Feed The Wolf_3
初めて足を踏み入れる樹海の内部はジットリと湿った空気が漂い、独特なカビ臭さが鼻の奥まで届いた。
まるで長年、空気が循環していないような……。
思わずむせ返りそうになる重苦しい空気……。
真昼だというのに内部は暗く、灯したランタンの明かりは深い闇に飲まれ、ほとんど意味をなさない。
おかげで目が慣れるまでに少し時間がかかった。
メノさんの話では「音や明かりは敢えて目立たせる」ようにするという。
樹海の獣達は凶暴だが異常に臆病らしく、基本的に他者との接触を望まないそうだ。
こちらの位置を常に伝え、遭遇さえしなければ突然襲われることもないという。
しかし反対に重犯罪者や狡猾な殺人鬼に襲われる可能性もある。
どちらを取るかと言われれば、後者の方が圧倒的に安全だという。
どこまでも救いのない、恐ろしい選択肢だ。
俺達は一列に隊列を組み、慎重に樹海を進む。
先頭にメノさん、真ん中に俺、そして最後尾にファラ。
一番弱い足手まといな俺をいつでも守れるようにとの事だ。
歩きながら、やたらにわざとらしい大声でメノさんが喋る。
「構わないっ! とは言ったがっ! オレから離れるなぁぁあああ!!!
特にファラっ! キミは突っ走るきらいがあるぅぅううう!!!
生きて帰りたければっ! 勝手はするなぁぁああああ!!!」
メノさんの声は反響することなく静かな闇に消えて行くのだが、なんだか声が大きいというだけで鬼教官のような威圧感があった。
言われて後方のファラがムッとする。
「わーかってるわよーっ! しっ! しょっ! うーっ!」
「キサマ!!!! なんだその言いかたぁぁああああ!!!!
ウマモンの分際でぇぇえええええ!!!!」
ワッ! うるっさっ!
え、ちょ、まって!!
このヒトずっとこのペースで喋る気なのか……?
俺は思わず耳を塞いだ。
先頭を歩くメノさんが喋る度後ろを向くので、間に居る俺には堪ったもんじゃなかった。
「おぃコラァァァアアアアア!!! シーヴゥゥウウウウ!!! ミミを塞ぐなぁぁぁあああああ!!!」
「わっかりましたからぁぁあああ!! わざわざ耳元でぇっ!! オォゴエ出さないでくれますぅぅうう?!」
「いやしかしだなぁぁあああああ!!!! こうして大声で喋っていればぁぁあああああ!!!
まず安全なのだぁぁあああああ!!!!! わかるかぁぁああああああ!!!!」
「あーもぅうっさいわねぇ!! そんな大声ださなくても聞こえてるわよッ! このブサイクバカー!!」
「ブブブサイクゥゥウウウ!?!?! キッサマァァアアアアア!!!! もっぺん言ってみろぉぉおおおおお!!!!」
「何度だって言ってやるわよこのブサイクバカーー!!!!」
「なんだとこのウマザルおんなぁぁあああああ!!!!」
「ああああぁぁああもぅうるさいうるさいうるさいうるさいいイイィイイイヤアアアアアッッッ!!!!!!!」
「おぃシーヴゥゥウウウウウウ!!!!! 耳を塞ぐなと言ってるだろぉぉおおお!!!!!」
沈黙と闇に閉ざされたアニーク樹海。
ここは本当に恐ろしい場所だと、俺は身をもって体感する。
入ってものの十数分……。
俺のメンタルは既に崩壊を始め、この樹海の真の闇に全てを蝕まれ始めていた。
死ぬかもしれない、いや死ぬより恐ろしいことが今ここで起きている。
今すぐ舌を噛み切って死んだ方がマシだ……。
最早そう思えることすら希望のように感じた。
その時だった、丁度俺の脇の茂みがガサッと音を立てて揺れたのを誰一人として見逃さなかった。
全員金縛りにあったように硬直する、一瞬にして不気味な静寂に包まれた。
「……。」
後ろから、息を呑む音が聞こえた…ファラか……。
横に、誰かがいる、殺人鬼、か……。
勘弁してくれ……。
騒ぎを聞きつけて、ソレは近づいてきたのだろうか……。
或いは初めからそこに居たのか……。
鼓動が高鳴る、怖い…何がいるのかわからない恐怖に呼吸が乱れる。
本能が逃げろと訴えている――瞬きもさせないほど、命の危機を伝えている……。
そして耳鳴りを起こすほどの静寂を破って、何かが茂みから勢いよく飛び出した。
え――
「けもの――」
それはきっと本能的に、一番弱そうな俺を真っ先に狩りに――
「シーヴ伏せろっ!」
呆気にとられ足がすくみ、突然の衝撃に思わず目を閉じてしまった。
「いっ……て……。」
…………。
助かった――いや、助けられたのだ。
顔を上げると獣の鋭い牙が、不自然に大きくなったファラの円盾に食い込むのが見える。
それを見て状況を理解した。
襲われる瞬間、ファラが寸でのところで割って入り、俺を突き飛ばしたのだろう。
ところどころ毛が抜け落ちて爛れた、赤黒く醜悪な巨体。
アンバランスに太いゴテゴテの腕、大きな爪と不揃いで歪つな牙、ギョロギョロと血走った眼玉はビクビクと痙攣している。
正気ではない――これが……。アニーク樹海の獣……。
「このっ!」
呆気に取られていると魔法で大きくしたファラの円盾が縮み、バランスを崩したファラが押し負けそうになった。
「ファラッ!」
「馬鹿野郎! 他人の心配している場合か! 早く離れろ!」
「くっ……。」
そう叫んだメノさんの言葉に突き動かされ、俺は這い上がるように後ろへ体を起こして地面を蹴った。
どうせ何の役にも立たないんだ…ならせめて、邪魔にならないところへ――
鋭い金属音が聞こえ、メノさんが獣に切りかかったのだと解った。
思わず俺が振り返ると、あろうことか獣は切っ先を見もせずにその刃を左手で止めている。
そして驚きに目を見開いたメノさんの腕を乱暴に掴むと、そのまま勢いよくファラ目掛けて叩きつけた。
2人は鈍い音と共に吹っ飛び、大樹に打ち付けられて折り重なるように地面に崩れ落ちていた。
「ぅ、いっ……。ちょっと……。早くどきなさいよ……。」
歯が立たない……。
凶暴で悪辣な獣を前に、メノさんの表情が曇るのが見える。
そして苦しそうに声を振り絞って俺に向かって叫ぶ。
「シーヴ! 樹海の外まで走れ!」
そしてウタに伝えろ――メノさんがそう言い終える直前、すでに獣は飛んでいた。
「うっ!!!」
重たい衝撃に全身を打ち付けられ、何が起きたのか一瞬わからなくなる。
気が付くと獣の歪んだ顔が見え、どうやら俺は丸太のように太い左腕で地面に押しつぶされているらしい。
馬乗り、潰れるほどの圧で腹を押さえつけられ、ピクリとも動けない。
内臓が、飛び出しそうだ……。今の衝撃でアバラの骨が折れた気さえする……。
太い左腕を必死に引きはがそうとするが、あまりの太さと脂ぎった体毛で掴むことすらできない。
「はぁ……これ……やば――」
げっ……。息……出来ねぇ……。
ついに獣が握った右の拳を勢いよく振り上げた。
「くっ……。」
思わず目をつむる。
だめだ――
ー 死んだ ー
ふと、ライラの顔が浮かぶ。
ー おかぁさん…… ー
下手な嘘までついて、ギルドへ送り届けた少女。
俺が死に、ライラの母親もこのまま帰らなければ、あの娘は……。
ー 泣 か な い で………… ー
「え……。」
突然、頭に知らない女性の声が大きく響く。
呆気に取られたその時だった。
「ラ……ラ……ちゃ……ん……。」
目を開くと、醜い獣が拳を振り上げたまま――痙攣した真っ赤な眼球から涙を流して静止していた。
「ぁ」
それは確かに、この醜悪な赤黒く爛れた獣が振り絞るように出した、ヒトの声だった。




