第1話 キラキラしていた頃
幸子は朝五時に目が覚める。
目覚まし時計はもう何年も前に壊れているが、身体だけは正確だった。
理由はない。ただ、歳を取ると眠れなくなる。それだけだ。
六畳一間の台所で、幸子は湯を沸かす。
一人分の味噌汁。一人分の白米。
「一人分」という言葉に、もう何の感情も湧かない。
テレビをつけると、朝の情報番組が流れていた。
新婚夫婦、初孫、定年後の夫婦旅行。
画面の中の人々は、みな決まって同じ顔をしている。
――幸せそうな顔。
幸子はテレビを消した。
妬みでも、怒りでもない。
ただ、居場所がない音がした。
未婚。子供なし。
誰にも看取られず、誰にも縛られず、
そして誰の人生にも深く入り込まずに生きてきた。
「自由だったのよ」
若い頃、そう言い聞かせていた言葉が、
今は少しだけ、乾いた音を立てる。
食器棚の奥から、幸子は一冊の古いアルバムを引き出す。
捨てようと思いながら、なぜか捨てられなかったものだ。
ページをめくると、
そこに写っているのは――若い自分だった。
長い髪。
少し無防備な笑顔。
世界がまだ怖くなかった頃の顔。
「……なんで、そんな顔してるのよ」
幸子は呟く。
写真の中の自分は、何も知らない。
失うことも、諦めることも、
選択の重さも知らない。
その顔が、
ひどく、腹立たしかった。
「どうして、あの人を選んだの」
「どうして、あのとき逃げたの」
「どうして、全部“まだ大丈夫”って思ったの」
答えは返ってこない。
写真はただ、キラキラしている。
幸子はアルバムを閉じ、深く息を吐いた。
――戻れるなら。
――あの頃に戻れるなら。
説教してやりたい。
泣かせてでも、怒鳴ってでも、
現実を突きつけてやりたい。
「その選択は、あんたを一人にする」
「キラキラは、永遠じゃない」
「時間は、味方じゃない」
そう言ってやりたい。
そう思った瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
立ち上がろうとして、
幸子はふらついた。
視界が歪む。
床が遠ざかる。
「……ああ」
それが最後の言葉だった。
アルバムが床に落ち、
若い幸子の写真が、畳の上に広がる。
その笑顔を見つめたまま、
老婆・幸子の意識は、
静かに、闇へ沈んでいった。




