痣
2024/02/18_改稿済み。
区切りがつかず、一万と1,000文字あります、いつもありがとうございます。
「あー、疲れたー……。」
ようやく職場から解放され、陽に焼けた暖かなフィルターが掛かった長閑な田舎道を歩く。
夕日に当てられた田んぼは黄金色に輝き、何かの植物の穂が、サワリと風に揺れる。
飛んでいるあのカラスみたいな黒い鳥の二~三匹は、未だ狩りの途中か、それとも俺と同じく家へと帰る途中か。
随分と優雅に羽を広げて、遠くの森を目指して仲間たちと楽しそうに飛んでいるから、きっと家へと帰る途中だろうな。
クタクタの身体を引きずって、歩くこと、体感で一時間半……ようやくチーさんの家が見えてきて、俺は、ふうっ……とため息交じりにふと歩みを止めた。
半日とはいえ、一日中歩きっぱなしの慣れない力仕事だったという事もあり、全身の疲労が細く頼りない両足に一極集中している。
ふくらはぎが熱っぽくむくんでいて、足の裏は重たい鉛の塊のようで、歩けども歩けども一向に進んではくれなくて、正直今日はもうウンと疲れている。
背中はグニッと丸くなり、瞼はドロッと重たく、自分でも自覚できるほどの怠惰に、いよいよ道行く人々の視線も気にならなくなった。
家の前に来ると、とうもろこしをじっくりと火で炙ったような香ばしい匂いが鼻をついて、俺の中で疲れ切って眠っていた食欲が一斉に覚醒し、グォオォ~ッと歓喜の雄たけびを上げた。
「お、ファラさんが何か作ってるんだ。」
金髪美少女の手料理という香しい妄想にふけっていると、何も食べていない筈なのに勝手に口の中が唾液で溢れてくる。
そういえば、喉も乾いたな。
スッカリお腹もすいた。
つまり、極限状態だ。
「今日のご飯はなんだろな~っと。」
砂漠の枯れ木から水を得た魚に転生した俺は、もうすぐ沈んでしまう夕焼けに赤茶げた扉のノブを、口笛交じりに軽々と回した。
「ただいま~。」
――その日の「ただいま」は、まるで俺の心が誰かの声を求めたようで、どこか寂し気で懐かしく、不思議と穏やかな優しい響きで。
「おう、おかえり。」
――その日のチーさんの「おかえり」は、頼んでもいないのに、名前を呼ばれたみたいに優しくて、自然にソワソワと心地の良い胸騒ぎがして、元気が出た。
***
帰宅してすぐ、ファラさんが夕飯の用意を終えるまでの時間を見計らって、俺はお風呂に入ることにした。
壁際に設置された木造の広い風呂桶、その上の小窓から見える夕闇の空には、未だ真ん丸の模様のない月がクッキリと浮かんでいる。
時刻は、34時……地球基準の体感で言えば、夏の夕暮れ、6時頃だろうか。
オレンジ色の深く灯った地平線は、天井から降り下ろされた濃紺のグラデーションから、少しずつ遠のいていく。
太陽に代わり月が高く昇ると、後に続けと少しずつ星々も舞台上に姿を現し始める。
次第に増えていく夜空の星に比例して、どこからともなくスズの音のような鳴き声の虫がちらほらと目を覚まし、呑気な鼻歌みたくリン、リンと鳴くと、いよいよ長閑な夜の訪れを感じるのだった。
清々しいほど気候に恵まれ、晴れの日が続いているこの数日間。
日中の気温は高いが空気は乾いているため、ジメッとした嫌な汗をかくことはほとんどない。
しかしだいたいこのくらいの時間から明け方頃まで空気が冷たくなり、流石に半袖一枚だと少々肌寒く感じる。
比較的過ごしやすいここ数日の気候を、四季のいずれかに当てはめたならば、恐らくは夏の終わりか秋の始まりあたりが妥当だと思われる。
ザッパァアアアアアアアンッ!………
「ふぃ~~~……。仕事終わりのひとっ風呂……最高かよ~……。」
両手両足を広げてもなお余りある、深く広い温水プールみたいな風呂桶に、こうして首元までしっかりドップリゆったり浸かっていると、全身の血液がじ~んわりと湯水に溶け出してしまいそうになる。
活性化された血液の循環によって少しずつ体外へと排出されていく全身の毒、それに代わって、今度は湯水に含まれているミネラルとも言うべき蜜が、全身の穴という穴から存分に吸収されていくような、細胞単位の極上の多好感。
平和な大海原を漂うように心洗われ、真っ新になったこの自意識までも、昇り立つ湯煙と混ざり合って蒸発してしまいそうだと、ふやけた思考回路で妄想する。
俺は今、”水になっているぜ”。
「しかしまぁ、こういうのんびりした一時って大事だよなぁ……。気持ちよすぎだろ~……。」
大きく深呼吸をして桶のふちにもたれ掛かると、無気力とも言うべき多好感はより強力になった。
今頃はファラさんが晩御飯の支度を終えて料理の盛り付けをしている頃だろう、小窓から覗く真ん丸な模様のない月を見て、ふとそんな事を思った。
因みに、今夜はカレーだそうで、じっくりと火で炙ったとうもろこしは微塵も関係なかったことが解る。
――いいね、こんな生活も。
「ふっふぅ~! ザッツマイボ~イっ。ザッツマイボ~イっ。俺のむすこ~。俺のむすこ~。」
思わず即興で作った変な歌を口ずさみたくなるくらい、俺はいま上機嫌である。
そんな夢見心地で平和ボケした数分――どんどん頭の中が空っぽになっていく。
「うぁ~……。」
――気が付くと、この家のベッドで目を覚ましてから、既に3日が経過している。
――これは、いよいよ本当に、夢じゃないのかもしれない。
今ではそう思っている。
心と体が僅かに切り離されたような、魂が半分抜け落ちたような、いずれにせよ、ふわふわと現実味のない、ゆったりとした日々の連続。
俺は血の繋がりを持たない人でなしで、実際ここには親が存在しないという、どこか悲しくも不思議と気楽な感覚。
チーさんの話では、たしかリンネは「死後、よその星からやってくる、友達や家族みたいなもの」という事らしいが、考えてもみれば、俺のような奴っていうのが、種族は違えどこの星には沢山いるのだろう。
「皆、案外こうやってのんびり生活してんのかね。」
日本に居た時の事は、相変わらずほとんど思い出せない。
高校に通ってた気がすることまでは何となく、ぼんやりと思い出せる。
けれど「高校に通っていた」という情報質な記憶以外は何も思い出せない、思い出に起伏がないのだ。
日常生活や習慣的なことは思い出せる、しかし、それも誰とどんな日々を送っていたのかが解らない。
まるで、中身のないタマゴ、淡白で空虚で軽い、俺の記憶情報。
そして恐らくもう、何も思い出すことはないのだろう――そう思う。
この星に来た時、俺が身に纏っていたのは病院の患者が着ているような白い服だった。
つまり、死後ここへ流れ着いたという俺は、最後”病院にいた”ということなのだろうか。
正直まったくイメージが湧いてこないけれど、”病院”そして”患者服”というのを考慮すると、俺はこの若さで「病死」或いは「事故死」しているという可能性も否定はできない。
「なんだかなぁ~……。」
――ま、それはもういいや。思考停止!
ザッパァアアアアアアアンッ!………
疲労をため込んでズッシリと重たくなった頭を湯水に丸ごとズブッと押し込めると、積もりに積もった雑念のなにもかもが水中に溶けだしていくのを感じた。
***
「ん……なんだこの痣……。」
バスタオルで全身の水分をふき取り、壁に立てかけてある姿見にボーっと向かい合って、自分の身体のどこかに何か記憶の手がかりになりそうな傷などはないかと探していると、ふとあることに気が付いた。
「ほくろだと思ってたけど、ちょっと違うよな……。」
胸の真ん中からやや左の辺り。
そこに、ほくろの様な黒い痣がポツリとひとつある。
なにかの病気のサインのようにも思えるそれは、よくみれば★の形をしており、明らかに不自然で、やや不気味に思えた。
もしかするとこの痣は、俺が”人でなし”であるという証みたいなものなのかもしれない、そう思った。
「これも後でチーさんに聞いてみるか。」
答えの出なさそうなことはあまり深く考えないようにと気を取り直し、俺は寝間着の茶色い豚野郎Tシャツと白のハーフパンツに着替えた。
「明かり、消してくださーい。」
風呂場の天井から紐でぶら下げられた赤色灯をコンコンと軽く叩いて、独り言のように呟くと、まるで俺の声に応えるように明かりはプッツリ消えた。
ファラさんの寝室やリビングなど、家の至る所に天井から紐で吊るされたこの真ん丸の赤色灯は、厳密には電球ではなく、人々から”スレイブスコロニー”と呼ばれている、言わば”妖精の巣”なのだそうだ。
目に見えないほど小さな彼ら”スレイブス”は、人の家屋や街の至る所に真ん丸の巣をつくり、そこで暮らす人々が生み出す「気」を糧に生きているらしい。
そして、気を貰う代償として、人々に光を分け与えているのだそうだ。
なお、誰がそう名付けたのかは知らないが、スレイブスとは「奴隷」という意味だそう。
奴隷の巣は、叩くと明かりが点いたり消えたりする。
電気とかガスとか、およそ科学というものが未発達らしいこの星ではとても便利な代物なのだが、たったひとつ、難点もあるようだ。
その難点というのは”心が汚い人の言う事はなかなか聞いてくれない”という、なんとも世知辛いものであった。
現に、俺のように心の清らかな聖人は、こうして優しくノックするだけで明かりのON/OFFが可能なわけだが、しかしチーさんなどは気が狂ったようにアホほど叩きまわして、破壊する勢いでテーブルに叩きつけて「このゴミカスが、埋めるぞボケコラはやく消えろや、ペッ!」と唾を飛ばしてイケボで罵声を浴びせてみても、スレイブスはツンと顔をそむけたかのようにまったく反応しない。
この家でチーさんの殺気立った奇行を見て育ったであろうファラさんも、日ごろからバチコーンッと笑顔でおもクソひっ叩いているのだが、チーさんの時と違ってすんなりとON/OFFが許されていた。
つまりよほどのことがない限り、スレイブスから「人間失格」の烙印を貼られることは無いのだが、まぁあの根腐れダンディの性格じゃ、スレイブスがウンともスンとも靡かないのも無理はないなと思う。
「さてと、飯だ飯。」
気を取り直し、明かりの消えた風呂場を後にした。
***
リビングへ行くと、既に円卓にはファラさんの手料理がこれ見よがしにと並んでいた。
「おぉ~、うまそー。すげー。」
野菜たっぷりの餡が掛けられた黄色いごはん(カレー)、白身魚と根菜の赤いスープ(ミネストローネ)、酸味が香るドレッシングを葉野菜に掛けたサラダ、チーズとベーコンがたっぷり振りかけられた丸いパテ(ピザ)。
見慣れない食べ物もちらほらとあるけれど、手間暇かけて作られたであろうそのどれもが宝石のようにキラキラと輝いて見えた。
空腹時にファラさんの手料理を前にすれば、意地でも鳴らすなと言われようとも、反射的に喉が鳴ってしまう。
「これ全部ファラさんが作ったんですか?」
ゴクリ……と堪らず喉を鳴らした俺が尊敬の眼差しを熱く向けると、厨房にいるファラさんはドシッと腕を組み、いかにも満足そうに口角を上げて”まぁね~”と得意気に何度も頷いた。
この人は多分、褒められるとすぐに調子に乗る短絡的なタイプで、煽てれば木は疎か、雲の上にだって軽々と昇って行ってしまうような気がするが、それでも褒めれば褒めるだけ贅を尽くしてくれるのならば、俺はプライドを捨てて跪いて靴を舐めてでも褒めちぎるぞ。
今日はもうやらんけど。
「随分楽しそうだったな。」
既に席に着いていたチーさんが風呂上がりの俺を見てニンマリと微笑んだ。
「ザッツマイボ~イっ。ザッツマイボ~イっ。下手くそな歌だったぞ。」
「ははは。」
とりあえずテキトーに笑いながら俺は席に着くと、厨房で手を拭いていたファラさんもすぐに”わーい”と嬉しそうにテテテっとこちらへやってきて腰を下ろした。
「それじゃあ、リンネ君も揃ったことだし、頂くとするか。いただきます。」
チーさんが目を伏せてゆったりと丁寧なお辞儀をしながら趣深く手を合わせるのに対して、ファラさんは無邪気な子供みたいに力任せにパンっ!と景気の良い音を響かせて笑顔で合掌した。
「いただきま~すっ。」
どこか朧げな白昼夢めいた団欒に、ふわふわと弾む俺の自分語り。
美味しい手料理、食卓を囲む高らかな笑い声。
心地よく懐かしい、夜だけの優しい温度が、今ここに確かに存在している。
何故だか遠い昔にもここにいたような気がして、いつの間にか俺は、家族といるみたいな、そんな尊い温もりに当たり前のように包まれていた。
「それで臭くってさぁ~。」
三人分の食器がランダムにカチャカチャと立てる音を背景に、俺は今日の出来事を二人に話す。
俺が掃除した休憩室に牛乳をぶちまけやがったシャカリキで能天気な先輩のこと。
養豚場のテロリストとかいう、IQが3くらいしかないゴリラ二匹にえらく気に入られてしまったこと。
開かずの扉から現れた不衛生で不摂生な死神班長さんのこと。
聞いていた二人は今日一の笑顔になって、チーさんはダンディにフォッフォッフォッと笑い、声こそ出ないがファラさんもお腹を抱えて失礼なくらいゲラゲラと大笑いしていた。
楽しそうな二人を見て、俺の方もなんだか幸せな気持ちが溢れてきて、いつの間にか自然な笑みが零れていた。
そして、ふと思う。
夜の食卓とは、こうも賑やかで温かなものだっただろうか。
俺は、こんな当たり前の日常の風景すらも、この星へ流れ着く間に忘れてしまったのだろうか。
それとも、俺はこんな当たり前の笑顔すら知らない、本物の人でなしだったというのだろうか。
――そんなの、判らないよ。
――だけど、明日も頑張ろう。
明日は今日よりもっと頑張って、今日より何倍も面白い話を、この食卓を囲む大切な家族に聞かせてあげたい。
今日は良い日だったよなって、眠りに落ちる間際でも、ふたりが笑えるように。
俺は一人じゃないんだって、孤独な夢の中でも、皆が立ち上がれるように。
強く願い……深く■の胸に……誓■を刻ん■――――――――――――――――――― . ・ 。
***
――俺はなぜ、こんなところに”帰ってきた”のだろう。
――気が付くと俺は、壁も床も天井もない、ただテーブルとイスがあるだけの、真っ白な光の中の、無限にいた。
「いっただきま~~~っす!」
――ここは、どこだろう。
「でなぁ、その新人がまたボケーっとしたやつでさぁ。思いっきりすっころんで、組み立て途中の骨組み、バラバラに壊しちまったんだ!」
俺は椅子に座っていて、食卓を挟んだ向こう側には、チーさんやファラさんではなく、大声で楽しそうに喋る見知らぬ大人の男がいる。
「ふふっ、それは災難ね。」
その男の隣に妻と思しき女性の影が座っていて、男の話を聞いて笑っている。
「あれ? でもお父さん。そんな簡単に壊れちゃうなら、どのみち飛べないんじゃないの?」
「ウチで作ってる試作段階の飛行機はほとんど木材だからな、そんなもんなんだよ。」
「なにそれテキトー……。こんなのが父親とか……。」
俺の右隣には、男の娘と思しき少女がいて、スパゲッティの乗った平皿を片手に、右手のフォークで男の顔を示して抗議した。
三人とも顔にはぼんやりと霞が掛かったように不鮮明で、表情は一切読み解けない。
――だけど、俺は彼ら三人を知っているような気がした。
自分の手元に視線を落とす。
ミートソースのスパゲッティ。
クラムチャウダーのスープ。
どちらも俺の大好物だった筈だけど、味も匂いも思い出せない。
どうして好きだったのかが思い出せない。
この空間の支配者から思考を制限されているかのように、なぜ今こんなことが起きているのかさえ、考えられない。
「それでな、みんな絶句よ。んでその新人ゆっくり立ち上がって、満を持してこう言った――こりゃぁ、”飛”んでもないべなぁ。」
「……。」
「……。」
「――ってそりゃおまえだってんだよ! 月の裏側までぶっ飛ばすぞ馬鹿野郎! わーっはっはっはっはっはっ!!」
――うっわクソつまんねー。
急に場の空気がスンと白けたことで、俺はぼんやりとした自意識から、ふと我に裏返った。
そして、ひとり高笑いをキメた男と、俺と同じく黙り込んだ妻と娘の反応を見て、俺は他人行儀ながらもある事を直感し、急激に目覚めた。
――たぶん、彼らは、俺の家族だった人たちだ。
「そーいやママ、こないだ買ったジャンボくじ当たったのか?」
「え、お母さんまーた宝くじなんて買ったの? どーせ当たらないのに、もうお金の無駄だよ……。」
「あら、こーゆーのは買わないと当たらないのよ。私はいつか当たるって信じてるから、だからいつかは当たるのっ。」
「あーハイハイ……。死ぬまで真二郎構文頑張ってね。」
「死ぬ気で当ててやるわ……待ってなさい200億。」
「よし、その意気だママ! 死ぬ気で頑張れ! そして俺たち一家を億万長者にしてくれ。」
「え、何言ってるの? 当たったらパパとはおさらばよ。離婚よ離婚。私ハワイに行くわ。」
「え、そうなのか? それじゃあこの子らの親権はどうなるの?」
「ちょうど子供も二人いるんだし、半分こにしましょ。」
「だな! おまえらどっちにくる!?」
「ねぇ、そーゆー生々しい話、子供の前でしないでくれる? ご飯が不味くなったじゃん……。」
――俺の家族、平和だな……――――――――――――――――――― . ・ 。
***
「■ー■……。おー■……。」
――自意識を獲得し、維持したまま、夢から現実へと、確かに目醒めていく感覚。
「おーい■■■くん……。」
――”真っ白な光の中の無限”は、徐々にザラザラとした灰色の砂嵐と混ざって、更にジワリと波打つ紫色のモヤが映像に充満すると、サラサラと瞼に砂粒をかぶせていくように”現実”の視覚情報を上書きし始めた。
「リンネ君、おーい。鼻からカレーが垂れてるぞ。」
「う……おっと、いけねぇ……。でもなんで鼻からカレーが……?」
ダンディな声に呼ばれて視界が切り替わるのとほぼ同時、チーさんに指摘され、どうしてかは判らないが鼻血みたいにドロドロと垂れていたカレーを俺はそそくさと拭って、逆に一周回って戸惑った。
ファラさんは冬ごもりのリスみたいにモグモグと口いっぱいにご飯を頬張りながら、俺の鼻から垂れたカレーを見て不思議そうに首を傾げた。
「どうした、急にボーっとして。」
「あ、いえ……ちょっと……。」
チーさんに心配されたものの、俺自身、自分の身に何が起きたのかが理解できておらず、夢とも妄想とも判別し難い先ほどの食卓の場面を、どう説明するべきか言葉に詰まってしまった。
かなり長い時間向こうにいた気がしたが、チーさんとファラさんの楽観的な様子と、食べ始めてから今までの食卓に殆ど変化がないことから、こちらで意識を失っていたのはほんの一瞬か数秒だったと考えられる。
瞼の裏に焼き付いた、見知らぬ”家族の食卓”と、彼らの楽し気な笑い声が、繰り返し頭の中でざわざわと反響している。
突然の出来事に脳が混乱しているのか、何故だかあちらの事ばかりが気になってしまい、食事をとる手も鈍くぎこちなくなってしまった。
ファラさんの手料理はどこか味気なく、俺がこの場で食卓を囲っている理由にも現実味がなく、チーさんとファラさんに気を使って作り笑いをする度、気持ちがソワソワと嫌に落ち着かなくなる。
――今見えているものは、本当に現実なのだろうか。
ふと、この食卓がふわりと軽く空虚に浮かび上がり、あらゆる重さを失ったような失望を覚える。
チーさんの笑顔が淡白で、偽物めいて見えてしまった。
ファラさんが喋れないのは、そういう「設定」に思えてきた。
この手料理は、熱いだけの無機物で、俺の身体は、思考するだけの肉の塊で――。
「……。」
いや、どうやら俺は目を開けたままに、俺の思い描く”理想郷”を夢に見てしまっただけなのかもしれない。
未だ冴えきらない頭で、ぼんやりと、けれど無理やりに、そう結論付けた。
――現実から目を背けなければ、俺は”人でなし”ですらなくなってしまう気がしたから。
「なんか俺、初仕事で疲れているのかな。先に休ませてもらってもいいですかね。」
「ふむ……。まぁ、鼻から滝のようにカレーが流れるくらいだからな、そうだろ。」
「そんなには出てねーよ。せいぜい小川のせせらぎくらいなもんだろ。」
「うむー、なかなか良い切り返しだなぁ。まぁそれはともかく、明日も仕事に行くのなら、今日はさっさと寝てしまった方がよさそうだね。」
「はいはい、どうも……って……ぁ、ファラさん、ご馳走様でした。」
半ば不貞腐れ気味に俺が席を立ちながら、作ってくれたファラさんに失礼があったと気づき謝罪すると、ファラさんはよっぽど鼻からカレーが流れた事が不思議だったらしく、俺の鼻の穴を覗き込もうと一生懸命に首を低く捻った。
――コイツ、良い意味でバカなんだろうな……。
その後、俺は食事も殆ど手つかずのまま、虚空と現実も判然としないまま、洗面所でカレー臭のする鼻の穴をほじほじ洗って、ひとり寝室にパタリと閉じ籠った。
***
耳鳴
建て付けの悪い扉の隙間から、リビングの明かりが僅かに届く、どんよりと重く、暗い、死体安置所のような寝室。
扉を閉めてから、一気に押し寄せてきた鎮けさと孤独感に身を委ねて、体感で一時間にはなる。
明るい扉の奥の食卓で、素朴に奏でられていた呑気な食器の音も、暫くするとパタリとやんだ。
時折、大型犬のような無邪気な足音と、扉の開け閉めの音が聞こえるだけ。
今は何時だろう、なんて、今更どうでもいいことだ。
だって今日、俺はもう、死んだように眠るだけなんだから。
耳鳴
一日の疲れが思い出された途端、ドスッと瞼に重力がのし掛かる。
俺はスレイブスコロニーも点けずに、ベッドに仰向けに寝転がっている。
天井は深い闇に包まれ、どこまでも深く、俺の意識は向こう側へ吸い込まれていくようだ。
窓の外から、悲し気な虫の鳴き声がポツ、ポツと、淡白に聞こえる。
耳鳴
もう何度目になるかは分からないが、再び目を閉じると同時に、大きなため息が零れた。
ため息一つ、ドッと吐き出す度、元より半分になっていた魂のカケラが、心身から更に乖離していく、そんな気がして、また空虚に近づいていく。
安らかで素朴な寝室。
怖いくらい優しくて、永久に身を委ねていたくなるほど、感傷的な夜。
窓の隙間から吹き込む風は、嗚咽交じりにすすり泣いているようで不気味だ。
時折、怨念のような隙間風が強く吹き込むと、重たいカーテンがごわごわと暴力的にバタついていて、耳障りや、視界に写り込む影がやけに気持ち悪い。
耳鳴
「何だったんだ、さっきの”夢”は……。」
壁も床も天井もない、ただテーブルとイスがあるだけの、真っ白な光の中の、無限。
ボヤっと、霞掛かった三人の顔。
男らしく豪快に笑う、力強い父親の声。
的外れな野心に満ちた、優しい母親の声。
変わり者の両親に、ほとほと呆れたような少女の声。
――そして、明るいその輪の中に、俺がいた。
耳鳴
意識だけが肉体から乖離し、目を開けたまま見せられた”夢”。
その夢を掻き消すように上書きしてくる”現実”と、脳が勝手に書き換えてしまっただけの、視覚情報。
あんな壮絶な現象を脳裏に焼き付けられて、記憶喪失者の俺に、この世界へ放り出された人でなしの俺に、何を求めるというのだろうか。
「なんなんだ、この世界は……。」
埋めることのできない溝、そこから半分に割れてしまったように思えるふたつの世界、その”現ざい”に、俺は生きている。
けれど、肉体と自意識を持つこの世界の方が現実だと証明する術を、俺は持たない。
耳鳴
もし、あのまま向こう側に残ろうとしたら、この肉体はどうなってしまっていただろうか。
俺は、どちらか片方にしか存在を許されないのだとしたら、”過去”と”現在”のどちらを選ぶべきだったのだろうか。
過去の全てを忘れてここへ来たように、もし俺が向こう側を選んでいたら、さきほど大切にしたいと誓ったばかりの今あるこの幸せも、いずれ夢になってしまうのだろうか。
ホンモノ全部忘れて、今ある全部捨て去って、俺は先ほどのあの三人がいる食卓に、何事も無かったかのように帰るのだろうか。
耳鳴
ただいまって言ったら、おかえりって、笑ってくれたチーさんを忘れて。
耳鳴
朝起きたらハァイって、笑顔で手を振ってくれたファラさんを忘れて。
耳鳴
まだまだ距離はあるけれど、俺を信じて心を許してくれたマーシュさんを忘れて。
耳鳴
マンモスメガネのマラク班長を忘れて。
耳鳴
アラタ班長とファーマーボーイズのキームとタークは、あぁ……。
「何人か、要らないのいるな……。」
何人か要らないのがいた事に気付いてしまったが、しかし記憶喪失の事を考えていると、俺は急に眠るのが怖くなった。
「そうだ、ただ疲れてるだけかも。」
――けれど今は、”今”を忘れたくない。
消されるのがたった1日だけだとしても、俺は、皆と笑っていた、この思い出だけは絶対に失いたくない。
――胸が、苦しい。
「なんでだよ……。」
――目頭が熱くなり、悔しさと怨情に押し潰されそうになる。
「なんで……。」
――消えないで。
――消えないで。
――どうか、消えないでください……。
「なんでそんなこと……思うんだよ……。」
過去とは夢。現在とは現実。未来とは、アナタの真実。




