第二話 朝から晩まで働く理由
朝は、コンビニの裏口から始まった。
まだ空が薄暗いうちに、段ボールを運び、床を拭き、
誰も見ていない場所で誰かの朝を支える。
昼は、建設現場だった。
ヘルメットの下で汗が垂れ、
腹の肉がベルトに食い込む。
若い作業員が笑いながら軽々と資材を運ぶのを、
俺は一拍遅れて真似した。
夜は、居酒屋の皿洗い。
油と酒と生臭さが混じった水に、
指の感覚がなくなるまで手を突っ込む。
時計を見る暇もなく、
気づけば日付が変わっている。
俺は、三つの仕事を掛け持ちしていた。
どれも誇れる仕事じゃない。
名刺も肩書きもない。
ただ「時間」と「体力」を削って、
金に換えるだけの作業。
それでも、不思議と苦しくなかった。
むしろ、少しだけ高揚していた。
理由は簡単だ。
欲しいものが、はっきりしていた。
紅いランボルギーニ・カウンタック。
金額を調べて、
何度もゼロの数を数え直した。
目が眩むような数字だったが、
同時に現実味もあった。
「足りない」
ただ、それだけの話だ。
働けば、数字は縮まる。
そう思える人生は、
俺にとって初めてだった。
居酒屋には、女がいた。
酒癖の悪い女は、
酔うと客に絡み、
怒鳴られて裏に引っ込むと、急に泣き出した。
「なんで、私ばっかり……」
俺は何も言わず、
割れたグラスを片づけた。
泣き上戸の女は、
営業が終わると、
テーブルに突っ伏して嗚咽した。
「夢、あったんだけどね……」
俺は背中をさすりもせず、
ただ黙って聞いた。
推し活で借金まみれの女は、
スマホを見ながら笑っていた。
「この人がいるから、生きていけるんだ」
その目は、
俺のことなど見ていなかった。
誰も彼も、何かを欲しがっていた。
金だったり、
愛だったり、
承認だったり。
俺だけが、具体的すぎるほど具体的なものを
欲しがっていた。
紅いランボルギーニカウンタック
それだけだった。
身体は、正直だった。
腰が痛み、
膝が軋み、
朝起きるたびに、
自分の体が重くなる。
鏡を見ると、
クマが濃くなり、
髪はさらに薄く見えた。
俺は何をしているんだ。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
チビで、デブで、ハゲかかっていて、
若さもない男が、
ランボルギーニを目指す。
滑稽だ。
誰が見ても、笑い話だろう。
それでも、やめようとは思わなかった。
あの女の顔が、頭から離れない。
軽蔑するような目。値踏みする声。
「あなたには無理でしょ」
あの一言が、
俺の背中を押し続けていた。
彼女が俺を信じていなくてもいい。
むしろ、
信じられていないからこそ、俺は働けた。
彼女は、希望じゃない。
原動力だ。
愛じゃない。
燃料だ。
その燃料を燃やしながら、
俺は今日も働く。
朝から晩まで。
紅いランボルギーニ・カウンタックのために。
そしてまだ、自分がどれほど深い場所へ
沈み始めているのかを、俺は知らなかった。




