Deathbeds_9
間もなくお昼時、外へ遊びに出た子供達もそろそろ帰ってくるかという頃――ふと気が付くと、あれから二時間が経過していた。
僅か、二時間。
けれど私にとってそれは時間の流れすら忘れるほど、あまりに果てしない虚無だった。
二度と、ウチに来ないで――そう突き放してから、彼は一度も振り返る事無くこの家を去って行った。
そしてどうやら、本当に彼は帰ってしまったらしい。
私の20年の苦しみを「処分する」そう言って、本当に行ってしまったのだ。
あのロケットは、もう、二度と、帰ってこない――それが未だに現実味がなく、後悔とはまた違う、もっと複雑な感情が頭に渦巻いていた。
心にポッカリと穴が開いたような――それが本当に気持ち悪く、胸騒ぎが落ち着かないのだった。
「そうか……。キミのロケットを、彼が……。」
「……えぇ。」
私はキッチンで、釜戸に掛けた鍋の中のカレーを時おり焦がしそうになりながら、先ほどまでの彼とのやり取りを延々と繰り返し思い出していた。
グルグルと、グルグルと――
延々と、延々と、何度も何度も――
その虚無を、かき混ぜながら――
「キミは――本当にそれで、良かったのかい。」
「……。」
「まぁ、もう済んだことか……。」
彼が去り、どこか綻びた様に、家の中の空気は穏やかになった。
ようやく部屋から出て来た旦那も、今はリビングの椅子に腰かけ、落ち着いた様子でタバコを吸いながらグラスのお酒に口を付けている。
そんな旦那と話をしながら、私は子供たちが帰って来る前に昼食の用意をしていた。
けれど――居てもたってもいられない。
どうにも気分が落ち着かない。
何か手に着けていないと気が済まない。
なのに、今は何も手に着かない。
そんな状況でもまだ、習慣の一つとして「家族の昼食の用意をする」という行為は、私の気分をどうにか紛らわせてくれていたと思う。
彼が去ってからの私というのは、そんな状態だった。
「「ただいま~!」」
「おう、おかえり。」
「アタシお腹ペコペコ~!!」
「かぁちゃんご飯なに~?」
「カレーよ、もう出来るから、手洗ってらっしゃい。」
「「は~いっ!」」
そうしてただグルグルと鍋の中身をかき混ぜていると、慌ただしい足音と共に子供たちが帰って来た。
澱んでしまった家の空気を入れ替えるように、いつもの賑やかな笑い声に家中が包まれる。
無垢な子供達の帰宅で、やっと日常が戻ってきた――そう思えた。
そんな子供たちは私の指示で、さっそくお風呂場へ手を洗いに行った。
「――あそうだ! かぁちゃん、はぃコレ!」
「え?」
不意にフィルがパッと振り返り、嬉しそうに私の所へ駆け寄って来て、ポケットから何かを取り出した。
私に向けて差し出されたそれは――
「さっきクソタロウ兄ちゃんが公園に来てね、大事なものだから、かあちゃんに渡してくれってさっ。」
「……。」
私の、ロケット――彼が、持ち帰ったはずの……。
「どう……して……。」
「……かあちゃん? どうしたの?」
「え……。あぁ……。――ありがとう。」
なにを――お礼なんて……言ってるのよ……。
けれど気が付くと、私の手の中にはもうそのロケットがあった。
でも、なんで、どうして――もう、何も、考えられない……。
「ていうかそれ、母ちゃんのだろ? なんでクソタロウ兄ちゃんが持ってんだ?」
「……。」
「ウィラ……。」
「あ……。いけない……。」
眉をひそめた険しい表情の旦那と目が合って、その妙な焦げ臭さにようやく気が付いた。
突然の事に気を取られた私は、カレーを焦がしてしまった。
手のひらのそれをポケットに仕舞いつつ急いで釜戸から鍋を避けるも、未だプスプスと泡を吹いたドロドロは、既に手遅れのようだ。
仕舞った……。
煮詰め過ぎた――
やっぱり今日は、もうダメだ……。
「……。ごめんなさい、アナタ……。あと、お願い……。」
「……。あぁ……。」
***
手の中のロケットを見つめて、かれこれ30分は経つだろうか。
あのあと私は、カレーの始末を旦那に全て押し付けて、逃げるように自室に駆け込んだ。
あれからずっと、薄暗い部屋の中でベッドに腰掛けて、このロケットをみつめている。
開ける――
それとも……また、捨てる――
――同じところを行ったり来たり。
あぁ……良かった――
なにを。自分から捨てたくせに――
――そして想いは、矛盾する。
リビングからは、旦那と子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
きっと、私の焦がしたカレーを食べて、旦那が笑い話にしているのだろう。
そしてこんな想いを引きずったままでは、この部屋から出るに出れない。
自ら塞ぎ込んだ、そんな袋小路だった。
「もう、どうしろっていうの……。」
ロケットは、ここにまた、戻って来てしまった。
一度は捨てたのに……。
一度は振り切ったのに……。
どうして、戻って来たの……。
「……。」
大切なものだから――あの少年は、フィルにそう言ってこれを渡したという。
「本当に、余計な……お世話なのよ……。」
どこまでも身勝手な彼の振る舞いに怒りを覚えつつも、どうにも上手く彼を憎み切れない自分――それを私は自覚していた。
まるで手のひらで踊らされているように――こうして動揺してしまうことが、彼の思うツボなのかもしれない。
けれどそう思う反面、彼はもう帰ってしまったのだから、本当に私の為を想って、これをわざわざフィルに渡したのかもしれない。
そうも思った。
「そうまでして、私にこれを……。」
そしてそれを抜きにしても、内心ではまだ、私は揺れ動いている。
本当はどうしたいのか――どうして、捨てきれないのか。
あの時、彼にコレを持ち出されそうになって、どうして私は動揺したのか――
手元からコレを失って、どうしてあれほど――
まだ私は、コレに未練があるの――
「だから、捨てたんじゃない……。」
けれどコレは、これからの私にとって、絶対的に価値のあるもの――彼は私にそう言った。
その彼ももう、ここにはいない……。
コレを開くのも、捨てるのも、決めるのは、私。
閉じないで。まだ、閉じないでください――ふと彼の言葉が頭に過る。
「……。」
これが戻って来た時、安心している自分がいた。
ホッとしている自分がいた。
私にとってこれは、抱きしめたいほど大事なんだと、遂に自覚してしまった。
それは、依存じゃないのか――弱みに付け込み、また寄生しているんじゃないのか……。
それでも私は……逃げたくなんて、なかったんだ――
「えぇ、そうね……。でも結局、また逃げてしまったじゃない……。」
ため息交じりに呟きながら、ロケットの蓋を開く。
その時、不思議と気持ちは穏やかだった。
家族の写真――20年前に止まった思い出を見つめる。
そこに笑顔で佇む、死んだように安らかな私――そう思っていた。
けれど――
「あの頃――私は、生きていた……。」
止まってしまったのは、言うまでもなく、私の時間だった。
そんなこと、解っていた筈なのに――いつの間にか、こんなに遠くまで逃げてしまっていたのだろう。
「あの想いを……取り戻せるのなら……。私は――」
本当にまだ、間に合うのかな……。
けどそうでなければ、彼はこれを私の元へ戻したりなんてしないだろう。
そしてこの中に「これからの私にとって、絶対的に価値のあるもの」があるという。
彼はそれを私に見て欲しくて、これを置いて行った。
「本当に、生意気な子だわ……アナタは……。」
けれど次の決断に、少しの躊躇いさえ無かったことに、少なからず私は驚いていた。
迷いなく、ロケットを逆さにして何度か振ると、そこに嵌っていた写真は簡単に外れ、そしてほぼ同時に中から零れ落ちたのは――
「……紙?」
――紙だ。
幾重にも折りたたまれた紙――どうやらそれは、何かを書き留めたメモのようだった。
ベッドの上に転げ落ちたそれを、親指とヒト差し指でつまみ上げる。
「あ――」
これが、これからの私にとって、絶対に、価値のあるもの……。
あぁ、そうか……。
つまり彼の言っていた事は、こういう事だったんだ……。
「き――」
ママ、きづいてくれるかな――
「気付けなくって――」
今この頬を伝うのは、生きている、私の想いだった。
「ごめんね……。リリィ……。」
この密度の心理描写を極力毎日投稿するつもりで書いてるんですけどね、書くためとはいえ、キャラの心理に深く潜るんで普通にしんどいです。
けどストックもない。
そしてこの話、かなり展開遅いでしょ? だから余計に投稿ペースも開けたくないんすよぉ(ゲボォ……




