ウサぴょい饅頭
2024/04/02_改稿済み。
快活な鳥のさえずりに意識を取り戻すと同時、自動でゆっくりと開かれていく瞼の外側から、深淵を掻き消すほどの暖かさが、俺の視界に光を注いできた。
天井に立ち込めていた暗雲は見事に霧散し、見渡す限りの懐かしい茶色い天井が姿を現す。
夢にまで恋焦がれた朝が来たのだ。
「ふぅ……。」
食欲を放棄したまま寝すぎたせいか、いつになく上から乗っかる重力が重たかった。
精神の目覚ましい超回復に伴って、肉体面の衰弱を強く感じる。
空腹に胃は枯れてしぼみ、喉が干からびていて、この身体が二つの意味でオアシスを求めている。
そろそろガチで栄養補給しないと、真面目に死ぬかもしれない――肉体の極限状態を悟り、そう思った。
すぐ横に太陽のような暖かさを感じる。
仰向けに横たわっている俺の隣では、性懲りもなくファラさんが寝ていた。
結局、ファラさんは普段通り寝室にやってきて、普段と変わりなく俺の隣で眠ったらしい。
ただ一つ違うのは、今日は俺の方が早起きだったということと、付け加えるなら、未だファラさんが目を覚まさないような早朝の時間だということ。
こちらを向いて安らかに眠る彼女は、掛布団を耳元まですっぽり被っていて、まるで飼い主に寄り添う従順な犬みたいだと、俺は失礼なことをぼんやりと思った。
それと同時に、昨日の俺が彼女に対して働いた数々の無礼を思い出し、キリキリと胸が痛むのを感じ、俺は心のなかでファラさんに深々と土下座した。
ファラさんを起こさないよう静かに掛け布団をよけて、ゆっくりと棺桶から体を起こすと、淀んだ沼のような濁った血液が、ぶわっと一気に全身を駆け巡り、思考はスッとクリアに冴えわたる。
底の見えない死の淵から這い上がってひとり生きながらえた罪人みたく、この精神は研ぎ澄まされ、垢抜けて肝の据わった気分である。
スース―( ˘ω˘)スヤァとスヤヤカに眠るファラさんをそのままに、俺はこころを入れ替え、ひとり静かにベッドを抜け出して、こそ泥みたく物音ひとつ立てずに寝室を脱出した。
誰もいないと思われたリビングには、まるで待ち構えていたかのようにチーさんがひとり、食卓で茶を啜っていた。
ラスボスの魔王みたく重苦しい空気を醸し出す厳格なチーさんに俺の抜き足差し足は易々と見抜かれ、自然と視線が交わってしまった。
物申したげに表情を強張らせたチーさんと目が合うと、大きく堂々としていたはずの俺の気は急に怖気づいて萎縮し、先ほど自らが獲得したと感じていた漢らしさや自立心が、いよいよ錯覚であったと思い知らされる。
その動揺が徐々に自らの足に伝い、俺は自分の意志とは無関係に硬直した。
「あ……おはようございます。」
「おはよう、流石に良く寝れたか。」
「はぁ、どうも、おかげさまで……。」
落ち着き払ったダンディな声に、極まりが悪く視線を泳がせるも、食卓の方からは依然、ジリジリと神経質な視線を強く感じる。
食卓から放射状に伸びた視線は透明のまま粘性の膜となり、ブワリと広がって俺の全身を呑み込むと、あまりの重苦しさに鼓動を乱した俺の心臓へ、咎人の焼鉄を押し当てようとする。
どっしりと腰を据えた冷静沈着なチーさんが、この胸の内にひた隠しにしている俺の咎を暴き出そうとしている気がした。
やはり、昨日の不貞腐れた俺の無礼を責められているのだろう――俺の理性は沸騰する水のようにソワソワと逆立って、罪悪感から少しも落ち着いていられなくなる。
老木の爛れた樹皮はボロボロと剥がれ落ち、焼鉄の拷問に耐えられなくなった不吉な俺の本性が、深層心理の檻を破り脱獄しようとする。
俺の思考はまたも地獄向きに塞ぎ込み、正にヘビに睨まれたカエルみたく眼の前の獄卒に監視され、ピクリとも身動きが取れなくなった。
「昨日は、すみませんでした……。」
「昨日……?」
追いたてられるように口をついた命からがらの謝罪に、チーさんは茶を啜ろうとした手を止め、呆けた顔をむくりと上げ、二三度、キツネにつままれたみたいな瞬きをした。
「あぁ、よい。わしもファラも細かいことは気にしとらん。そんな事より、キミの体調をファラがえらく心配していたからね。一晩寝てだいぶ顔色も良くなったみたいだし、何があったのか事情は聞かせてほしいと思ってな。」
ズズズと調子はずれな音を立ててチーさんが呑気に茶を啜ると、彼の束縛的な視線と言葉は急に効力を失って散り散りになる。
どうやら探るようなチーさんの視線は、単なる俺の思い違い、妄想だったらしい。
そうと判ると同時、ふっと肩の重荷が下りた気がして、パッと金縛りも紐解け、腹の虫までとことんほぐれた俺の胃が、本能のまま豪快に泣きわめいた。
ファラさんの腹鳴りをも凌駕する俺のエゴにチーさんは面食らって、大げさに見開いた目をパチクリとさせた。
「凄い音だな、”ドラゴン”飛んできたかと思ったわ。そういえばキミ、夕飯くいっぱぐれてたっけか。」
「ははは……自業自得ですけどね。すみませんが、昨晩の残りとかあったりしますか?」
「あーそれなー……。ファラにはリンネ君の分も残しといてあげなさいと言ったんだけど、アイツ残さず全部食べちったよ。」
「はぁ、まぁ、予想通りというか、端から期待はしてなかったですけど。」
「とりあえず、まんじゅう食べる?」
俺が腹を擦りながらチーさんの向かいに腰掛けると、チーさんは机の上に置いてあった茶色い紙袋を手に取った。
「お、おまんじゅうですか。いいですね、頂きます。」
「ほれ、好きなだけ食いたまえ。」
「お……これは……。」
チーさんからひとつ放り投げられたピンボール大のそれは、白いほわっほわの衣で表面の覆われたお饅頭で、冬ごもりちゅう雪の下に蹲った愛くるしい白ウサギを思わせる見た目をしていた。
「ありがとうございます。」
思えば昨日の朝以降なにも食べていなかった俺は、沸き起こる欲望のまま残虐に、むしゃむしゃと白ウサギを頬張った。
「あ、おいし……?(うえ、なんだこれまっっっっっず……可愛い見た目に反して腐った排水溝のゴミみたいな凶悪な味だぞ……まさかとは思うが賞味期限切れてないだろうな?)」
「そりゃまぁ、腐ってもわしの一押し"マルカメ屋"のウサぴょい饅頭だからな、”一粒食べれば天までぴょぴょいのぴょい”なんて謳い文句もあるくらい、美味いにきまっとる。」
ウサぴょい饅頭を咀嚼するたび、キノコのようなジメジメとした生臭さがツンと鼻の奥に突き抜けて、グニャリと脳の血管を萎縮させた。
そのアグレッシブな臭いは、たまらず飲み込んで胃袋に納めた後も元気な野兎のように食道を駆け上り、あっという間に繁殖し、全身に充満し、あまりの気持ち悪さに目眩がするほどである。
ザラリとした食感のこし餡は噛めば噛むほどきめ細かく舌の隙間に染み込み、口内に充満した悪辣で過激な雑菌の臭いには口の中の細胞たちが"何をするだァーッ!"と驚きのあまり泣いて拒否反応を起こすほどだ。
つまり細胞単位で地獄に落ちるほど不味いということになるのだが。
「気に入ったのなら好きなだけ食っていいぞ。ほれ、もうひとつ。」
意気揚々と一口で頬張るも再び阿鼻叫喚地獄に転げ落ちた俺をよそに、どこか満足げな味覚音痴地獄の極卒ダンディは、悪びれた風もなくまたひとつ地獄のウサぴょいをポイと放り投げてくる。
上手にキャッチしたそれは、やはり白いほわほわの衣で表面の覆われたお饅頭だった。
どうやらこのマルカメ屋ウサぴょい饅頭なるもの、デフォルトで愛くるしい見た目なのは間違いないようだが、だとしたら肉梅の味覚はどうなってやがるんだろうなと、俺はチーさんのありがた迷惑を恨めしく思った。
「ありがとうございます(うわー、言い出した手前、不味くても文句言えねーヤツじゃん……)。うん、おいしーい(もう無理だ、これ以上食ったら確実にぴょいと死ねるわ。後でトイレに吐き捨てるしかない)。」
――だがこの時、俺はまだ知らなかった。
――チーさんのくれた毛むくじゃらの饅頭が、たった一粒でも死に至る、致死毒級のカビの胞子で覆われていたことを。
「どれ、わしもひとつ頂くとする……ん? あ……。」
「ん? どうかしましたか?」
「いやすまん、ちょっとまずっちったかもしれん。」
「なぜ、謝るんです……?」
「とりあえずもう食うのやめよう。」
目を逸らすなよ。




