二歳くらいだったか。元々体が丈夫でなかった妻は、その頃には臥せっていることも多く、私は時折、世俗の慰めに通っていた。
何度か足を運んだ娼館でベアトリスを見た瞬間、衝撃に息を呑んだ。これほど美しい女がこの世にいたのかと。雪のように真っ白な肌に、空色の丸い瞳。蜂蜜を溶かしたような柔らかな栗色の髪は緩やかにうねり、豊かな胸の谷間にかかっていた。彼女から目が離せなかった。
とはいえ、身も心も乱されるというほどのめり込んでいたわけではない。相手は所詮娼婦。ただ気に入りの女の一人として、しばらく指名していただけだ。やがて飽き、その娼館へは行かなくなった。
数年後妻が他界し、一人娘のセレステとの日々が始まった。多少よそよそしくはあったが、父娘としての関係を良くする努力はそれなりにした……と思う。
さらに数年の後、近隣のスコット子爵領との、とある商売の取引が成立した。仕事の話をするために、こちらから子爵の屋敷に出向いた時のことだった。
子爵が妻として紹介してきたのが、他ならぬベアトリスだったのだ。後妻だという。数年ぶりに見た彼女の姿に咄嗟に狼狽を隠したのは、我ながら見事なものだと思う。
彼女は娼館で見せていた大きく口を開ける無作法な笑い方を封印し、貴族夫人らしいしおらしげな笑みを向けてきたのだった。
そのベアトリスとの間の娘として紹介された少女リリエッタは、驚くほどベアトリスに似ていた。あまりの美少女ぶりに感心したものだ。
応接間での話が終わり、子爵の誘いで庭園を歩くことになった。始終ベアトリスがくっついてくるのが妙に気まずく、極力そちらを見ないようにした。しかし、家令が子爵に来客を取り次ぎに来た時だった。すぐに済むので待っていてくれと言われ、子爵とベアトリスは一度その場を離れた。花々を眺めながら一人で待っていると、しばらくして、ベアトリスが一人で先に庭園に戻ってきたのだ。唇に大きく弧を描きそばへと寄ってきた彼女は、私の隣に来ると、小さな声で楽しげに言った。
『──リリエッタは、あなたの子ですの』
その瞬間、冷たい手で心臓を直に握られたような心地がした。……まさか。冗談で言っているのだろうか。だとすればあまりにも不謹慎な。
確認しようとしたが、すぐに子爵がやって来て、結局その日ベアトリスに問いただすことはできなかった。
それ以来、彼女の言葉が頭を離れなかった。一体何のつもりであんなことを言ったのか。思い当たる節がなければ変な女だと不快に思うだけで終わったが、何せ身に覚えはある。あの女のもとに通い詰めていた時期が、たしかにあったのだから。その後子爵に聞き出したリリエッタの年齢からも、一応の辻褄は合う。何度か顔を合わせるたびにリリエッタを観察してみたが、子爵にも私にも似たところが見つからない。とにかくあの子は、母親であるベアトリスに酷似していたのだから。まるで生き写しだ。
ベアトリスと二人きりで話す機会もなく、あんなことを伝えてきた彼女の真意は分からないままだった。不気味に思い不信感を抱きながらも、その後数年間、スコット子爵領との取引は続いた。
やがて子爵が死去し、彼の前妻との間にいる嫡男が家督を継ぐタイミングで、うちとの取引はなくなった。そしてその頃、ベアトリスが私に面会を求めてきたのだった。
嫡男から屋敷を追い出され、娘と共に途方に暮れていると頼られ、心底辟易した。だが彼女は言葉巧みに自分たちをそばに置く正当性、必然性を語った。
まず彼女は、リリエッタとの血縁を盾に攻めてきた。リリエッタがあなたの子であることを証言してくれる、当時の仕事仲間がいるのだと。口外され評判を落とすよりは、大人しく自分と娘を後妻とその連れ子として迎え入れた方がいいはずだと遠回しに警告してきた。
またリリエッタの並外れた美貌について持ち出した。リリエッタには幼少の頃から、多くの好条件の縁談が舞い込んだという。けれど欲を出した子爵が、まだ決めきれていなかったのだと。
『あなたのもう一人のお嬢さんは、第二王子のご婚約者でいらっしゃるのでしょう? その義妹となるリリエッタにも当然素晴らしいご縁が望めるでしょうし、良き家格との縁によってメロウ侯爵家の威光もさらに強まりますわ』
ベアトリスは色っぽく微笑みながらそんなことを言った。さらには、自分が子爵夫人となってから作法や家政の切り盛りの仕方を身に付けたことを強調した。
『お仕事により専念できるよう、お屋敷のことも、そしてあなたの寂しさを癒やすことも、あたくしがお引き受けいたしますわ』
結局私は彼女の要望を受け入れ、後妻として屋敷に迎えた。前妻が生きていた頃から娼館通いをしていたことや、リリエッタの庶子疑惑などを社交界に広められては立場が悪い。ベアトリスの機嫌を損ねることを、私は無意識のうちに警戒するようになった。
だが、結果はどうだ。
彼女たちと実娘セレステの仲は上手くいかず、屋敷の空気は悪くなるばかり。セレステが陰でリリエッタを虐めるのだと、二人からたびたび訴えられ気が休まらない。
王家に嫁いだセレステに子ができず離縁されそうだと落胆する私に、ベアトリスは「リリエッタが王子殿下のご寵愛を得ておりますから大丈夫ですわ」などと嬉しそうに言ってきた。だが肝心のリリエッタは中身が伴わず、王子の婚約者には選ばれなかった。
(……馬鹿馬鹿しい)
あの二人を受け入れて以来、ろくなことがなかった。
ベアトリスから「セレステさんの状況を考えれば、これほど良い条件の嫁ぎ先はない」と提言され整えたハーラン伯爵との縁談を、セレステはきっぱりと拒否した。断固として私の命を拒むセレステとの話は決裂し、あの子はそのままこのメロウ侯爵邸を去ってしまった。
リリエッタが第二王子殿下の婚約者に選ばれなかったことで、冷水を浴びせられたように目が覚めた。今はただ、セレステに対する自分の仕打ちについて、じわじわと後悔の念が湧いてくる。
(もっと冷静になり、父娘二人きりでゆっくりと話し合うべきだった。あの子は優秀な娘なのだ。老伯爵の後妻でなくとも、他にいくらでも良い処遇があったはずだ)
『役立たずの娘は大人しく退場いたしますわ。これまでお世話になりました、お父様。どうぞお元気で』
そう言い残し、私の前を去ったセレステ。母親譲りのその深紫色の瞳には、たしかに失望と悲しみが浮かんでいた。
(……ひどいことをした。たとえ本当に私の血が流れていたとしても、リリエッタとセレステでは全く質が違う。もっと親身になり、あの子の意志を確認してやればよかったんだ)
一度自分の後悔に気付くと、その思いはますます強くなる。私は家令を呼び、命じた。
「……セレステの行方を探せ」
あの場の勢いで出ていくことを決めたセレステだが、生まれてこのかた、侯爵家と王宮の中でしか生活したことのない身だ。そして後ろ盾も、財もない。そう遠くない場所で途方に暮れているに決まっている。
家令が戸惑ったように問うてくる。
「ですが……旦那様。セレステお嬢様が出奔なさってから、すでに幾月も経ってございます」
「まずは領内の修道院を全て当たれ。いるとすればおそらくその辺りだろう」
しかし目論見は外れ、セレステはどこにもいなかった。領内の宿、孤児院や養護施設、その他少しでも可能性のある場所は全て捜索させたが、彼女を見かけたという情報さえ入ってこなかった。やがて王都全域にまで範囲を広げて探し続けたが、結局セレステの行方は分からぬままだった。




