夜襲
12/12/2024_改稿済み。
「このステーキ……ぜんぜん嚙み切れないよ~う……。」
ふと、右腕から尋常ではない鈍痛がほとばしり、俺は深い眠りの底からちゃぶ台どんでん返しを食らった。
「いッ! 痛てえ痛てえッ!! なんだ!?」
どうやら寝ている間に、何らかの事由によって前腕伸筋群(手首より下のあたり)がもぎちぎられそうになっているらしいことが反射的に解った。
半ばパニック気味に、掛布団の上に投げ出されていた自分の右腕を激痛の原因から振り払おうとしたところで、痛みの発信源に重たい何かがガッツリ食らいついていることに気付く。
もしや獰猛な夜行性の肉食動物でも寝てる間に忍び込んだのかと思い俺は肝を冷やしたが、しかしよく見れば躾の悪いお隣さんだった。
「ひ、持ってかれる! ちょ、放せッ! このブタッ! 俺の腕は食いもんじゃねえ!」
右腕に食らいついた粋の良い彼女の頭を引き剥がそうと、左手で彼女のおでこの辺りから力任せに押してみたが、しかし彼女の本能に根差した食への執着からか、鋭い犬歯はピラニアかスッポンみたく俺の右腕にしっかりと食らいついており、無理に引き剥がそうとすればその分だけ一層骨身に染みるだけであった。
既に傷口が神経系にまで到達しつつある――激痛に悶える俺をよそに、やがて彼女は眠ったまま眉間にしわを寄せて小さく唸った。
「うぇ……酸っぱ~い……。この肉腐ってるよ~う……。」
「嫌なら食うなよ!」
そんなこんなで、今日は2月1日。
ピヨピヨと小鳥がさえずり、寝室の小窓からは穏やかな風が吹き込んで、カーテンが揺れる度に木漏れ日がサラサラと形を変えていく。
記念すべき旅立ちの朝にふさわしい安らかな情景だが、実際にはなんとも目覚めの悪い夜襲のおかげでさっそく先が思いやられた。
しかしこれから先のことを冷静に考えてみれば、お隣さんが寝ても覚めても生粋のケダモノだったおかげで、ある意味でいい旅の実践訓練になったと言えるかもしれない。
チーさんの話では害獣になるような生き物はこの辺りに殆どいないそうだが、例えばどこかで野営をするとなった場合、やはり猛獣に襲われる可能性をゼロとは捨てきれないだろう。
「痛ってー、最悪だよもう……。変な病原菌とか入ってないだろうな……。一応、村の薬屋で抗生物質でも買ってくか。」
時刻は午前12時を回った頃(地球の感覚でいえば、朝の8時くらいだと思う)。
ファラさんに噛み切られそうになった患部はその表皮から薄っすらと裂け、ほんのりと血が滲んでいた。
流血して赤らんだ右腕の患部を洗面所でしっかりと洗い、リビングの食卓の定位置に腰掛けて独りグルグルと包帯を巻いていると、なんだか鬱屈とした旅立ちの朝になってしまった。
少しして、チーさんが起きてきた。
おはようも無しに、包帯に巻かれた痛々しい俺の右腕を盗み見て、しばし朧気に腫れぼったい瞼で瞬きを繰り返し、だらりと大きなあくびを一つ。
このドルイドなる種族は頭の回転だけはやたらに速いので、恐らく語らずとも俺の身に何が起こったかなど容易に察しがつくことだろう。
「さては、寝込みでも襲ったな。」
「襲われた側なんだけど?」
「ならよし。」
「なにがだよ。ステーキと間違われて噛まれたんだぞ? もう怖くて隣で寝れねえよ。」
「それは赤子の頃からのファラの寝癖でな。わしも昔はよく噛まれた。ほれ。」
冗談はさておきと、チーさんはおもむろに右腕の裾をまくって見せた。
途端に自らの血の気が、全身の毛を逆立てながらズルズルと引いていく。
そこには、癒えてなお痛々しく見える夥しい数の噛み傷が刻まれており、それが全盛期頃のファラさんの残忍性を物語っていた。
「小さい頃のファラは”ひとりで寝るの怖い”ってな具合に泣きついてきてな、ホント子供ながら無垢で可愛いもんだったがね……だが、いざ一緒に寝るとなるとその代償はあまりにもデカかった。」
「おいおい嘘だろ……俺も最終的にそうなる運命だってのかよ……。」
「ま、最悪”片腕一本”で済めばギリ儲けもんだろ。」
「”大赤字”の間違いじゃねえの。」
「それを言うなら”出血大サービス”。」
「面白くねえ!」
どこまでも剽軽で他人事なチーさんを相手に、年甲斐もなく俺の方の血圧が高くなる。
早朝からふたりしてリビングを賑やかしていると、俺の背後で寝室の扉が静かに開き、夜襲のプロフェッショナルがのんのんと顔をのぞかせた。
「んー、おはよ~……。」
「げ、噂をすれば……。」
「おはようファラ。」
ファラさんはふらふらと拙い足取りで食卓まで来ると、ごしごしと気だるげに寝ぼけ眼をこすり、チーさんよりも大袈裟なあくびを一つ。
先ほど取っ組み合ったせいか、めちゃくちゃにとっ散らかった長い金髪は、台風一過を思わせる破天荒っぷりである。
「んー……?」
早朝の挨拶を交わしてすぐ、ファラさんは俺の右腕の異変に気付くと、しょぼしょぼと虚ろな瞬きをして不思議そうにゆっくりと首を傾げた。
恐らく彼女には幼いころにチーさんに手傷を負わせた記憶がある筈だ、俺のこの右腕の包帯を見て、間もなく自分の犯した取り返しのつかない過ちに気づき、自ら謝罪を申し出て、涙ながらに許しを請うてくることだろう。
「しーくん右腕どうしたの? 急に包帯なんて巻いちゃって、新しいファッション?」
「あー……。まあ……だいたいそんな感じですかね、カッコいいでしょう。」
「ふーん。なんか痛々しいね、陰気でダサいから早くやめた方がいいんじゃない?」
「余計なお世話だっつの。」
俺の包帯を見て他人事みたいにあっけらかんとバッサリ切り捨てるだけのファラさんに、俺は虚しい気持ちと陰気な独り言をどこへともなく吐き捨てた。
「ファラ、昨日は良く寝れたかい。」
「んー……あんまりかなあ。」
ファラさんはお腹を大事そうにさすると、どこか具合でも悪いのかげんなりと顔をしかめた。
「夢の中で食べたステーキが腐ってたからかなあ……。なんとなくお腹痛いんだよね。」
――コイツ俺の腕かじって腹壊してやんの(ざまあ!)。
「ははは、ファラさんの事だから、どうせ寝てる間に変なもんでも拾って食ったんでしょ~♪★♬」
「やだなあ、流石に寝てる間まで食べたりしないよ~。さてと、支度支度っと。今日はいよいよ旅立ちだね~! 天気も最高! いやっふー!」
「……。」
俺なりのドロドロな嫌味であったが、ファラさんはコレステロール値の低い血液のようにサラリと受け流し、カラフル水玉模様のパジャマ姿で今日も元気いっぱいに洗面所へ駆けて行った。
「そういえば、なんかナチュラルに会話が弾んでしまいましたけど……結局、昨日は何が起こったんです? なんで急にファラさんが普通に喋れるようになったのか、ちゃんと俺にも解るように説明してくれるんでしょうね。」
「ふむ、キミは話の腰を折って余計な事ばかり思い出すな。」
「進行上大事な事しか思い出してねえよ、いいから洗いざらい全部話せ。」
有無も言わさず役者を席に着かせて、俺は今後の長旅の為にも、昨晩の謎の解明に勤しんだ。
昨晩、異音を聞きつけて俺が駆け付けた時、既にファラさんは倒れていた。
チーさんの話では、ファラさんがバナナを食べて気を失ったことは事実らしいのだが、何の変哲もないと思われたそのバナナにこそ、ちょっとした細工がしてあったという。
副声虫――チーさんがバナナに仕掛けていたのは、ヒトの声帯に寄生して宿主に代わり声を発するという、世にも奇妙な米粒よりも小さい虫。
生涯を通して鳴き声を持たないという副声虫は、成虫になると、自らの寄生先を求めてさ迷う害虫と化す。
やがて寄生体を得た副声虫は、宿主の声帯から発せられた振動を自らの鳴き声として緻密に再現することで、交尾の相手を呼び寄せようとする矮小な生き物らしい。
また、その寿命は約2年と同サイズの虫の中では随分と長いのだが、さらに宿主を得た場合には、宿主の摂取している栄養の一部を常に吸収し続けるため、宿主と共にある限り半永続的に生き長らえるという。
つまりファラさんが声帯から発している”声”は本人のものではなく、飽くまでも彼女の声帯に寄生した副声虫が反復して鳴らしている副音声であるため、業苦の干渉を逃れることが出来る――というのがカラクリなのだとか。
ここまで事情を聞いた限りだと”毒を以て毒を制す”という耳障りの良い感じなのだが――。
「だが、ちと問題もあってな。」
チーさんは小難しい顔でギュッと苦虫をかみつぶした。
「まあ、そうだろうな。そうじゃなきゃもっと早く試してたんだろうし。」
俺はため息を吐いて考えるのをやめた。
「副声虫に寄生された本人に自覚は無いが、しかし周囲から見た場合に明らかな変調が訪れる。」
「ははは、今よりもっとアホになるとかっすか?」
「正解。」
「ははは、それはウケるー。」
投げやりに口をついた自分の冗談が馬鹿らしくなって俺は吐き捨てるように笑ったが、しかしチーさんの目はスンと黒く、表情は厳格そのものであった。
「え、まじ……?」
「まじ。」
一周回って逆に冗談かもと期待したが、しかしチーさんの目はスンと黒く、表情は厳格そのものであった。
「本気?」
「本気。」
「まじかー。」
――マジだった。
「それと、食いしん坊にもなる。」
「いまよりもっと?」
「いまより”もっと”だ。」
「それは、ちょっと……。ヤバすぎんだろ……。」
要するに、副声虫に寄生されたファラさんの脳みそは、食欲旺盛で尚且つ残忍極まりない全盛期まで幼児退行してしまったのである。
「だから言ったろ”誰かを傷つけるとしても”と。」
「その誰かって主に”俺”じゃねーか、ざけんなよ。おかげでこちとら朝から血まみれぞ。」
俺はこれ見よがしに右腕の陰気でダサい包帯をチーさんの顔の前に突き出したが、チーさんはプイっと顔を逸らし、遂には、天井を無意味に忙しなく飛び回る小バエのことを目で追い始めた。
「まあそんな感じで副声虫は――。」
「おい、話逸らすなよ。あとこっち見ろ。」
「露骨ではた迷惑な害虫だから、元来、副声虫は寄生後すぐに周囲のヒトにも気づかれてしまってね。即刻、寄生者から取り除かれてしまうというのが、奴らの悲しき定めなのだ。」
「じゃあつまり、ファラさんのアホっぷりが嫌になったらいつでも取り除けると。」
「そう早まるでないわっ。」
もはや業苦の解消法がどうだとか言っている場合ではなかったが、しかし元々の大義を忘れて目先の問題に寄り目がちになっていた俺のことを、ここにきてどのツラ下げてか、チーさんは冷静に窘めようとしてくる。
「そもそもの話、わしが遠方にいながらファラの声をシャラプで封じておくとなると”何かの拍子にわしが死んだり、シャラプを維持できなくなるほど衰弱した場合にどうなるか”キミにも想像が出来るじゃろう。」
「いや、まあ……。あんまり考えたくないっすね……。」
「それからね、既にシャラプは解呪したの。今から病院に連れて行って副声虫を取り除こうものなら、キミはわし同様、世界中のヒトビトから一生涯恨まれるお尋ね者だぞ。もう崖っぷちよ、崖っぷち。一寸先は、ダークッ!」
「ちっくしょ~ぅ……なんで俺はこんな家に拾われてしまったんだあ~……。」
今更ながら自らの置かれている状況を理解し、逃れようのない運命を前に俺はめまぐるしい眩暈を覚え、飽くなき絶望と共にテーブルにガツンと突っ伏した。
良い方向に考えれば、確かに俺たちの希望通り、ファラさんは好きなだけ喋れるようになった。
しかし誰にも望まれていないというのに、生粋のアホならびにブラック・ホール並みの食いしん坊になってしまった。
メリットとデメリットのギャップの開きがあまりに大きすぎて、ファラさんが喋れていることを素直に喜べないダメな自分がいて、今日は旅立ちの朝だというのにネガティブな自分が嫌になるこの状況に輪を掛けて最悪なのが何の相談も無しに独断と偏見で無謀な計画を強行しやがった目の前のこのドルイドくそじじいと来たもんだ。
ファラさんの業苦のこと、ファラさんのお母さん探し、俺の記憶と奇跡の謎、夢に見る光の世界のこと、主にファラさんの食費による金銭面の不安、あまりにも身近にある夜襲のリスク、初めての土地で初めての旅……謎と問題は山積みのまま、さらなるアクシデントが真っ黒な雪となって降り積もり、いつ雪崩が起きてもおかしくない警戒レベルにまでその嵩を増してきている。
「あーもー逃げてえッ! 全部嫌だあッ! コケーッ!」
冷静沈着に、出来るだけ早く的確に問題解決に当たりたいと内心では思っているのだが、現時点で完全にメンタルがキャパオーバーとなり、俺はガシガシと頭を掻きむしって訳も解らないまま朝鳴きの雌鶏の如くみっともない奇声を上げた。
するとなんとなく今ならなんでもやれてしまう気がしてきたので不思議である。
「ちょっとなに……? 朝っぱらからドス黒い奇声あげてどうしたの?」
やがて洗面所から戻ってきたファラさんは寝ぐせも綺麗さっぱり整って、頭の中はさておき、外見はいつも通りの凛々しく頼りがいのあるお姉さんだった。
今はまだ間抜けなパジャマ姿だが、あの自己主張の激しいピンク色のドラゴンのへんてこなワンポイントが至る所に施された勇ましくも可憐な旅装束にひとたび着替えて外へと繰り出せば、道行くヒトビトの視線を色んな意味で忙しなく釘付けにすること間違いなしであろう。
「あはは、ちょっと旅に出る前にいっちょ自分を鼓舞しとこうかなって思って。」
「ふーん。でも、踏んづけられて内蔵が破裂した悲惨なニワトリみたいな声だったよ?」
泣きっ面に蜂であるところの俺に対して、オブラートにすら包まずに山盛りで提供される彼女の感想は、先ほどから毒舌とか辛辣を通り越して例えるならハリケーンそのものである。
恐らくは、言いたいことをハッキリ言う性格というより”思ったことは思考より先に何が何でも口つっ走る”という――それこそが元よりファラという女性の本質だったのだろう。
副声虫の副作用のことも加味してもなお余りある饒舌っぷりは、良くも悪くも世渡りが上手そうであるが、しかしファラさんが喋れるようになったことで、俺と彼女とでは根本的に会話の嚙み合わせが悪いことに俺は気付いた。
「おかげでスッカリ目さめちゃった。」
「ははは。」
とりあえず笑っとけ。
「なんか昨日いっぱい寝たからかなあ、すっごいお腹空いちゃったあ……。出かける前にしっかりスタミナチャージしないと!」
「朝飯は必要ないぞ。」
「え?」
ファラさんが勝気にパジャまくりをすると、チーさんはおもむろに席を立った。
「おや、言っとらんかったか。マラク君と話してな、今日は出発前にグッドシャーロットで、お前たちのお別れ会をやる予定だ。」
「お別れ会!? てことは美味しいもの沢山あるよね! やったー!!あたしタダメシって大好きー! カニグモの丸焼きとかあるかなあ!」
ファラさんがぱあっと見開いた目には3,106カラットを優に超えるダイヤモンドがキラキラと浮かぶ。
「ランボーブラボーブラダンボー!!」
さらにパジャマ姿のままドタドタと家じゅうを踊り狂ったが、その姿はさながらご馳走を前に感情を抑えきれなくなった犬のようだ。
「ほら、キミも他人事みたいな顔してないで、さっさと身支度を整えなさい。」
そんなファラさんを白い目で追っていると、今度はチーさんが俺に釘を刺す。
「もうすぐ出発なんだから。」
「あ、そっか。もう旅立ちかあ。」
「ランブラダンボーブラダンボー!!」
「なんか今ひとつ、気乗りしねえなあ。」
――というか、やっていける気がしない。
始めたゲームは最後まであそばないと。




