オルゴール
小学三年生の三上しずくは、とても貧しい家に生まれた。
父親は、しずくがまだ幼い頃に病気で亡くなり、母親はパートタイマーとして朝から晩まで働いている。古いアパートの一室が、しずくと母と、幼い妹の三人の住まいだった。
クリスマスにサンタクロースが来たことは、一度もない。
学校で、同級生たちが「今年はサンタさんが来るんだ」「プレゼント何にしようかな」と目を輝かせて話しているのを、しずくは少し離れた席から冷めた目で見ていた。
「サンタクロースって、自分の親だよ。知らないの?」
そう言うと、周りの子は驚いた顔をしたが、しずくはそれ以上何も言わなかった。
期待するだけ、無駄だと知っていたからだ。
住んでいるアパートは壁にひびが入り、冬になるとすきま風が入ってくる。
クリスマスケーキも、半額シールが貼られた一番小さなものしか食べた記憶がない。けれど、母は文句ひとつ言わず、毎日働いていた。
しずくと、まだ小さな妹のために。
だから、しずくは欲しいものがあっても、「欲しい」とは言えなかった。
十二月に入ってすぐのある日、母に連れられて、妹と三人で新しくできた店へ出かけた。目当ては特売の食品だったが、店内を歩いているうちに、しずくはふと足を止めた。
一角に、たくさんのオルゴールが並んでいた。
大きな木製のものから、手のひらに乗るほど小さなものまで、色も形もさまざまだった。
その中で、しずくの目を引いたのは、透明なプラスチックのケースに入ったオルゴールだった。
中の歯車や小さな金属の部品が、音に合わせてくるくると動いている。
――すごい。
――こんなふうになってるんだ。
そっと耳を近づけると、澄んだ音が胸の奥に染み込んでくる。
――音、とってもいい。
しずくが見入っていると、母が隣に来て、静かに聞いた。
「……欲しいの?」
しずくは、はっとして首を振った。
「ううん。気になっただけ」
そう言って、視線をオルゴールから引きはがし、母と妹の後を追った。
本当は、とても欲しかった。
クリスマスでも、誕生日でもなくていい。ただ、あの音を、家で聞いてみたかった。
けれど、その気持ちは、胸の奥にそっとしまい込んだまま、しずくは何も言わずに歩き続けた。
しずくは、その店の前を通るたびに、足を止めた。
ガラス越しに、そっとオルゴールを覗く。
初めて見たときから、ずっと欲しいと思っていた。けれど、その気持ちは胸の奥にしまったまま、母には言えなかった。
そして、その年のクリスマスイブ。
夕食を終えたあと、母は少し照れたように言った。
「しずく。いつも家のお手伝いしてくれて、ありがとう」
そう言って差し出されたのは、少し大きめの箱だった。
雪だるまの絵が描かれた、白い箱。
しずくがそっとふたを開けると、中には――
あのオルゴールが入っていた。
一番小さな、透明なケースのオルゴール。
その隣には、ささやかなお菓子。
「……え」
声が、うまく出なかった。
妹には、お菓子だけが入っていた。
それでも妹は嬉しそうに笑っていた。
オルゴールは、しずくの宝物になった。
毎日、毎日、ネジを回した。
澄んだ音が部屋に広がり、中の歯車がくるくると回るのを、飽きることなく眺めていた。
母は、そんな様子を、少し離れたところから優しい目で見ていた。
それから一年ほど経った、ある日。
「ねえ、おねえちゃん。私もネジ、回したい」
妹が、オルゴールを指さして言った。
「いいでしょ? おねがい」
しずくは一瞬迷ったが、しぶしぶオルゴールを渡した。
妹は、小さな手でネジを回した。
……バキン。
嫌な音がした。
オルゴールは、止まったまま、動かなくなった。
「なにしてるの!」
しずくは叫び、泣いた。
妹も、大声で泣き出した。
母は二人の間に立ち、途方に暮れた。
顔を歪ませた母親の瞳にも、涙が浮かんでいた。
何度もネジを回したり、逆さまにしてみたりして、耳を当ててみた。
けれど――オルゴールは、もう二度と音を奏でなかった。
その日から、オルゴールは封印された。
あの雪だるまの箱に入れられ、押し入れの奥へしまわれた。
時が流れ、しずくは六年生になった。
学校で、タイムカプセルを作ることになった。宝物を入れて、三十年後に掘り起こすのだという。
何を入れるか、しずくは迷わなかった。
あのオルゴール。
音を失ったままの、小さな宝物。
雪だるまの箱ごと、タイムカプセルに入れた。
三十年後、もし取り出すことができたなら――そのとき、あの音を、思い出すことができるだろうか。
三十年後。
私は、このオルゴールを直していたらいい。
もう音を失ってしまった、あの小さなオルゴールを。もう一度、あの澄んだ音を響かせて。
そして――
妹と、母と、三人で笑い話ができたらいいのに。
「あのとき、びっくりしたよね」
「私、泣きすぎだったよね」
そんなふうに。
壊れたことさえ、懐かしくて、愛おしい思い出として。
……三人、揃わないかもしれないけれど。
しずくは、そっと空を見上げた。
冬の夜空に、冷たく瞬く星。
オルゴールが鳴らなかった代わりに、
胸の奥で、ずっと鳴り続けていた音がある。
しずくは、星に願いをこめた。
――どうか、あの日の音が、もう一度、私たちのもとへ戻ってきますように。




