ゆかしき古書街、天ぷらの話
先日霜月透子さんから頂いた読書バトンの話で、三省堂や書泉グランデの話をちらりとしました。その折り、明治大学のキャンパスがある御茶ノ水駅から靖国通りまでの神田の古書店街のお話をちらりといたしましたが、忘れられないのは九段下近くの天ぷら屋さんのことです。
名前は伏せますが皇居のお堀がある武道館の入り口からほどなく降ったところにあります。すわ都内で天ぷらと申しますと、料亭や寿司屋のように磨き抜かれた板台にカウンター席があって、主人と客と一対一、揚げた側から食べられるようなそんな高級店を彷彿とさせますが、サラリーマン御用達のごく気やすい名店なのです。ビルの谷間に瓦葺屋根のに二階家が、肩身狭そうにぽつんと建っております。カウンターにコース料理、そんな店ではありません。定食か天丼がメニューと言ったところ、しかし昼食時に行けば界隈のサラリーマンがカウンター側の席に所狭しと並んで順番を待っています。
十中八九の人は頼む、天ぷらの定食は揚げたての白身魚、イカ、茄子をはじめとした野菜天二、三種に濃いめの味噌汁、少し固めに炊いた白米申し訳程度の漬け物が一鉢、と言ったところですが、この満足を求めて日々、仕事人たちが待つのをいとわずやってきます。
一人用の金網に陸揚げされた天ぷらはどれも、とれたてのようなイキのよさ。キレのよい油で衣さっくり、じゅわりと噛めば、火傷しそうに熱いぴちぴちの旨味が、浸けだれの天つゆとおろし大根にまぶされて、沁み出してきます。夢中で食べてしまうのは、うしろの人が今や遅しと待っているからではなく。
温度と油の風味、そして素材、これだけで喰わせる天ぷら、この天ぷらに絶望的に合う白米、火傷を厭わず味わうその旨さを、むしろ『火傷しそうなときにこそ』味わいたいがため、これだけの理由に尽きます。
この店はかつて、母に連れられてきました。信販の会社に就職した新社会人の母が、先輩に教えられてきた隠れた名店。それがその天ぷらの店だったのです。中学生のわたしにこの美味しさは衝撃的でした。天ぷらは熱いうちにこそ食わなくてはいけない。それを教えてくれたこの店、本漁りに、神田へ来ればここへ。
最後に行ったのは2、3年前かと思います。狭いお店は相変わらずでしたが、白髪は短髪の粋な親方はカウンターの隅で、健在。背もたれなしの椅子に座り、天ぷらを揚げる若い後進の弟子たちを指導していました。お店の前はチェーン店のようなメニューを変えたポスターが綺麗に貼られていて。
何にせよ、あの熱い天ぷらがきちんと受け継がれていれば何も言うことはありません。大学生だったころは学校さぼって何でもここでお昼を食べたものです。知らぬうちに界隈には安い立ち食いのお店から、カレー屋さん、サラリーマン向けのお弁当の店まで。食べるところの少なかった古書街は、日々、変貌しています。この秋訪ねたら、どんなことになっているんでしょう。
涼しくなってまた思い入れの場所をめぐるのが、非常に楽しみです。豊穣の秋の始まり、また今年も楽しい出会いがあるでしょうか。思い出との再会に、豊かな期待を覚えながら今夜も乾杯です(`ー´ゞ-☆
(2016年9月3日掲載)




