16.氷解
その後は、エミリア嬢と女官リーナの処遇をどうするかでいろいろと忙しかった。
私は元々二人を罰する気はなかったので、その意思を尊重してもらい、彼女達はしばらくの謹慎で収めてもらった。その結果宰相閣下には土下座で謝罪された上に泣いて感謝された。こうして皆に私が慈悲深い王妃であることを刷り込んでいくのである。ふふん、計画通りだ。
そして諸々が終わったあと、私はリーアム様のお部屋に連行された。テーブルを挟んで、向かい合うようにして座っている。
リーアム様は、静かだった。普段より。
「どうして黙っていた」
口調は優しいけれど、威圧感がいつもと違う。さながら取調べを受ける囚人の気分だ。
「……手紙だけなら、特に害はありませんし、放置しても問題ないと思いました。さすがにドレスを破られたのは贈ってくださったリーアム様に申し訳ないので対処しました」
その判断が間違っていたのだろうか。
「大事にすれば彼女を厳しく罰せざるを得なくなりますし、リーアム様のお手を煩わせたくもなかったのです。私一人でもどうにかできる案件だと思いましたし、実際にドレスを破られた以外にはそんなに被害はなく」
「頬を打たれそうになっていたが?」
「……それで彼女の気が済むなら構いません。ご令嬢の平手打ちくらい大したことありませんでしょう」
リーアム様は眉間に皺を寄せたまま瞼を伏せて、深く溜め息を吐いた。なにか、間違えたのはわかった。少し怯えつつ、彼の反応を伺う。
「貴女は、他人の心配ばかりだ」
「……?」
「貴女自身は、どう思った」
私、自身。思ってもみなかった言葉に、私は返答につまる。
「嫌がらせを受けて、傷ついたりはしなかったのか」
「……敵意を向けられるのは、慣れていますから、今更平気です」
「本当に?」
――本当に?
私の胸中でも、同じ問いが聞こえた。破られたドレスを見たときの、あの胸の痛みを思い出した。
――どうして? 大事なものだった?
だって、あれは。クリスタとアンナが一生懸命選んでくれて。リーアム様が綺麗だって言ってくれて。
――嬉しかった?
嬉しかった……そうだ、私は嬉しかった。他人から受け取るやさしさが、心底嬉しかった。
――だから、それを踏み躙られたと思って、悲しかったんじゃ、ないの?
悲しい? 私が?
「貴女の、王妃として凛としている姿も美しいと思う。だが貴女がいつか壊れてしまうような、そんな不安も感じる。いつでも自然体でいろとは言わない。せめて、私といるときくらい、背負ったものを降ろしてくれないか」
「……王族が、感情を表に出すことは許されません」
「確かにそうだ。私は、王としてではなく一人の男として、貴女が何に傷つき悲しむのかを知りたい」
「……っ、やめてください!」
悲しい、なんて、私が思うわけがない。思ってはいけないの。
「怪我をすれば痛みを感じる。怪我に気づかず放置すれば命が危うい。心だって同じだ。心の傷を見て見ぬふりして放置すればいつか壊れてしまう。誰であろうと、それは同じことだ」
「……」
「私はそんな貴女を見たくない」
がたん、と音がした。私が急に立ち上がったせいで、座っていた椅子が倒れたのだと、頭の隅っこでは冷静に把握していた。
やめて、やめて、と。感情の波が渦を巻いて。そして、ついに決壊した。
「……だって、誰も助けてくれなかった!」
氾濫した感情を八つ当たりみたいに、いつもの真剣な眼差しで私を見つめる優しい人に、ぶつけた。
頭の隅っこにいる、冷静な私が、それは駄目だと叫んでいる。でも止まらなかった。
「私が王妃様にぶたれても、惨めな毎日を送っていても、誰も、誰も手を差し伸べてはくれなかった。だから私は思いました、誰にも頼らず、自分だけで立てるようになろうと」
……私は、誰も文句も言えないくらいの、何を言われても跳ね返せるくらいの強さが欲しかった。
必死で勉強した。賢く、毅然とした、完璧な、美しい王女になりたかったから。
「そのためには、悲しくても、苦しくても、そんなことないって、思わなきゃ、そうじゃなきゃ。だって、苦しいって思ってしまったら、もう私は立っていられなくなる」
私は私の居場所と矜恃のために、そうするしか、なかった。そうして封じ込めたはずのものが、溢れだして、止められない。
「それなのに、今更、そんな事言われても、私はもう泣き方すら忘れてしまったのに!」
がたん、ともうひとつ。椅子が床にぶつかる鈍い音がした。私の座っていた椅子は先程もう既に倒れているから、それではなく。
どの椅子が倒れているのか、視認はできなかった。恐らく、それに座っていたはずのひとの大きな身体に遮られていたから。
伸びてきた手が肩に触れて、引き寄せられた。そうして視界のぜんぶが、彼になって。今までで一番近い距離に頬が熱くなって、思考が止まる。
「シャルロッテ」
心地良い低音が上から降ってきて、心臓が跳ねた。私の背中に回ったふたつの手に力がこもって、私と彼の距離は更に縮まる。
「今まで一人で、よく頑張ったな」
泣きたいくらい、優しい声だった。
――『ロッテ、どうしたの』
『ころんだの』
『大丈夫? 痛くない?』
『痛くないの。ロッテは、もう4歳のおねえさんだから、泣かないのよ』
涙を堪える幼い私を、母は偉かったのね、頑張ったね、って、笑って頭を撫でて、抱きしめてくれて。そうしたら我慢していた涙が全部溢れてしまったのだった――
「リーアム、さま」
本当はずっと、誰かにこうしてほしかった。ずっと、抱きしめて欲しかった。大丈夫だよって、そばにいるよって、言って欲しかった。大好きだったお母様が昔してくれたみたいに。
弱々しくリーアム様の服を掴んでいた手を、ぎゅっと握りしめる。それに応えるように、彼も抱き締める力を強めて。
彼に惹かれていく自分を、ずっと自覚していた。でも同じだけ、ずっと、怖かった。この人の優しさを受け入れるのが。
だって、受け入れてしまえば、私は本当にもう一人では立てなくなってしまうから。
子供みたいに、溢れ出てくるものを堪えることもせず、泣いた。
優しく、けれど力強く私を抱きしめる彼に縋りついて、泣いて、泣いて、何年分かの涙を全部吐き出して、そうして泣き疲れて眠った私を、彼はずっと、そのまま抱きしめていてくれた。




