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楽士伯の姫君は、歌わずにいられない  作者: 汐の音
十四歳篇 学院での日々

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112 一時避難

 エウルナリアはうとうと、とうたた寝をしていた。

 ギィ………ギィ…と揺れる船の音。ゆるやかな流れのなか、船を取り巻く水の音と湿った空気。

 船室の低い天井よりも上、甲板で水夫達の行き交う足音が時折どん、どん…と微かな振動をともなって響く。



 ぱち、と目が覚めた。すぐに起き上がり、(しばら)くぼうっと周囲を眺める。


「あぁ…そっか。夏期休暇が前倒しになったんだ……うぅ。夢にまでみるとか。どこまでトラウマなんだろ……」


 独り言ち、寝台に腰掛けたままサンダルを履いた。編み上げの紐を足首より少し上できゅっと縛り、令嬢のわりには機敏な仕草でスッと立ち上がる。


 ――揺れる船内で歩くのも、ずいぶん慣れた。

 十歳のときから数えて五回目。夏のセフュラ行きは、“バード家の夏期休暇”の代名詞に近い。


 キィ、と船室の扉を内側に(ひら)き通路に出ると、ずっと控えていたらしい栗色の髪の少年と目が合った。かれの灰色の瞳に、ほんのりと温かな光が宿る。


「お目覚めになりましたか?エルゥ様」


 にこり、と微笑む顔に妙に安堵を覚えて、エウルナリアは「うん」と頷いた。久しぶりに感じる水色の従者服――チュニックの裾をくん、と軽く引っ張る。

 ついでに肩を貸してもらった。さながら、立ちながらの枕。


「えぇと……お疲れですね。中、入ります?」


「ううん。いい。そろそろ着くでしょ?甲板出ないと」


 後頭部に添えられた優しい手に安らいでいる自分を振り払うように、できるだけきっぱりと答えた。


 答えは出てるのに直視できず、選べずにいる現状――おそらくは、それに一番参っている。


 だからこそ、あのダンスの翌日。(アルム)から告げられたセフュラの長逗留に一も二もなく飛び付いた。

 父は、気づいていたのかもしれない。


「……ごめんね、レイン」


 つい、口をついて出た言葉にも従者の少年は柔らかく微笑む。


「いいですよ。僕の肩でよかったら、どれだけでも」


 ――あぁ、甘えてるな。昔から変わらず、かれには頼りっぱなし。


 自覚して、目を瞑り、細く息を吐く。

 吐ききって一旦息をとめると、再度新鮮な空気で肺を満たした。――よし。


 ぱっとチュニックの裾を手放し、(もた)れていた身体を離した黒髪の少女はにこっと笑みを浮かべた。


「ありがとう」


 今までとは違う、何かを無理やり飲み込んで綺麗に隠そうとする主の笑顔に、レインは一瞬目をみはったが――すぐ、いつも通りの困ったような表情(かお)になる。

 目の色と口許は微笑。


「こちらこそ」



 時々、レインには自分の考えてることがすべて見えてるのかも……と、半ば真剣にエウルナリアは思っている。




   *   *   *




「……で、こちらに逃げてきたと」


 低く艶めくバリトン。

 美貌のジュード王は執務室で書類に目を通しながら、傍らの椅子にちょこん、と腰掛けた黒髪の少女に声をかけた。表情は弛い。上機嫌と言っていい。


「申し訳ありません、ジュード様…」


 しゅん、と項垂(うなだ)れる仕草も愛らしい。王の隣には近侍の壮年の男性、執務机を挟んで白髪の老大臣も控えていたが、誰も彼女の存在を疎んでいない。むしろ歓迎の色すらある。


 老大臣と近侍の男性は、ふと視線を交わし、こくりと頷きあうと王に向き直った。


「陛下」


「うん?」


「今朝から詰めておりましたし、休憩と致しましょう。折角エウルナリア嬢がお見えなのです。ご歓談なさっては?」


「………ほう…あとが怖いが、まぁいい。甘えさせてもらうか。

 姫?こちらにおいで、(じい)から許しが出たぞ」


 ぽんぽん、と膝を叩く邪気のない顔に思わず苦笑を漏らすエウルナリア。

 爺と呼ばれた老大臣と近侍の男性は、微笑ましいものへと注ぐ類いの視線を残し、「ごゆっくり」と去ってしまった。



 遠ざかる、南国のサンダルの足音。

 幾何学模様の格子窓の向こうには、レガートより青く光のつよい空が広がっている。窓辺に立てば、セフュラ湖のうつくしい蓮の花で目を楽しませられるだろう。

 しかし、少女は動けずにいる。



「……どうやら、重症のようだな。()しからん」


 フッと、笑む気配が(うつむ)く少女の頭上から零れる。と、同時に勢いよく、かなり豪快に抱き上げられた。視界が揺れ、重力の中心を失った体がぐらりと(かし)ぐ。


「え?ぁあ、あの!ジュード様っ!??」


 慌てふためき、エウルナリアは咄嗟に国王の首にぎゅっとしがみついた。膝の裏と背中から脇の下を固定されているとは言え、ジュードの身長でこれをやられると怖い。それに……


「私、もう十四歳ですよ?秋になれば十五です!いくらなんでもっ…!」


「――そう。年頃の乙女だな。だからこそだ。姫の周りは、そんなにがっついた男しかいないのか?…さ、話してみろ。話さんと無理やり妃にするぞ」


 ぐっと押し黙る少女に何かを察したのか、口の()を片方だけ上げたジュードは、言葉の後半を甘い低音でささやいた。

 観念したエウルナリアは、か細い声音で。けれど、はっきりと答える。


「妃は、だめだと思います」


「……」


 束の間、絡む青と紫の視線。

 ――ジュードは破顔した。


「ふっ…あっはははッ!そうかそうか。では、場所を移すとしよう」



 セフュラの主が、みずから異国の令嬢を腕に抱いて白亜のキウォン宮を闊歩する。


 年に一度は見られる光景である。

 すれ違うもの達はみな「あぁ、またか…」と、風物詩でも見るように、概ねほのぼのと目を細めていた。


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