110 ダンスの時間(前)
学院の中央講堂は、一階が入学式を執り行った大講堂、二階がダンス用の舞踏室になっている。
レガティア芸術学院に技を修めにやって来たもの達にとって、貴族社会は切っても切れない関係にある。美術科と音楽科の一般共通科目が、いわゆる王候貴族らの教育水準と同様なのはそのためだ。
ゆえに、国内外の王家や貴族の子息らが就学先にレガティアを選ぶことは多い。
本来の建学精神とは異なるものの――何といっても戦の影がなく、大陸中央にあって往来しやすい。おまけに人脈も築きやすいとあっては致仕方なかった。
芸術家にとっても支援者を得るためであったり、演奏家にとっては正に仕事場であったり……
“社交”という一面において、舞踏は避けては通れない分野である。
「そう、理解していたのだけど……」
「ん?どうした、エルゥ?」
「…どうして、ドレスじゃないの?」
―――昨日、アルユシッドを教師に迎えて夜までみっちりレッスンをこなした甲斐もあり、エウルナリアとレインは危うげなく午前の一時間を過ごせた。
今は二時間目。各自控え室で順に着替え、正装を整えたものから再び舞踏室に戻っている。
エウルナリアは昨日と同じ、淡い菫色のイブニングドレス。
話す相手は、実に着なれた様子で燕尾服を纏っている。きりっとして理知的な彼女には、儀礼的な白のタイもよく似合う。
タイの似合う少年に見える彼女――ロゼルは、ふ、と口の端をあげた。深緑の瞳には、面白がるような光が宿っている。
「見たかったの?私の女装を」
「女装……?うーん…見られれば、それも楽しいけど……いえ。ほら、だってダンスだよ?正式に招かれることもあるでしょ?」
「……あぁ、あるな。でもそれはそれ。今日はエルゥと踊りたかったから。大丈夫、女性のステップもできる。教えてあげられるから安心して」
にっこり、と笑う様はまさに貴公子。
周囲で「きゃあっ…」と、少女達のさざめく気配が伝わった。
「…ん。そっか、ありがとう……」
ゆるく首を傾げ、おっとりと微笑むエウルナリア。遠巻きに、若干低い声で少年達がざわついている。
「あの……お二方。少し端に移動しませんか?徒に、その…場を騒がせていると思うんですが」
コツ、コツと靴の音が近づいたあと、結い上げた黒髪の斜め上、うしろの方から申し訳なさそうに涼しげな声が響いた。「レイン?」と令嬢は嬉しそうに振り向く。
かれもまた、燕尾服に着替えている。
涼やかな灰色の目許に、すっきりとした立ち姿。黒と白の装いがとてもよく似合う。少年期特有の儚いうつくしさが清艶でもあった。
皺一つない黒い背に、後頭部でシンプルな黒の天鵞絨のリボンで括られた栗色の髪が、腰の高さで揺れている。
レインはそのまま歩んで可憐な主に寄り添うと、ドレスと同色の手袋を付けた小さな手をそっと取った。
途端に周り中から静かなため息が漏れ聴こえ、さざ波のように広がる。
ロゼルはそれらを黙殺しつつ片眉をあげ、《外見詐欺》の名を欲しいままにする栗色の髪の従者をじっ……と見つめた。
視線を受けたレインは「?」と首を傾げる。
「ロゼル様?…どうか、なさいましたか?」
主と違って、みずからの容姿を熟知している少年の眼差しは、温和なようであくまで冷静。
周囲を騒がせるというならば、主従が揃ったときこそ、最も反応は大きかったのだが…――
と、そこまで考えて男装の少女は目を瞑り、ゆっくりと頭を振った。
――当の本人達が動じていない。心配は無用かと、しずかな深緑の視線を再び主従に定め、微笑む。
「……いいや?何も。
じゃ、こっちにおいで。エルゥ、レイン」
くい、と顎で行き先を指し示す。無駄のない動きで踵を返した。




