バーニーズ・マウンテン・ドッグ
2024/08/31_改稿済み。
「ただいま!」
「遅いぞシーヴ君。」
「ぜえはぁ……ざ、残業だったんです!」
D舎でデブリブタに乗ってレースをした挙句、柵の外へデブリたちを逃がしたキームとタークのせいで、今日は帰りがかなり遅くなってしまった。
駆け足で息をきらせた俺が家に着いたのは、午後36時――地球の感覚で言えば夜の7時頃、もうとっくに夕飯時だ。
「ご飯! まだ残ってますか!?」
「夕飯はまだだよ。間に合って良かったな、けどもうあと10分くらいだが。」
「ひえぇまじかよ! 急げ急げ!」
「早くしないとまたファラに食われるぞ。」
既にファラさんの手料理が幾つも並び、ディナータイムを間近に控えたウン・チー家の食卓を見て、俺は夕飯に遅れまいと慌てて風呂場へすっとんだ。
これほどまでに俺が食事の始まる時間に過敏な理由は、この家に大災害級の胃袋の化身がいるからに他ならない。
食事の時間に遅れた者に食権などない――それがここウン・チー家の唯一にして無二の最低なキングオブ糞ルールだ。
つい最近も、帰宅が遅くなった俺は食事の時間に遅れて食いっぱぐれたことがある。
既に空になった食卓を前にヘロヘロと膝から崩れ落ちた俺を、チーさんは問答無用で”自業自得だよ”と突き放し、主犯格のファラさんはどのツラ下げてか”私を誰だと思ってるのかしら?”というしたり顔でうんうんと相槌を打っていた――あんな惨めで切ない思いはもう二度とごめんなのである。
秒ですっぽんぽん太郎になって、ゆったりとした大きな風呂桶にひゃっほうと豪快に飛び込んで、ようやくふぅっと一息。
慌てた分だけ、まさに炭酸飲料が弾けた気分の圧倒的な解放感。
小窓から覗く空は濃紺。
俺ひとりだけが勝手にお祭り騒ぎだった世界に、今は安心感と静寂が立ち込めて、鈴の音のような虫の歌と、リビングの方からはフライパンを振るう暖かな音が和やかに重なる。
「それにしてもあいつら、最後の最後までヒトに迷惑をかける本当の意味での社会のゴミだったな。」
始末屋さんこと猫背の集団の世話になったキームとタークのせいで、本日のグッドシャーロットは多事多端。
おバカなレースに駆り出されたデブリブタが逃げ出し、さらに担当の作業員がいなくなったD舎には、俺やマーシュさんを含むマラク班の数名が応援に駆けつけることとなった。
とばっちりを食らった全員が全員”キームとターク死ねよ!”と荒みやさぐれブチギレながら作業に充たっていた職場のストレスフルな空気が、このまどろんだ風呂桶の中にいてさえ嫌でも鮮明に思い起こされてしまう。
結局、キームとタークは俺たちに”残業”という名の最悪な置き土産だけを残し、養豚場のテロリスト”ファーマーボーイズ”という、その名に恥じぬダニっぷりを、遂に最後まで貫いてキラリと散っていったのだ。
「始末屋さん、バッドオーメンズねー。俺も気を付けないとな。まぁでもこれからはキームとタークのバカ面も拝まなくて良くなるんだろうし、なんだかんだ良かった良かったキムタクカッター。」
デカいあくびとキムタクカッターをひとつ。
小窓の外で、星が二つ、キラ、キラン、と仲睦まじく流れて、ふと俺は濃紺の空にキームの笑った顔座とタークの泣いた顔座を発見した。
すっかり暗くなった夜空に、これから満ちていくであろう模様の無い半月が、俺のキムタクカッターで微笑んでいる。
星々は、俺のグッドシャーロットでのこれからを祝福し、キラキラとまたたいて希望の讃美歌を奏でているように見えた。
「あばよ、養豚場のテロリスト、ファーマーボーイズ。もう会えなくなると思うと少し寂しいが、でももう二度とこの星に生まれて来るなよ。」
***
「いただきま~す!」
「わしも、いただきます。」
俺が風呂から上がるまで料理が出そろわなかったおかげで夕飯にはどうにか間に合った。
恐らくはチーさんとファラさんが気を利かせて、いつかの食いっぱぐれた俺を不憫に思い、俺の帰りをギリギリまで待っていてくれたのだろうと思う。
現に食事を始めてからのファラさんの情動というのがこれまでの常識を覆すレベルの破天荒っぷりであり、いつも以上に自分の手料理を顔いっぱい頬張っては、三日ぶりにご飯にありついた昭和の苦学生のようにほろほろと嬉し涙を滲ませている。
本能と欲望に忠実で、未熟なファラさんの遠い先祖は、たぶん犬だ。
たしかバーニーズ・マウンテン・ドッグという大型犬は、若い頃は人懐っこくやんちゃで活発らしいので、恐らくそのあたりの犬種が遺伝子レベルで適合しそうな気がする。
そして彼女に対しては、ご飯を”待て”されることや、飯抜きにされることがどんな拷問よりも堪えるのだろう――などと、俺はミートソースのスパゲッティにフォークを刺したまま、鎖から解き放たれた怪物の侵略活動を呆然と見守った。
「そういえばチーさんて収入とかどうされてるんです? 毎日のようにファラさんにバカ食いされても文句のひとつも零しませんけど、そんなに貯えがあるんですか?」
「バカ食いもなにも、言うだけ無駄なのはキミも十分承知だろ。」
「あ、うん。そうね。」
フィルターを取り換えたばかりの掃除機のようにズバズバとパゲッティを吸い込んでいくファラさんを横目に見て、チーさんが呆れる。
ファラさんは自分がやり玉に上げられていることにようやく気が付いたのか、それでもなお、ものすごい勢いで滝を逆流させながら幸せしそうにニコッと笑った。
「わしはハンターを引退してからは、ひそかに作曲家をして日銭を稼いでおる。」
「へー、作曲家ですか。見かけに依らず文学的なんですね。いかにも数独とかやって時間つぶしてそうなのに。」
「ナンプレが何かは知らんが、わしに負けず劣らず、キミの減らず口も相当なもんだな。」
「へへ、どうも。ちなみに今までどんな曲を作ったんです?」
「作曲と言っても、ほとんどお遊びみたいなもんだよ。その中で最高傑作にして代表曲は『闘え、ファイティング・マン』じゃ。」
「へー。」
続けて出かかった”もう死んじまえよお前”という痛快な言葉をそっと胸の内に仕舞い、急に興が冷めた俺はスパゲッティをちゅるった。
「他にも『トリップオア泥ップ』『鼻から吸ってみな』『飛んじゃってロストメモリー』『虹色キノコのカラフル魔法』 あたりもめっちゃ流行った。」
「そんな世紀末みたいなタイトルの曲が流行ったの? まじで終わってんな、この世界。」
「なんか言ったか、世間知らずのガキ。」
「数独も知らないヒトに”世間しらず”呼ばわりされる筋合いはないですねえ。」
「ファラ、シーヴ君の分も食ってやりなさい。どうやら身の程を教えてやる必要がありそうだ。」
「え、あ?」
不意に俺のスパゲッティがふわりと皿ごと浮かび上がり、ファラさんの顔の前にゆらゆら飛んで行った。
ファラさんは”わーい”とお皿をキャッチすると、あっという間に俺のスパゲッティを宇宙へと流し込み、卑しくもぺろりと舌なめずりをした。
「おい! 俺の分食うなよ!」
「ふぉっふぉっふぉ、ざまぁ。どうだ思い知ったか、ブサイクなガキめ。」
「てめえよくも……! ろくでもねえ歳の取り方しやがって!」
チーさんが俺を指さしてダンディに笑い、ファラさんはおならみたいなゲップをして大層満足そうにお腹をさすっている。
「こうなりゃヤケだ!」
だんだんとヒートアップした場の空気に便乗して、俺は気が付くと酒池肉林の覇王と競って食卓の美味をとっ散らかしていた。
なんだか今日は、喧しいほど賑やかだ。
それこそ鬱陶しいくらい、こんなに微笑ましくも愉快な食事というのは、俺にとっていつぶりだろうか。
いつになく気分が高揚して、勝手にぺらぺらと口が回る。
日々のストレスが少しずつ解消されたことで、俺はいま自分でもわかるほどに上機嫌だったが、この賑やかさは”俺の気分”だけが理由なのだとは思わなかった。
食卓を囲む三人の空気がしっかりと噛み合わさって適度に調和しているのを、俺はいま初めて感じている気がする。
この流れる旋律とリズムはまるで、俺という唯一の歯車のズレが整ったからこそやっと生まれた正しさのような、ようやくこの家の空気に馴染み打ち解けたような。
なんともマイルドで心地の良い時間で、自然と安らげる次元の高い空間になっていた。
それは、誰もが当たり前に望んでいるはずの、どこにでもありふれている甘く愛おしい日常の風景だったと思う。
そしてこれからもずっとこんな日々が続いていくのだろうなと思うと、別に何もおかしい事なんてない筈のに、勝手に笑みが零れていた。
***
祭りのような夕飯のあと、お風呂へ直行したファラさんに代わり、俺はキッチンでお皿洗いをしていた。
洗い場に山と積まれたお皿の大半は、もちろんファラさんの平らげたものだ。
キメの細かい麻状の布に石鹸を付けてしっかり磨いてやると、どれもピカピカになる。
「洗剤とかスポンジなんてなくても、案外どうにかなるもんなんだな~。人間なんてふふんふんふふふふんふん♪」
「今日はやけに上機嫌だな。」
文明発達を高速で遂げた地球人類が、科学という名の遅効毒をいかに怠惰に消費し、或いは消費者として良い食い物にされてきたかというありきたりな妄想に浸りながら、俺が呑気な鼻歌交じりに食器を洗っていると、いつの間にか後ろにいたチーさんが声を掛けてきた。
「ところでシーヴ君、そろそろやりたいことは決まったのかい。ここへ来てそろそろ、ひと月になるだろう。」
「そうですね。おかげさまで、段々この生活にも慣れてきました。」
「ふむ。」
俺が悠々自適に笑うと、チーさんは視線を斜め上の方に向けて、僅かに眉間にしわを寄せて唸った。
「キミは自分の先行きについて、どのように考えているのかね。」
「俺の先行き、ですか?」
「初めのころにも少し話したが……まさか、すっかり忘れたなんてことはあるまいな。」
いぶかしげに首を傾げたチーさんが、刺すような視線と共に苦言を溢す。
「いえ、まさか。ちゃんと考えてますとも、もちろん。」
などと誤魔化しながら、俺は今の今まですっかり忘れていたのだが、この時なってようやく、チーさんと交わした些細な約束事をなんとなく思い出していた。
俺がグッドシャーロットで働くことになったきっかけは”俺がこれからどうしたいのかを考える”という目標のためであり、言わば猶予期間みたいなものだったのだが、如何せん仕事やプライベートで死に物狂いのトラブルが多発したたり、また同時にここでの生活がなんだかんだ気に入っていたこともあり、そんな口約束同然のミッションなど俺が覚えているはずもなく、チーさんとの約束は俺の記憶領域から圏外の遥か彼方まであっという間にオーバード・ブーストしてしまった。
「俺はこれから……。」
――俺はこれから、どうしたいのだろう。
ふと言い淀んだのは、そんなこと、微塵も考えていなかったから。
目の前の老人はじっと俺の目を見据えて、俺のこれからの言葉を待っている。
テキトーに会話のテンポを合わせたことも見透かされているように思え、いつもの調子で言い訳がましくのらりくらりとは逃れられない気がして、俺は皿を洗う手を止めて猛スピードで思考回路を巡らせた。
「俺は……。」
――俺は、なにがしたいのだろう。
まるで、明かりも果ても無いトンネルに迷い込んだみたいだった。
落ち着いて考える暇もないというのもあるが、頭の中はズンと真っ暗で、それ以上に暗闇の先を考えて進むことは不可能だった。
そして思う――今の俺に、別にやりたいことなんてない。
――だけど俺は、この村が大好きだ。
グッドシャーロットが、大好きだ。
おバカな先輩たちと汗水たらして一生懸命働くのが大好きだ。
まかないのカレーに入ったあの謎肉の正体を探るのが、明日も楽しみで仕方が無い。
この家で暮らすのが、大好きだ。
野太い声で高笑いをきめる意地の悪いチーさんが大好きだ。
寝ても覚めてもバカ犬な愛くるしいファラさんが大好きだ。
今日みたいに三人で賑やかす食卓が、これからもずっとこんな暖かな日々が続いていくんだと思うと、明日も頑張ろうって前向きな気持ちでいられる。
――だから俺は、ここケズデットの村での素朴な生活を、心の底から愛している。
「俺は、これからもここに居たいと思っています。ずっとここで暮らして、グッドシャーロットで一生懸命働いて、この家で楽しく過ごしていたい。もちろん、俺が働いて稼いだお金は、主にファラさんの胃袋に納めさせていただきます。”俺の先行き”って、それじゃダメですか。」
いつの間にか、心が光の方へと向くままに踵を返し、俺は不気味なトンネルから逃げ戻った。
嘘偽りの無い俺の誠実な回答に、チーさんは納得したのか、無言でコクリと頷いた。
「平和で長閑なこのケズデットの村で過ごし、思考停止して緩やかな時を転がしながら生きる。幸いにも今の時代は争いもほとんどなく平和だからな、それもまぁ、ひとつの生き方ではある。けどここは、キミのように身寄りのないどこまでも自由なリンネにとっては”狭すぎる世界”だと、わしは思うんだ。それこそ再び生きる権利を得た若者にとっては、キミの考え方はあまりに優先順位の低い選択肢だろう。」
「でも俺は、この村の生活でも十分に満足しています。それに、別に何かやりたいことがあるわけでも成りたいものがあるわけでもないです。この村にいられれば……グッドシャーロットのみんなや、チーさんやファラさんと過ごせれば、それで十分すぎるほど幸せですし、他には何も望まない。この緩やかな日々を、平和な生活を守っていきたい……俺の望みは、ただそれだけです。」
「なるほど、確かに欲が無いことはいいことだ。」
どこか納得した様子のチーさんの「欲が無い」という言葉に、俺はホッと胸をなでおろした。
自分以外の誰かから”無欲”だと認められるだけで、俺の思考はなにも間違っていなかったのだと思えた。
けれど同時に、不思議と俺自身に対して詐欺師めいたズルさを感じはじめる。
まるで”俺は無欲なのだ”と自らに言い聞かせることで、自分自身を強制的に肯定させたような、自分の心を騙してしまったような、釈然としない心中。
「だけど無欲なのはね、キミがまだこの家に閉じこもって、外の世界を知らずにいるからでもある。」
そしてどうやら、俺の”継ぎ接ぎの無欲”の正体は、目の前の老人にいとも容易く見破られてしまったらしい。
「キミがこの家で過ごし、安心して眠れるベッドがあるから。どんなに疲れていてもこうして帰れる場所があるから。共に過ごし笑い合える家族がいるから。用意された環境に満たされ、寄りかかって甘えた日々を過ごしているからであり、精神的に自立できていないからに他ならない。」
物言いこそ穏やかだったが、俺に対するチーさんの言葉はここに来てあまりに辛辣すぎて、流石にぐぅの音も出なくなった。
「そ、そんなこと言ったら、ファラさんだって……もちろん、ファラさんはリンネじゃないですけど。でも俺がリンネだからって、チーさんの勝手な価値観を押し付けられても、これから自分がどうしたらいいのかなんて、この世界に来たばかりの俺には解りませんよ。無茶言わないでください。」
焦燥か羞恥か、いずれにせよ、頭に血が上るのを皮切りに、あらくなった俺の口調は、思考を振りほどいて独り歩きを始める。
「キミの人生において、リンネであるかどうかは正直あまり重要ではないんだよ。なにか思い違いをしているのだろうからこの際ハッキリ言うが、わしはキミをこの家にいつまでも住まわせておく気はない、それはキミ自身の将来の為にもね。」
「そんな勝手な……。」
あまりに唐突で冷徹な宣言に、思考の信号はプツンと途絶え、頭が真っ白になった。
もはや目の前の老人が、自堕落な居候に対して日増しに募った嫌悪感を露わにしているとしか思えなかった。
「それからもうひとつ誤解しているようだけど、ファラとキミとでは考えていることがまるで違う。あの娘もこの村での日々を好いてはいるが、村からは出たがっている。以前も話したが、ファラは母親の身の安全を懸念しているからね。一刻も早く無事を知りたいと思っているし、村を出て行方を探しに行きたいと願っている。飽くまで、わしがあの娘自身の為に縛り付けているに過ぎない。色々理由があってな。」
――けど、ここに来てからの俺はどうだっただろう。
「言ったか知らんがね、わしが死ねば、ファラの業苦は解放される。わしのような純血のドルイドは、ヒュムや混血のドルイドに比べれば長生きできるが、わしもせいぜい、あと10年か15年そこらがいいところだろう。シャラプの魔法は術者の気を媒介とするからね、術者の生命力とそのまま直結している。」
――迷惑ばかりかけて、面倒ばっかり押し付けて、ひとりで勝手に気持ちよくなって、今もわがまま放題だ。
「つまり、わしの死と共に魔法が解けた時、どういう事になるのかは想像するまでもない。」
――この家に寄生して、なにも返せてない。
「先ほどキミは、この平和で緩やかな日々と生活を”守っていきたい”と言ったが。果たしてファラの業苦が鎖から解き放たれた時、この村でのうのうと暮らしていただけのキミに……。」
――流されるままこの星に来て、なにも出来てない。
「家族を守り通せる自信があるのかね。」
――この家で、俺だけが空っぽなんだ。
空っぽは、光れる原石です。




