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空飛ぶ魔女の航空会社〈Flying Witch Aviation Company〉  作者: 天見ひつじ
第十四話 舞い降りるは天上の湖水
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14-6

 東の空が白んでいるのに気付き、チャオフェイは歩を早める。


 ピュンソクとドルジのために三人分の食料と防寒着を持っている上に、新雪で足を取られて歩きにくい。二人が向かうと予想した登山口のひとつに着き、地面に痕跡を探す。先に着いて、もう登り始めているなら急いで後を追わなければならない。冬のヒルム山脈は備えなしで超えられる場所ではないのだ。


「ちっ。神さまが寒さから身を守ってくれるなら世話はねえってんだ」


 二人が身にまとっていたのは布を重ねただけの僧服だ。どれほどの防寒性能があるのかは知らないが、毛皮より暖かいということはないだろう。


「もう登ってる……のか? まあ、捕まってないだけマシと見るべきか」


 チャオフェイは運び屋であり、追跡を専門とする狩人や偵察兵ではない。新雪に刻まれた足跡から読み取れるのは、おそらく複数人がここを通ったことだけだ。


「追ってみるしかないか……?」


 視線を上げた瞬間、動くものが見えた気がした。この時期、運が悪いと冬眠できなかった熊と鉢合わせる可能性もある。見極めようと目をこらすチャオフェイは、その間に背後から忍び寄る存在に腕を極められるまで気付けなかった。


「追っ手の人数と場所を言え」

 説教でもするかのような厳かな声は聞き違えようもない。ドルジだ。

「がああ、折れる折れる! 追っ手だあ? ああ、いるな、一人だけ!」

「一人だと? どこだ」

「あんたの目の前だよ。親切にも食い物と防寒着を持ってきてやったんだから、さっさと離せよこの! つーか、あんた一人で何やってんだ!」

 当惑する様子が背中越しに伝わってくるが、腕は極められたままだ。

「あのな、自慢じゃねえが俺だって後ろ暗いところだらけで軍警に捕まったらまずいのはあんたと一緒なんだよ。ああ、最初に会った時の軽い脅しを気にしてんのか? あんなのはちょっとした挨拶みたいなもんだろうが。とにかく離せって」

「ううむ」

「ドルジ。離してあげてください」

 なおも決めかねるドルジを、木陰から出てきたピュンソクが取りなす。

「ですが……いや、承知しました」

「とにかく、氷漬けになるのが嫌ならこれを着ろよ。すぐ出発だ」

 二人に防寒着を渡し、ドルジには荷物も分担させる。

「チャオフェイよ。なぜ、こうまでして我らの手助けをする」

 歩き始めてすぐ、納得いかないといった調子でドルジが問う。

「……俺は運び屋だ。荷物は責任を持って送り届ける。何の不思議がある?」


 振り返らずに言ったのは、それが一面の真実でしかないからだ。


 十年前、チャオフェイはヒルム山脈を越えて独立第四大隊を手引きした。もちろん案内がなくとも大勢に与える影響は微々たるものだっただろう。だが、自身の判断と行動が異なっていれば、いくらかは犠牲を減らせた可能性もある。


 疑問は解消しなければ気が済まない質だ。

 答えのない問いであっても、それは変わらない。


 自身の抱えた罪の重さを、正確に知りたい。

 できうるならば、それを償いたい。


 罪滅ぼしと呼ぶにも値しない自己満足。だから二人には何も言わない。


「私はチャオフェイが真実を述べていると思います。ここまでの行動を見ても、彼が信頼に足る人物であることは疑いようもありません。ドルジ、貴方も分かっているはずです。私たちは、チャオフェイの助けを必要としています」

「過分なお褒めの言葉、どーも。生憎、そんなご立派な人間じゃないけどな」


 高僧であっても、人の本心は読めないらしい。宗教なんてそんなものだ。


 小一時間も歩いて、人目に付きやすい登山口から離れたところで小休止を取る。火は使えないので、水を入れてふやかした干し飯と干し肉が朝食だ。最後に訪れた村できちんと準備を整えていれば、初日くらいは肉と野菜の入った饅頭にありつけたはずだが、今さら文句を言っても仕方がない。もそもそと黙って口に運ぶ。


「ドルジ、ちょっと来てくれ」


 ゆっくり噛みながら食事を続けるピュンソクはそのままに、少し道を戻る。ちょうど登山口が見下ろせる位置で、追っ手の動向を伺うのに都合がいい地点だ。こちらの存在を気取られないよう木陰から観察すると、二十人ほどいるのが確認できた。


「むう……尾行されたか?」

「いや、それにしちゃ動きが鈍い。通報を受けて、可能性のある場所を総当たりしてるんだろ。慌てて人手をかき集めたなら、士気もそう高くはないはずだ」


 チャオフェイ、あるいはドルジなら逃げ切れるだろう。問題はピュンソクだ。軟禁で体力の衰えた彼が歩けなくなれば、交代で背負って進むしかなくなる。追っ手も人の痕跡を見つけた時点で本腰を入れるだろうから、あまり余裕はない。


「ルート選定とペース配分は任せろ。あんたはピュンソクを見てやってくれ」

「うむ、心得た」


 ヒルム山脈越えに三日、そこからフバク湖まで一日。長丁場となるので、追いつかれない程度に急ぎつつ、途中で潰れないように休まなければならない。ピュンソクにとっては辛い道程になるだろうが、我慢してもらうしかなかった。


 出発する前に、ドルジが即席のトラップを仕掛けた。手製の爆弾を用いたもので、直接的な被害に加えて、追う側の足を鈍らせる効果が期待できる。


 それから一日、ひたすら歩き続けた。自然と口数も少なくなる。


「よし、今日はここまでだ」


 予定していた行程を消化し、岩壁にできた窪みで身体を休める。流石に三人は入れないが、持ってきた毛布で簡易な屋根をかけて風雪を遮り、身体を寄せ合えば日没後も凍えずに済む。暗闇の中での移動は命取りなので、追っ手もどこかで寒さを凌いでいるはずだ。無理に動いて遭難してくれるならありがたい。


 翌日も雪が止む気配はなかった。足首に達した積雪に足を取られ、ピュンソクの足が鈍り始める。むしろ、ここまでよく持った方だと言える。


 この先、道はどんどん険しさを増す。手製爆弾も残り少ないので、足止めにも限度がある。まだ追いつかれてはいないが、決断するならそろそろだろう。


 小休止を取るために足を止めたついでに、ドルジに視線を送る。

 彼は黙ってうなずいた。考えていることは同じだろう。


「チャオフェイ、私は歩けます。出発しましょう」

「その前に、ドルジから話があるんじゃないか」

 ドルジはそれを聞いて眉を寄せるが、やがて覚悟を決めたように口を開く。

「ピュンソク……いえ、ツェリラマ。ここでお別れです」

「そうか……うん、また会おう、ノルブラマ」


 二人が交わした言葉はそれだけだった。

 酷くあっさりとしたやり取りに、チャオフェイの方が狼狽する。


「おいおい、本当に分かってるのか。ドルジのおっさんは一人で残って、追っ手を足止めするって言ってるんだぜ。もう会えるとは限らねえ。それなのに……」


 ピュンソクは黙ってチャオフェイを見つめることで返答に代えた。

 そのまっすぐな眼差しに射貫かれ、言葉を失ってしまった。


 銃で武装した二十人の追っ手を相手にして、ドルジが生き残る見こみは限りなく薄い。ドルジはもちろん、ピュンソクもそのことを理解しているはずだ。


 誰かが自分のために命を捨てようとしているのに、こうも平然としていられるものだろうか。常に泰然としているピュンソクが、なにか人ではないものに見えた。


「急げ、チャオフェイ。ピュンソクを頼むぞ」

 言い知れぬ震えに襲われていたチャオフェイを、ドルジの言葉が引き戻す。

「……運び屋風情を信じていいのか?」

「今までの無礼は詫びよう。拙僧はそなたを信じる」

 深々と頭を下げるドルジ。流石にそれを見て思うところはあった。

「……ちっ。死ぬなよ、ドルジ」

「無論。また会おうぞ」


 ドルジはわずかに顔を歪めると、追っ手を迎え撃つために来た道を戻っていく。あれは笑ったのだろうか、と遅れて理解する。


「……行くぞ、ピュンソク。今のうちに距離を稼ぐ」


 雪は降り続いている。囮となったドルジが明後日の方向へ敵を誘導してくれれば、チャオフェイたちの痕跡は完全に覆い隠されるだろう。


 三千メートル超の山が連なるヒルム山脈の中で、山頂でも三千メートルを切るロンル山は超えやすい部類に入る。ここまで来れば、行程の半分は消化した計算だ。そのまま稜線を下っていくと、小さな洞窟がある。自然のものに手を加えて、物資を置けるようにしたものだ。ここなら少しは火も使える。


 洞窟の奥には湧き水もある。干し肉で塩味を付けた粥を作り、砂糖をたっぷり溶かしこんだ茶を淹れる。温かい食べ物を腹に入れると、緊張も解けて疲労が押し寄せてきた。冷え切った手足を火であぶっていると、心から生きていると思えた。


「なあ、ピュンソク。本当にあれでよかったのかよ」

 一息つけたので、ずっと気になっていたことを問う。

「そうですね。きっとドルジとは今生の別れとなるでしょう」

 穏やかに、柔らかく微笑むピュンソク。

 なぜ笑うのか、その意味がチャオフェイには理解できない。

「これだから、坊主ってやつは……」

 顔をしかめるチャオフェイに、今度はピュンソクが問いかける。

「チャオフェイは、僧が嫌いですか?」

「ああ、嫌いだね。俺は理解できないやつが嫌いなんだ。弾圧への抗議だか知らんが、頭からガソリンかぶって丸焼きになりたがる気分が分かるか?」

 ニュースにするのは禁じられているが、そうしたうわさは時々耳にする。

「言いたいことがあるなら、武器を取って戦えばいいんだよ。違うか?」

「そうかも知れませんね」

 ピュンソクはあっさり肯定した。意外な返答だった。

「いいのか? 観教じゃ殺生は禁止とか言ってなかったか?」

「はい、無闇な殺生は固く戒められています」

「だったら、観教のトップであるお前がそんなこと言っていいのかよ。いや、俺が知ったこっちゃないんだが……つーか、ドルジのおっさんは敵兵を殺してるし、そのあたりはどうなってるんだ? やることもないし、ひとつ教えてくれよ」

「……ふふ。チャオフェイは、私が人を殺したことはないと思っているのですね」

「違うのか? シャイアに捕まる以前は観教のトップで、捕まってからは軟禁生活。機会がない以前に、殺生を戒める教えのトップが人を殺してちゃまずいだろ」

「確かに。私が直接、手を下したことはありません」

 どこまでも穏やかに、教え諭すようにピュンソクは続ける。

「ですが、私の命を繋ぐために多くの人間が命を落としてきました。そしてこれからは祖国奪還のため、より多くの人間を死に向かわせる旗印となることを望まれています。私は彼らを見殺しにしてきたし、これからもそうするつもりです」


 今はサルシア連盟国の領土となっているシンユー共和国の奪還を望むなら、確かに流血は避けられないだろう。その旗印となるピュンソクが、兵たちを見殺しにしたという見方もできる。チャオフェイには、とっさに反論の言葉が思い浮かばない。


「もちろん、直接的に銃を取って戦えとは言いません。むしろ平和裡に領土の返還が成されるよう祈りを捧げ、外交の場でもそのように喧伝します。一時は虜囚となりながらも平和を望む宗教的指導者というイメージが定着すれば、国際社会を味方に付けられます。面と向かって私を人殺しと詰る人間は、決して多くないでしょう」

 まるで他人事のように語るピュンソクを、チャオフェイは恐ろしいと思った。

「それこそが観教徒の望むツェリラマの在り方。僧兵たちはその理想を守るため、進んで戦場に身を投じることでしょう。戒律を破り、自身は地獄へと落ちる覚悟を決めた彼らは勇猛であり、命を捨てることにためらいがありません」

「……ドルジも同じってわけだ」

「はい。それに、観教徒にとって死は終わりではありません。繰り返される輪廻の、ひとつの区切りに過ぎないのです。いつか、またどこかで再会できるという希望があれば、人は死をも受け入れられます。扇動する側としてはやりやすい」


 口数の少ない、穏やかな人格者。チャオフェイが抱いていた印象は、間違っていたのかも知れない。淡々と述べるピュンソクの表情はほとんど動かない。


「部外者の俺なんかに、そんな本音を話していいのかよ」

「あははっ」


 チャオフェイが尋ねると、ピュンソクは声を上げて破顔した。

 それから面食らう彼に向かって、穏やかで優しげな笑みを形作ってみせる。


「さて、本音とは……? 私は何かお話したでしょうか」


 わざとらしく首をかしげ、とぼけてみせるピュンソク。

 その言葉の意味を咀嚼するのに、少しだけ時間が必要だった。


「……なるほど、な。いいさ、もう寝ろよ」


 証人となる第三者はいない。この場で何を話そうと、確かにピュンソクがそう言ったと証明できなければチャオフェイの虚言とされるだけだ。


 焚き火に背を向け、毛布の上で横になったチャオフェイは、すぐ側で同じようにしているはずの人間の底知れなさに震えが止まらなかった。



 どうやら追っ手は完全に振り切ったらしい。


 三日目の昼過ぎ、国境を越えてサルシア連盟領に入る。ヒルム山脈越えは成された。ここまで来れば、目的地のフバク湖までは徒歩で一日だ。シンユー高原は広大過ぎて監視の目も行き届かないので、サルシア兵に捕まる危険も少ない。


 天候は再び悪化して、吹雪になる。乾燥したさらさらの雪なので足は取られないが、遮るもののない高原では風に乗った粉雪が容赦なく吹き付け、体温を奪っていく。目印となるものもなく、方向感覚を失いそうになりながらフバク湖を目指した。


 この状況では野営もできない。ひたすら歩き続け、日が沈んでからも進んだ。はぐれないようにロープで身体を繋ぎ、時々声を掛け合いながら歩く。ようやく吹雪の勢いが弱まり、月明かりが大地を照らす。白銀の原野がそこにあった。


 最後の丘を越え、ようやくフバク湖に到着する。凍結した湖面の側には朽ちかけの廃墟。ピュンソクの生まれ故郷、プマ村だったものだろう。


「で、迎えはどこにいるんだ?」

「……チャオフェイは知らないのですか?」

 思わず互いの顔を見合わせる。

「ドルジから聞いてないのか? 俺の仕事はお前をフバク湖に送り届けることで、その先は聞いてないぞ。仲間が迎えに来るんじゃないのか?」

「ドルジからは、フバク湖に向かうとしか」

「くそっ……何だそりゃ」


 伝え忘れはないと思いたい。もしここからさらに移動する計画だとしたら、手がかりは何もないのだ。だとすれば、迎えは来る。あるいは引き上げた後か。


「おそらく、ドルジも知らなかったのだと思います」

「そりゃどういうこと……ああ、そういう意味か」


 敵地からの人質救出はただでさえリスクの高い作戦だ。知らない情報は漏らしようがないのだから、潜入する人間に必要以上の情報を教えなかったとしてもおかしくはない。このフバク湖からシンユー共和国の臨時政府があるマナルナ聖教国へと抜けるルートを知る協力者を伏せておきたかった、という可能性はある。


「……となると、待機だな」

「チャオフェイはこのまま立ち去っても構わないのですよ。迎えに来た人間には、貴方が立派に仕事を果たしてくれたとお伝えしますから」

「バカ、そんな半端な仕事ができるかよ。ここまで来たら最後まで見届けるさ」


 迎えを待つにしても、吹きさらしの場所では凍死しかねない。プマ村跡地で柱と壁が残っている建物を見繕い、風雪を凌げる最低限のスペースを作る。残り少ない食料を分け合い、壁にもたれて身体を休める。目を閉じると寝てしまいそうだった。


「眠っちまって迎えに気付かないとまずいな。話す元気はあるか?」

 ピュンソクはちらりとチャオフェイに視線を向けてから口を開く。

「……そう、ですね。チャオフェイは、なぜ私たちを追ってきてまで手助けするのかとドルジに問われ、運び屋だからだと答えました。あれは、嘘でしょう」

「……どうして、そう思う?」


 疑問形ですらなく嘘だと断言され、思いがけず動揺する。

 そのまま問い返すので精一杯のチャオフェイに、ピュンソクが畳みかける。


「最初に出会った時から、貴方は私たちに引け目を感じているようでした。斜に構え、宗教など信じていないとあからさまに態度と言葉で示してみせる。察するに、過去にシンユー共和国を訪れた際に何かあったのではありませんか?」

「……ちっ。くそ、見透かしたようなことを……ああ、その通りだよ」


 ピュンソク。そしてドルジ。二人と旅をして、話を聞く内に気付いたことがある。十年前、チャオフェイが所属していた独立第四大隊の作戦目標だ。当時、ヒルム山脈越えの案内人でしかなかったチャオフェイに知らされた、ゲリラの根拠地となり得る村や集落の破壊もしくは懐柔、という目的はおそらく偽装に過ぎなかった。


 真の目的は、シンユー共和国で強い影響力を持つ観教の指導者を拉致すること。捉えた指導者を脅迫あるいは洗脳して、統治の道具にすることだったのだろう。当然、そのような後ろ暗い目的を公にしたくはないので、別の目的を掲げたのだ。もっとも、そうして掲げた建前も諸外国では非難の対象になりそうなものだったが。


 ともかく、チャオフェイがその手助けをしたのは厳然たる事実。ピュンソクには、チャオフェイを断罪する理由と正当性がある。


「俺は元シャイア兵で、十年前のシンユー共和国侵攻にも加担した。ひょっとしたら、お前の家族だって殺してるかもな。ドルジのおっさんが聞けば怒り狂ったかも知れないが、ここにいるのは俺とお前だけだ。どうする、俺を殴るか?」

「いいえ、殴りません」

「殴るだけじゃ飽き足りないなら、殺したっていいんだぜ」

「いいえ。だって、貴方は殴られたら救われてしまうでしょう?」

「え?」

「罪を告白して、然るべき罰を受ける。そこにはある種の快感があります。人はそれを救いと呼ぶのです。だから、私は罰を与えません。ただ貴方を赦します」


 チャオフェイを見つめて微笑むピュンソク。

 その表情と眼光から、本心を読み取るのは難しい。

 あるいは、このまま眠れば寝首をかかれるのかも知れない。


「……そうかよ。だったら、このまま抱え続けるさ」


 疲労の極地で、上手く頭が回らない。

 余計なことを言わなければよかっただろうか。


 思えば、ピュンソクを彼の仲間に預けたら、今度はチャオフェイ自身が捕まらないよう逃げる必要があるのだ。うわべだけでも関係を築いて、マナルナ聖教国に連れて行ってもらうのが賢いやり方だったという気もしてくる。


 今さらだろう。そんな諦観を最後に、意識が途切れた。



 肩を揺り動かされて、目を覚ます。

 口を塞がれていた。窒息死させるつもりかと慌てる。

 だが、そうではなかった。ピュンソクが囁くように言う。


「人の気配がします」


 耳を澄ますと、風音に混じって犬の吠え声も聞こえた。

 追っ手、だろうか。


 脱走者に国境を越えられるという失態を犯した東方シャイア帝国の軍警が、取り逃がすよりましだと考えてサルシア連盟国の当局に協力を依頼した可能性はある。


「ここにいるのはまずい。逃げるぞ、荷物は置いていけ」


 外の様子を伺う。幸い、視界もろくに利かない酷い吹雪だった。


 追っ手は半ば叫ぶように会話していて、その声がピュンソクに届いたのだろう。見つからないように壁の後ろに回りこみ、手振りで湖の方角を示す。


 ピュンソクの肩を叩いて先に行かせ、そのすぐ後を追う。なるべく静かに、できるだけ速く。見つかってくれるなという祈りは、一分も持たなかった。鋭い警笛と犬の吠え声が響き、二人の姿が灯りで照らされる。舌打ちして、全力疾走に移る。


「全力で走れ! 後ろは気にするな!」


 足が重い。膝が抜けて転びそうになる。

 諦めて捕まってしまった方が楽ではないかという考えが頭をよぎる。


 ここまで来たのに、迎えが来ないせいで捕まるのかと思うと腹が立つ。さっさと逃げておけばいいものを、迎えが来るまでと待ってしまった自分はもっと腹立たしい。あるいは、これこそがチャオフェイに下された罰なのだろうか。


 踏みしめる足元は、いつの間にか雪から氷へ変わっている。湖上に出たのだ。

 この時期、湖に張った氷の厚さがどれくらいなのかは知らない。

 もし薄いところを踏み抜いたら、溺死か凍死だ。

 頭上では轟音が鳴り響いている。


「……頭上だと?」


 疑問を覚えて視線を上げた瞬間。

 チャオフェイの全身をまばゆいばかりの光が包む。

 全天を覆っていた分厚い雪雲が晴れ、朝日が降り注いでいた。


 否、そうではない。

 前を走っていて、今は立ち止まっているピュンソクの、その向こう。

 黒い壁のように見えるのは、猛烈に吹き荒れる吹雪だった。

 振り返ると、チャオフェイの背後も同じだった。


 湖の中心に、まるで台風の目のようにぽっかりと空間ができていた。


 だが、吹雪に目があるとは聞いたことがない。どう考えても自然現象ではなかった。現に、まっすぐ進んでくれば追いついていてもおかしくない追っ手の声と犬の吠え声は徐々に遠ざかっている。強烈な吹雪で方向感覚を失ったらしい。


「どんな奇跡だよ、こりゃ……」


 ピュンソクのような徳の高い僧なら奇跡を起こせる、というわけでもないらしい。彼もまた、チャオフェイと同じように目を瞠り、状況を掴めずにいた。


 頭上から轟音。


 だが、さっきとは違って徐々に近付いてくる。

 視線を上にやれば、そこには輝かしい純白の飛行機がいた。


 湖の周囲は荒れ狂う吹雪で閉ざされているのに、その飛行機はそよ風の吹く草原に降り立つような優雅で滑らかな着陸を見せ、二人に近付いてくる。彼らの周囲だけが祝福され、見えない力で守られているような、そんな印象を受ける。


 飛行機は二人の真横で停止すると、キャノピーを開けて二人の乗組員が姿を現す。氷上で見事な着陸を決めてみせた飛行士と、雪のように白い髪の少女。


「やあ。君たちがお客さんだな」


 近くで見ると、怖いくらい整った容貌の少女だった。

 彼女はどこか中性的な口調で、微笑みすら浮かべて自己紹介する。


「わたしはトゥール・ヴェルヌ航空会社の航法士フェル・ヴェルヌ。こちらは操縦士のユベールだ。依頼を受けて君たちを迎えに来た。さあ、急いで乗ってくれ」


 少女は身軽に飛び降りると、機体側面の貨物扉を開ける。

 まずピュンソクが乗りこみ、少女はチャオフェイにも視線で促す。


「いや、俺は……」

「チャオフェイ!」


 ピュンソクが大声で呼ぶ。


「貴方は私の秘密を知る人物です。捕まってもらっては困ります」


 そう言って、彼は笑った。悪戯っぽく。

 あるいは、最初からそのつもりでチャオフェイに〝本音〟を語ったのか。


「はっ、食えねえ坊さんだぜ、まったく……」


 もう一度だけ、後ろを振り返り。

 それから飛行機に乗りこんだ。

第十四話「舞い降りるは天上の湖水」Fin.

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