歩調
2024/03/25_改稿済み。
頑なに上空を覆っていた分厚い雲の膜は、いつの間にか鱗状にヒビ割れてさ迷う。
夕暮れを目前に差し込んだ陽の光、僅かに赤らんだレンガ造りの地面に、言葉を持たない二つの影が浮かび、並んで歩いている。
ぽっかりと穴の開いたような黒い二つの影は、大げさに大きく膨らんでいて、俺とファラさんの足元から前の方へと真っすぐ伸びている。
俺たちの温度差はそれぞれの影からも見て取れるほどで、買い物帰りのファラさんの影は楽しげにランラン\(^o^)/フォーゥッ!と今にも歌い踊出しそうであるのに対し、俺の影はもっさりと内気に肩を落とし、暗い檻の中で餌を待つ毛深い肉食動物のように、見るからに異様で、だらしがなかった。
逃げるように養豚場から抜け出した俺は今、どういう訳か、またいつの間にかファラさんの荷物持ちとして、彼女の買い物袋の半分を預かり、並んで家路を辿っていた。
――お前みたいなひとでなしに、帰る場所なんてこの世界のどこにも無い。
気の向くまま、意識を好きに入水させていた無気力の俺は、頭の後ろの僅かに上の方から突然堕ちてきた死神の歓迎の祝福に、自意識の首根っこを鷲掴みにされてギョッとし、目を覚ました。
それが幻聴であると確信しながらも、恐る恐る背後に視線を巡らせると、太陽はジリジリと世界を焼き払おうとするように空の色と霧散しつつある雲のひとつひとつを重苦しく焦がし、いよいよ巨大な亀の化け物みたいな山の天辺に降り重なろうとしていた。
呻き、吠えるような太陽の傾きと、僅かに赤らんだ空の具合から見て、時刻は29時を回った頃……だいたい夕方より手前、4時くらいだろうか。
俺はファラさんの視線を横目に盗み見て、束の間の異変と緊張を悟られていないことを確かめてホッと安堵し、何事もなかったかのように再び前だけを見て、家路を辿り始めた。
今日のファラさんは、外行きの恰好をしている。
普段、家にいる時は質素で自分本位な格好のファラさんだけれど、買い物やチーさんにお使いを頼まれて外に繰り出す時は、ちゃんとお洒落をしていて、大人びた淡白で退屈な印象に変わる。
毛先に緩いパーマの掛かった淡い金色のポニーテールは、ふわりと揺れるたび至極美しいけれど、どこか虚しく儚げな様子が、梅雨時のアジサイのように物憂げで悲しいものに思えた。
足元の白のヒールサンダルは、キラリと光る先端の尖ったナイフのように、彼女の脚のラインをスラリと際立せたが、家の中では素足で駆け回るファラさんを思うと、世間体という名の枷を掛けられて自由を奪われたみたいに思え、それも気の毒になる。
桜のようなピンク色の花びらが全面に散りばめられた淡いクリーム色のお淑やかなワンピースも、家では無地ばかり着ているファラさんを思うと、彼女の服の好みからはズレているように感じてしまい、どうしても着せられている感が否めない。
また、散らしてなお気品の溢れるその花柄は、確か告白やプロポーズの時などに贈り物として添えられる”約束の花”という、この世界では割とポピュラーらしい品種をモチーフとしたものであると思われたが、しかしファラさんに限っては”カワイイならなんでも良くない?”という単純で明瞭な理由以外に、特に深い考えがあってピンクのゼラニウス柄を選んでいるようには思えなかった。
いずれにせよ、外行きの格好のファラさんに対する印象の全て、俺個人の独断と偏見に過ぎないが。
ファラさんが低体温な俺の足取りに気を揉みながらも口がきけないを良いことに、俺は隣を歩く彼女のあらゆる気遣いを無視して、今も無言を貫いている。
先ほどもファラさんは、帰り道の途中にある屋台で肉まんを買っていこうと俺に提案してきたが、気を病んだ原因の一部が頭によぎった俺は、肉まんの中身から嫌な事を連想してしまい、どうにも食べる気が起きなくて首を横に振った。
無論、ファラさんは紙袋いっぱいに肉まんを買い込んで、今もひとりで黙々と肉まんを頬張っているので、俺は一瞬、憂鬱を通り越して呆れた。
――夕飯の前に全力でスタミナチャージするな。
黒い長靴の奏でる分厚い重低音を携えた”ひとでなし”の隣で、コツコツと軽やかで景気の良い靴音をファラさんは奏でている。
相反する二つの靴音が継ぎ接ぎで折り重なる音の波の隙間に、乾いた泥つきの俺のリズムだけが頼りなく惨めに浮き彫りにされている気がして、俺はそっと歩き方を変えて、ファラさんの奏でる木琴のような愛くるしい音色と小気味の良いステップの裏に、ゴツゴツと捻くれて硬くなった足音をそっと隠した。
人目にさらされ、枷を嵌められてもなお、彼女の軽快な足音は福音を運ぶ蝶のようであり。
奇しくもそれは、俺の足元で根腐れをおこした憂鬱な変調を際立たせているようでもあり、わざわざ周囲へ広く知らしめるようでもあり。
ついには、耳元で飛び回る懐っこいハエが如く、耐え難いほどに居心地の悪い、虹色の光を纏う耳障りで憂鬱な音色であった。
俺とファラさんとの間に生じた”異常”とも言うべき心の温度には、天と地ほどの差がある。
見事に自分から罪悪感を膨らませた俺は、なんとなくファラさんの後ろを歩きたかったが、ファラさんは頑なに俺の前を歩きたがらなかった。
俺がこっそりと逃げるように歩くペースを落とし、彼女の後ろへ引き下がろうとすると、彼女は俺の縮こまった影を横目に見て、何故にかそっと笑い、わざとらしく歩くペースを落として、影の位置と歩調を重ねようとする。
俺が歩幅を狭めれば、彼女も同じだけ歩幅を狭めようとする。
俺がひとり堕ちようとすれば、彼女も飄々と同じ場所まで堕ちてこようとする。
ひとりよがりな俺の奇行と心の堕落に、務めて彼女は、そっと寄り添い、付き添い、和解しようと試みる。
ファラさんは純粋に、胃袋と器の広い人だった。
交わることのないふたつの影は、平行線上を言葉もなく並んで歩き続ける。
きっとファラさんと俺は、違う温度で、違う生き物だ。
けれどいつからか、俺が彼女の歩調を気にせず自分のペースで歩けていたのは、俺の憂鬱に対して彼女が気負いせず、俺の心に無闇に感傷しようとしない、けれど敬意と慈悲を持って足並みを揃えてくれる、俺の器の小ささを教えてくれる、真に器の広い人物だったからなのだろう。
事件ではなく、結末を追います。
理屈ではなく、こころを探します。




