満ちていく半月
2024/09/02_改稿済み。
――耳鳴。
午後39時――だいたい夜の九時を半分過ぎたころ。
外は歩くものもなく鎮まりかえり、家の明かりはポツポツと少なくなっていた。
遠くから聞こえるカエルの鳴き声にスズのような虫の音が重なる中、唯一動くものと言えば、街灯代わりのスレイヴスコロニーの周りに帰る家もなく飛んでいる羽虫くらいだろう。
俺はひとり、ヒト気のない村の噴水に腰掛けて星空に浮かぶ半月を眺めていた。
ひとり、無垢な水の音色を聴き、この静かな夜を見つめて、先ほどのチーさんとの惨めたらしいやり取りを思い返していた。
――この村でのうのうと暮らしていただけのキミに、家族を守り通せる自信があるのかね。
突如として突きつけられた過酷な未来と、惨めな現実と、己の非力さを痛感すると同時に、俺はいま自らの未熟さを罪深く感じている。
そして、その後チーさんから告げられたある種の願望ともいうべき依頼は、この村での幸せな日々から俺をさらに遠ざけるものだった。
――もしキミがまだ目的も先行きも決まらないというのなら、ファラの母親探しを手伝ってはくれないか。
「旅に出ろ、か……。きっと、初めからそういうつもりだったんだろな。」
ため息、項垂れ、頭を抱えた。
俺はあの家に残れない――ようやく打ち解けることの出来た家族のいる暖かい家に、もうあまり長くは留まれないのだと知る。
今日になってようやく、俺が心を開けた家族。
この一生を尽くして大切にしたいと心から思える幸せとこうして巡り合えたというのに、どうして手放さなければならないのだろう。
また再び、どうして宛のない不安定な日々を漂流しなければならないだろう。
――耳鳴。
どうして、どうして、どうして――俺だけが、俺だけが、俺だけが。
自己中心的な思考回路の周回中、この思考そのものが俺自身の未熟さを体現していると解り、また嫌になる。
「そして結局、俺はまた振り出しに戻されるのか。」
もちろん、チーさんが意地悪を言ったわけじゃないことは、先ほどの話を聞いて理解している。
生まれてすぐお母さんと引き剥がされ、喋ることもできず、村から離れることも許されず、ファラさんがどのような気持ちでこの夜を超え、生死不明のお母さんの無事を願っていたか。
その想いがどれ程のものかなど、俺のような人でなしには量りようもない。
だから、俺のいまの気持ちがどうであれ、ファラさんの力にはなってあげたいとも思う。
――耳鳴。
誰も恨むことなんてできない。
むしろ恨むべきは、俺の――。
「だから、今はそんなんじゃないんだ……。そんなことは……。」
だんだんと卑屈になり、思考の制御がままならなくなっていることに気付き、抱えた頭をぐしゃぐしゃに搔きむしった。
俺の歩いてきた方の暗闇から真っすぐに、犬のようにやんちゃで慌ただしい足音が聞こえてきたのはその時だった。
正体は見ずとも判る、ファラさんだろう。
大きく息をきらせたファラさんは、噴水に腰掛けた俺を見つけてすぐ、猪突猛進に駆け寄ってきた。
俺が遠くに行っていなかったと解り安心したのか、大きなため息をつくと、膝に手をついて粗くなった呼吸を整え始める。
恐らくは風呂上がりにチーさんから事情を聴かされ、間抜けなカラフル水玉模様のパジャマのまま飛び出して来たのだろう。
彼女の表情にはしっかりと汗が滲んでいた。
そしてなぜか肩掛け用のカバンを携帯しており、随分と膨らんで見える。
「ごめんなさい。ちょっと独りで考えたくって、夜風に当たりたかっただけなんです。」
汗だくのファラさんは、首を垂れた俺の髪をくしゃくしゃと雑に撫でまわすと、さっそく俺の左隣に豪快に腰を下ろし”無駄に良い汗かいたぜ”とパジャマの襟元を掴んでパタパタ扇いでいる。
続き、絶賛冷却中の彼女が肩に掛けたカバンからなにかを取り出し、俺に差し出してきた。
手のひら大の円盤みたいなそれは、楕円形のリンゴだった。
要するに”これでも食べて元気出せ”ってことだろうか。
「ありがとう。」
内心"こんなときでも食い物か"と思ったが、慌てて家を飛び出す時でさえ相手の胃袋の心配をしているファラさんを微笑ましく思い、俺は素直にお礼を言って円盤リンゴを受け取った。
お腹はいっぱいだったが、貰ったリンゴをかじって改めて星空を見上げると、なんだか急に、初めてこの世界に放り出されたあの夜の事を思い出した。
――鼓動、鼓動、鼓動。
ドクン。ドクン。と、落ち着いた優しいリズムを、俺は今でも確かに覚えている。
月明かりが微かに届く狭い洞窟で、外から吹き込んでくる風が音を運び、頬の上を滑っていく。
実は月によく似ているだけの模様のない大きな星。
あの日、巨大な光の惑星は、まるで宝石で埋め尽くしたような満点の星空の中で、一際強く俺に光を注いでくれていた。
耳を澄ますと風のそよぐ音はやけに懐かしく、スズ虫の声は、そっと寄り添い歌うように、いつまでもひっそりと泣いてくれた。
――心を開け放ったまま、瞼を閉じる。
もう一度、呼吸、深く、深く。
鼻から大きく長く吸い込み、肺を冷たい空気で、うんといっぱいに満たす。
息を止め、ゆっくりと吐き出すと、五感のすべてが一斉に目を覚まし、例えようのない強い興奮が体の中心から一斉に広がったことを思い出す。
――あの日、俺の身体が、生きていることを叫んでくれたのだ。
目を開けると、少しだけ世界が輝いて見えた気がして、俺はこんな自分の単純さに呆れ、笑った。
キームの笑った顔座とタークの泣いた顔座の間に、星がふたつ流れるのが見えた。
ファラさんは俺の隣で星空を仰ぎながらリンゴをあっという間に平らげると、おもむろに宙を指でなぞり始めた。
彼女が指でなぞったそばから、虹色の線がスラリと浮かび上がり、彼女の指先を辿って何か歪な文字を起こし始める。
『おじいちゃん、別に意地悪したわけじゃないと思うよ。』
そう解読できたかと思うと、虹色の線はすぐに宙に溶けて無くなってしまった。
突然の出来事に呆気に取られたが、俺はすぐにそれが魔法であると理解できた。
あと今更どうでもいいが、字が汚なくて読みづらいんだが。
「そういえば、ファラさんも魔法が使えたんでしたね。」
俺の驚嘆の表情を見て、ファラさんは腕と足を組んで鼻を鳴らし”もっと褒めよ”と得意げに頷いた。
自らの奇跡に当てられたあの時のように気落ちした俺に対し、彼女は呆れるほど平常心だ。
『これは”ドロー”っていうの。お絵描きもできるよ。魔法って便利でしょ。』
ファラさんは得意げに謎の動物の絵を描いてみせたが、その正体が何かはぜんぜん解らなかった。
脚が四本、顔が三つ、亀みたいだけど、なんだ、あれ。
たべっこどうぶつよりも数倍困難な謎々に首をひねった俺をよそに、虹の文字はさらに彼女の指先を追いかけて言葉を躍らせる。
『でもね、おじいちゃんがわたしに使った魔法は、術者本人には使えない。自分で自分の喉は覗き込めないから。』
そう綴って肩を竦めたファラさんは、無理に微笑んでいるように見えた。
「ファラさんは知っていたんですよね、チーさんの考えていること。」
再びリンゴを齧って問うと、彼女は足を組んだまま噴水の腰掛けに両手をついて、スンと急に冷めた表情で小さく頷いた。
「チーさんから事情を聞かされました。ファラさんのお母さんのことも、ファラさんが村を離れたがってたことも。そして、俺がこのままこの村で呑気には暮らせないらしいことも。」
俺の卑屈な言葉に、いよいよファラさんは俯いてしまう。
顔には出さないものの、どうやら彼女も俺に対して抱えている自責の念があったのかもしれない。
わがままで未熟な俺は、彼女に背負わせている罪悪感にさえ気づけずに、なおもこの優しさに寄りかかってきたのだろう。
「きっと初めからそのつもりで、俺のことを助けてくれたんですよね。」
ファラさんは小さく一度だけ頷いて、再び宙を指で、そっとなぞる。
『ごめんね。』
そして、ただそれだけ綴ると、彼女の指先は重苦しく項垂れてしまった。
「いえ、そんな……。謝るのは俺の方で、むしろ礼を言いたい……言いたいくらいなのに……。」
――だけど俺は今、ごめんなさいよりも、ありがとうよりも、言いたいことがあった。
「でも俺は……。」
――ろくでもない人でなしなりに、抱えている想いがあった。
「意味も解らないまま放り出されて、自分の名前も判らない。記憶もないし、家族だっていないのに……なぜだか変な夢のことばっかり思い出しちゃって……。もちろんリンネなんて、みんな似たような境遇なんだろうけど……。」
――耳鳴。
「チーさんは俺のことを、どこまでも自由な若者って言ったけど……だけど俺は”チーさんの思う自由”なんてぜんぜん欲しくなくて。こんなに今が不安で、未来が孤独で心細くなるくらいなら、自由なんて……死んでも欲しくない。ただ、俺はただ……。」
――夢と現実に板挟みにされる苦しみは、解消されないまま浮き彫りとなり。
「大切なヒト達と、家族と……ずっと一緒にいたかっただけで……。」
――影と光、そのどちらも、愛おしいと思えてしまうあまり。
「みんながずっと笑顔でいられて、いつまでも幸せに暮らしていられる場所を、守りたかっただけだ……。」
――嗚咽交じりの喉笛は、ぐちゃぐちゃな灰色の炎に巻かれた。
スレイヴスコロニーが作り出す陽だまりに、拭いきれない黒い染みを落として、俺は黒ずんだ棘まみれの想いを喉の奥に詰まらせながら、それでもなお吐き続けた。
するとファラさんから差し出されたのは、慰め代わりの円盤リンゴだった。
「あ……ありがとう……?」
内心"またリンゴ?”と思ったが、満腹こそが精神安定の要であると信じて疑わない単純教信者なファラさんを責める気にもなれず、俺はごしごしと涙を拭って懐疑的な礼を述べた。
ファラさんは再び宙に文字を書き起こしはじめる。
『大丈夫だよ。』
――その希望に満ちた横顔は、夏風に歌う風鈴ように凛と涼し気で、慈悲深く、どこか懐かしく。
『例えこの場所から遠く離れて、今という掛け替えのない幸せな時間を失うとしても、これからは私がそばにいる。』
――その迷いのない指先は、太陽の光を指し示す羅針盤のように、穢れなく、勇ましく。
『だから"しーくん"は大丈夫。絶対に。』
――そしてなにより、彼女の紡ぎ出す虹色の光の輝きに、俺は近づきたいと思った。
「はなっから、旅に出る気満々じゃないですか。ひょっとして"図った"の、ファラさんなんじゃないですか?」
何の整合性もない説得力皆無の励ましに呆れ、俺は笑った。
つられてファラさんがくすくすと笑うと、不思議ともう涙は流れなくなり、耳鳴りも、喉の棘もすっかり消えていた。
ファラさんはよっと軽快に立ち上がって、俺の顔の前に手を差し出してきた。
宝石のような満天の星空と、これから満ちていく半月に、間抜けなカラフル水玉模様のパジャマと、彼女の満点の笑顔が、壮大な絵画の如く重なる。
「でも、励ましてくれて……ありがとう。」
差し出された手を取ると、全力でここまで駆けてきたその手は、熱すぎるほどほかほかで。
彼女の心の声が、俺の心の奥深くまで、真っ直ぐ突っ走ってくるのを感じた。
――探しに行こう、一緒に。
それは今、どんな真っ直ぐな言葉よりも励みになる、単純な光だった。
〜 オマケ 〜
夜道をふたり並んで歩きながら、俺はファラさんの綴る虹色の文字を相手に、これから先のこととか、旅の計画なんかを話し合っていた。
「そうだファラさん、旅立つ前に、字の練習しましょう。」
『なんで?』
「読めないからです。」
盛大におならをした瞬間に空気清浄機を起動させると、空気が汚染されていることを知らせる赤いセンサーが点滅します。




