35.終幕 1
夜会の日に行われた司法省のガサ入れと称される事件については、数日後には学院の一般生徒の耳にまで届いていた。
「何でも風紀の乱れた貴族たちに喝を入れるため、王弟殿下が直々に指示なされたとか」
シャルアリーナ・レインの数少ない友人、ディタ・アルファは商家である実家の情報網から世情には詳しいが、真相には至っていない。
「ふーん……」
「相変わらず興味ないのね。学院に通ってる貴族の家も多かったのに」
「だって元々ここは貴族中心の学校だし」
「ま、それもそうね」
「でも意外よね。まさかあのカンパネル・ブライド子爵閣下が……」
教室内ということもあり、ディタはやや声をひそめて言う。
「執行課に抵抗して、一時拘束されるなんて。亡きお父君の負債があるなんて信じられないと動揺して、取り乱しただけらしいけれど」
「謹慎されてるね」
「子爵位を返上して、シルヴィ殿下の側近を辞するそうよ。取立人に逆らってはいけないわね、本当」
「だねー」
自分がすべての顛末を知っていようとは親友でも想像し得ないだろうが、リーナは殊更のんびりと同意する。
ディタの認識が世間の風評であれば、情報工作は巧くいっているのであろう。
「まったく、貴女そんなに疎くて司法省でやっていけるのかしら」
呆れ声でディタが嘆息する。リーナが張り合いに欠けるのはいつものことだが、司法関係で、しかも面識のある人物の不祥事に対しても興味が薄すぎるように思ったようだ。
「結婚するからって、就職を諦めたんじゃないでしょうね?」
「……どうだろ」
微妙な表情を浮かべ、リーナは言い淀んだ。
ほぼ公然の事実となりつつある第三王子シルヴィとの縁談は、確かにリーナの就労を阻む障害には違いない。万が一卒業後すぐに婚姻とでもなれば、官吏になる芽は潰されてしまう。
「わからないものね。結婚なんか程遠いと思っていた貴女が王子殿下に嫁いで、淑女の鏡みたいなライトニア伯爵令嬢が魔法省入りを決めるなんて」
大きく息を吐いて、ディタはもうひとつの噂を取り上げる。
アリアベル・ライトニアの父、ライトニア伯爵が病に倒れ、官職を辞して領地で療養することになったという話だ。
ライトニア家の嫡男はまだ幼い。当面は長女であるアリアベルが魔法省に籍を置き、伯爵家を支える一助となる心づもりだと彼女は語った――すべて伝聞である。
「卒業後のこととはいえ、ご立派よね」
「まあ色々、運の悪い方だね」
二人はしみじみと言う。
学院に象徴される貴族社会とは、何とも複雑で、不条理なものだ。
噂はやがて時の流れと共に薄れゆくだろう。
当事者にとっては、癒えぬ傷が絶え間なく疼くように、長く心に影を落とすのもまた、事実だった。
◆ ◆ ◆
止むを得ず駆り出された執行課が収拾に追われ、ただでさえ余裕のない通常業務と合わせて忙殺される日々も、ひとつの季節が終わる頃に、ようやっと出口が見えてきた。
リーナがシルヴィにより王宮に呼ばれたのは、そんな日々の隙間だった。
周囲はおそらく、正式な婚約に向けた打ち合わせか何かだと思っているだろう。
無論、意味もなく無駄な時間を使わせる相手ではないと、リーナ自身は先刻承知している。
まだ陽の高い時間であったため、リーナは庭園の四阿に通された。先日の薔薇園とはまた別の、もう少し小規模な場所だ。
夜会のように着飾る必要はなく、伯爵令嬢としての品位は失わない程度に落ち着いた装いで、リーナはシルヴィを待った。
供されたお茶に口をつけながら、出会ってからのことをふと考える。彼との繋がりは言ってみれば奇縁である。
リーナが黒羊として銀狼と顔を合わせたのは、執行係にスカウトされた直後だった。指導役などと生易しい立場ではない。
二人は当初からプロとして職務を遂行した。お互いの素性は知らなくとも、実力は認め合う間柄であることは間違いない。ある種の信頼とも言えよう。
リーナが銀狼の正体に気づいたのは、学院で刺客に襲われた時点――彼の剣の腕を目にした瞬間であった。
数多く相棒を務めている黒羊であれば、太刀筋だけで判別できる。きっとシルヴィは最初から隠すつもりはなかったのだろう。求婚の件も、今は単なる縁談避けと勝手に納得している。
にしても……あんな目立つ銀髪の人間がいるはずがないと思っていたが、よもや王子殿下が鬘や仮面を身につけて扮していたとは、さすがに失笑を禁じ得ない。
シルヴィは頼りになる同僚で、似たような価値観を有する数少ない理解者に違いないと、リーナの理性は判断する。
だが、感情の底ではまだ信じ切れていない部分がある。それはリーナ自身が未だ過去の呪縛に囚われ、解放されていないからだろうか。
瞼を閉じればいつも、ただひとりの面影が映し出される。
ゼロアッシュ・テロル――。
『もしもお前が生きる道を望むのならば』
すでに死した亡霊の囁きは、今もなおしつこく耳に谺する。
古い移民の一族特有の青灰色の髪が、リーナの脳裏に浮かぶ。もう彼のように末裔と呼べる程血の濃い者は、殆どいないだろう。
僅かに残った伝統だけが、この国に彼らが存在した証左である。ゼロアッシュ亡き後、それを受け継いだ唯一の者として、リーナは縛られている。
『お前はもうどこにも行けない』
真にリーナが自由を得るために、成し遂げるべき誓約がある。
元より、執行係を引き受けたのは、情報収集やらにその立場が利用できると考えたからだ。
シルヴィはリーナの目的の障害に――有体に言えば敵になり得るのか。
まだ見極めはできていない。
心の奥底で微かに灯る希望はあれど、確信を抱くほどにリーナは楽観的にはなれなかった。
彼は国政に責を負う王子だから。
彼は司法省を束ねる王弟の後継だから。
彼は単なる同僚に過ぎないから。
彼は……リーナの事情など知る由もないから。
言い訳の言葉だけは尽きることなく口をついて出そうになる。自分自身の臆病の理由を、リーナは未だ自覚していない。
【蛇足的設定補足】
司法省の権力(恣意)が強くなりすぎて
問題視されるのは後世になってからです




