14-4
プマ村のピュンソク・デチェンが第十三代ツェリラマの転生者と確認されてから、十三年の月日が経った。シンユー共和国の首府メサムにあるカンワラン宮殿で教育を受けたツェリラマは生まれ持った才能を開花させ、観教徒を束ねるシンボルとして若年ながら国内外から信望を集めるようになっていた。
その間、シャイア帝国が国境付近で不穏な動きを見せることは一度や二度では済まなかったが、隣国にして同盟国であるマナルナ聖教国と連携することで未だ開戦には至らずに済んでいる。齢四十三となったドルジ――ノルブラマは僧兵を束ねる共和国軍事部門の責任者として、国際情勢に神経を尖らせる日々を送っていた。
「やあ、ノルブラマ」
節くれ立った太い指で万年筆を握り、書類仕事をしていたノルブラマを前触れもなしに訪れたのは、涼やかな笑みを浮かべた若きツェリラマだった。
「これはツェリラマ。拙僧に用事でもありましたかな?」
「はい。貴方がメサムに戻ってきたと聞いて、話をしたくなりました」
「話……ですか」
万年筆を置き、目頭を揉む。多忙なツェリラマがわざわざ訪ねてきたからには、重要な要件なのだろうか。そう考えて居住まいを正すと、苦笑されてしまう。
「ノルブラマはいつも真面目ですね。いえ、宮殿にこもっていると、話をして欲しいと求められるばかりでして。たまには人の話を――ノルブラマ、貴方が見聞きしたものを語り聞かせて欲しいのです。ほら、こうして茶菓子も持参しました」
人前では見せない、悪戯っぽい表情で笑うツェリラマがいそいそとお茶の準備を始める。プマ村を出て十三年、誰もが彼にツェリラマとしてふさわしい判断と立ち居振る舞いを期待し、それが少しでも裏切られたと思えば失望した。幾度もの転生を重ねた観教のトップ、生ける象徴としての重圧はどれほど重かっただろうか。
ツェリラマがまだピュンソク・デチェンでしかなかったころを知る人間は、メサムには少ない。彼が十二回の転生を重ねたツェリラマではなく、まだ十五歳の若者としての顔を見せられる人間はもっと少ない。ノルブラマは両方の条件を満たす限られた人間であり、であれば気晴らしの話し相手になるのも勤めだ。
「……此度は、国境地帯の視察をして参りました。ここ数年、シャイア人の行商人は数を増す一方。彼らはシンユー高原の奥深く、ここメサムまで入りこんで商いをして、情報を祖国へと持ち帰っているようです。拙僧は入国に制限をかけるべきと提言したのですが、チュクワン首相にシャイアの介入を招くとして反対されました」
シンユー共和国には三人の指導者がいる。宗教的象徴のツェリラマ、軍事を統括するノルブラマ、世俗の代表として政治を取り仕切るチュクワン首相だ。
「チュクワンは見識が広い。協力して事に当たってくださいね」
「は……もちろんです」
「民の暮らしに変わりはありませんか?」
「はい。今年は天候に恵まれ、羊がよく肥えたと聞いております」
「それは何よりですね」
ツェリラマはにこやかにそう言うと、茶菓子をつまむ。
だが、ノルブラマの心中は複雑だった。この十年、シンユー共和国は表面上の穏やかさを保ち、民は常と変わらぬ日々を過ごしている。変わらないのは決して悪いことではないが、周辺国が驚くべき速さで変わっていくならそうも言っていられない。
この十年、シャイア帝国は着々と軍事力を増強し、領土を拡大している。危機感を持った諸外国も軍拡を続け、旧態依然としたシンユー共和国の軍隊は相対的に弱体化していた。マナルナ聖教国から買い入れたライフルや大砲でシャイアの戦車や爆撃機に立ち向かうのは、地の利をもってしても困難であると考えられた。
だが、そのような悩みをツェリラマに打ち明けるつもりはなかった。
ツェリラマが動揺する姿を見せれば、全ての観教徒へと伝播するからだ。
「ノルブラマ、悩みを抱えてはいませんか?」
心中を見透かしたような発言に、どきりとさせられる。
「……いえ、長旅の疲れが出たようです」
嘘ではないが問いに対して正面から答えていないノルブラマに対して、ツェリラマが言葉を重ねようとした瞬間、新たな来訪者が姿を現した。カンワラン宮殿の内部にあるノルブラマの執務室まで、僧でもないのに入ってこれる人物はたった一人を除いて存在しない。還俗して、現在は共和国首相の座にあるチュクワンだ。
細身で眼鏡をかけ、薄い笑みを貼り付けたポーカーフェイスを崩さないチュクワンは、十代半ばで還俗してエングランド王国に留学したという異色の経歴の持ち主で、その見識の広さを見こんだ一代前のツェリラマに首相へと抜擢されたのだ。
「おや、ツェリラマもいらしたのですか。ふむ、手間が省けました」
「ちょうど貴方の話をしていたのですよ、チュクワン」
「はは、どんな話ですやら……これをご覧ください」
チュクワンが差し出したのはシャイア帝国から送られた親書だ。書面に目を通したツェリラマは表情を変えず、黙ってノルブラマに親書を手渡した。
「友好の印として、ツェリラマを陳都での観劇に招待する、か」
あからさまな誘いだ。行けば何をされるか分かったものではない。
しかしツェリラマは違う受け取り方をしたらしい。
「チュクワン、ノルブラマ。私はこの招待を受けようと思います」
「いけません」
「拙僧も反対だ」
にべもない返答に、ツェリラマがしゅんとする。
「ですが、武力では敵わないからこそ、対話が重要なのではないでしょうか」
気を取り直して発言するツェリラマに、チュクワンが尋ねる。
「相手とまともに対話できる……すなわち譲歩を引き出せるだけのカードをこちらが手にしているなら、なるほど対話も選択肢に入ってくるでしょう。ツェリラマは交渉をどのように進め、どこに落とし所を持ってこようと考えておられますか?」
「……確かに、考えなしの発言でした。それでも、対話から得られるものはあると考えます。シャイアの考え方を知り、我が国との差を知ればこそ見えるものもあるはずです。私はあまりに物を知らない。かの国をもっとよく知りたいのです」
誰とでも真摯に向き合う人間性。それはとても尊いものだ。
しかし、現下の状況がそれを許さない。
チュクワンは小さくため息を吐くと、はっきりと言葉にした。
「ツェリラマ。正直に申し上げましょう。これは貴方を拉致して、殺害もしくは洗脳するための招待状です。私は招待を受けるかどうかの確認ではなく、今後とも同種の誘いには絶対に乗らないよう釘を刺しに来たのです。よろしいですね?」
拉致、殺害、洗脳。カンワラン宮殿ではついぞ聞かない刺激的な単語に、ツェリラマは目を丸くした後、酷く悲しげな表情を浮かべるのだった。
*
チュクワンが危惧した通り、ツェリラマへの招待は飽くことなく執拗に繰り返された。こちらに断らせることで、心理的に優位に立つ意図もあるのだろう。三通目からは、招待状が来てもツェリラマには知らせないとチュクワンが決めた。
同盟を結ぶマナルナ聖教国からは、シャイア帝国が国境付近に戦力を集めているという情報がもたらされていた。共和国の諜報能力はお粗末なもので、自国の危機さえ隣国に教えてもらわねば分からないのだった。だがノルブラマに自嘲している暇はない。軍事部門の責任者として直ちに防衛計画を発動せねばならなかった。
「遺憾ながら、カンワラン宮殿を退去せざるを得ない。ツェリラマとダーワラマにはメサムを離れ、万一の事態に備えていただきます。なに、ご心配めされるな。拙僧とチュクワンにお任せあれ。見事、シャイアを退けて見せましょうぞ」
それが強がりであると、少なくともツェリラマは見抜いていただろう。
僧兵たちの指揮は信頼できる部下に任せてある。チュクワンは運悪く――あるいは運良く――武器供与の交渉でマナルナ聖教国に滞在していたので、あちらに残って最悪の事態に備えてもらうと決まった。おそらく、そうなる可能性は高い。
ツェリラマを始め、限られた僧だけが集うカンワラン宮殿でも奥まった場所に位置する部屋だ。年嵩の顔が並ぶ中で、ツェリラマの隣に座るダーワラマは幼子ながらも気丈に口を引き結び、分からないなりに大人しく説明を聞いていた。
ダーワラマ五世。ツェリラマとよく似た顔を持つ、五歳の少年。
つい半月前、正式にダーワラマの転生者であると確認されたプマ村のタシン・デチェン――ツェリラマことピュンソク・デチェンの実の弟――が彼である。同じ村に住む、実の兄弟が転生者だった例は過去になく、暗いニュースばかりのメサムにおいて久々の明るい知らせ、吉兆として人々に受け止められていた。
メサムで初めて顔を合わせた二人だったが、やはり血を分けた兄弟ゆえか、打ち解けるまで時間はかからなかった。深刻な雰囲気にやや萎縮したようなダーワラマは兄を頼るように見上げ、その視線を受け止めたツェリラマが柔らかく微笑む。
ツェリラマはしばし瞑目した後、一同の顔を見回してから言った。
「では、ノルブラマ。ダーワラマを連れて、先にメサムを離れてください」
「ツェリラマはどうなさるつもりか?」
「ここに残ります。民を見捨てて、私だけが逃げることはできません」
ツェリラマの言葉に、居並ぶ僧たちがざわめいた。
「な……なりません、あまりにも危険です!」
「危険かどうかは問題ではありません。私が逃げたと知れれば、国境で戦う兵たちにも動揺が走るのは必定。そして彼らが総崩れとなれば、侵略者から民を守る者はもういない。兵たちには武器を取る理由が必要です。違いますか、ノルブラマ」
ツェリラマ、そしてダーワラマはシンユー共和国に住まう全ての観教徒にとっての心の拠り所だ。二人がカンワラン宮殿を放棄したと知れれば、大きな混乱を生むのは予想できる。人の口に戸を立てることはできないからだ。
「しかし、それではツェリラマが……」
ノルブラマは歯噛みする。チュクワン首相なら上手く説得できたのかも知れないが、彼は遠くマナルナ聖教国にあり、また軍事指導者としての彼自身はツェリラマの言葉が的を射たものだと認めざるを得ないからだ。民を導く者として、覚悟が決まっていないのはどちらの方なのかと自嘲したくもなる。
「心配はいりません。メサムの人々が脱出したら、私も後を追います」
「ツェリラマ、それは……」
人は変化を恐れる。変わらなくていいなら、その方が楽だからだ。
ツェリラマがメサムに留まれば、人々はそれを逃げなくてもいいというメッセージだと受け取るだろう。そうでなくとも、生まれ育った土地を、逃避行に耐えられない幼子や老いた両親を捨てて逃げるという決断を下せる者は多くない。
このままでは、メサム陥落の瞬間までツェリラマは宮殿に留まり続けることになりかねない。もしそうなってしまえば、シャイア帝国が彼をどのように利用するのかは知れたものではない。であれば、ノルブラマとしては無理矢理にでもツェリラマを連れ出すのが正しいのだろうか。分からない。答えはどこにもない。
「ノルブラマ」
苦悩する彼に、ツェリラマが優しく言葉をかける。
「ダーワラマを頼みました」
「……承知」
この返答を、ノルブラマは後になって悔やむことになる。
長くを尾を引き、折に触れては思い出すいくつかの後悔、そのひとつ。
ツェリラマの意思が固いと見て、それに甘えてしまったのだ。
だが、当時はそう思わなかった。ツェリラマに次ぐ立場となるダーワラマをマナルナ聖教国へと逃がすことも重要な任務だと自分を納得させ、とにかく移動の準備を整えた。季節は冬に差しかかり、ヒルム山脈は分厚い雪と氷に覆われている。まだ五歳の少年に過ぎないダーワラマにとっては過酷な道行きとなるはずだった。
夕刻、シャイア帝国軍が国境を越えたとの急報がもたらされた。それと前後して、メサムにあるシャイア大使館より〝シンユー共和国軍が宣戦布告をせずに先制攻撃をかけたことに強く抗議する。即時国交断絶、宣戦布告を行う〟との通告があった。
「馬鹿な、先制攻撃だと!」
国境の守備隊には軽挙を慎むよう申し伝えてある。共和国から攻撃をかけるなどあり得ない話で、おそらくシャイアの自作自演だろう。しかし、それを言い立てたところで仲裁してくれる存在がいるはずもない。戦争は始まってしまったのだ。
「ダーワラマ、すぐにここを発ちます。ご容赦を!」
彼を抱え上げ、厩舎へ向かう。この瞬間、メサムに爆弾が降り注いでも不思議ではないのだ。ここからは追っ手がいるという前提で動かなければならない。目立ち過ぎないよう、信頼できる部下を二人だけ連れて行くことにする。
夜を徹して馬を走らせれば、明日の昼前にはヒルム山脈の裾野まで着ける。帝国軍の主力である機械化師団は北と西の二方向から攻め上ってくると想定されるので、やや東寄りに南下し、ヒルム越えを果たしてマナルナ聖教国に落ち延びる計画だ。途中ではフバク湖の側を通ることになるので、ツェリラマやダーワラマの故郷であるプマ村にも立ち寄れる。そこで小休止して、ヒルム越えに挑むことになるだろう。
幼いなりに思うところがあったのだろう。ダーワラマはぐずりもせずにノルブラマに背負われ、ずっと押し黙っていた。転生者であっても肉体の年齢には引きずられることを思えば、三頭の馬を順番に乗り換えながらの強行軍の最中、激しい上下動をものともせずに寝息を立てる大物ぶりには驚かされる。
満天の星空はやがてその青を薄くしていき、東の空が焼けるような赤へと移り変わっていく。丘を越えると、巨大な湖が姿を現した。草原に薄く積もった雪と、まだ氷の張らぬ湖面が陽光を照り返し、視界を眩しいほどの光で溢れさせる。
丘を下り、湖に沿って馬を進めるとプマ村が見えてくる。ようやく休めると安堵した瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。しかし、近付くほどになぜか違和感が強くなる。人の姿が見えないからだと思い至り、手綱を引いて馬を止めた。二人の部下も馬を止めて、油断なく周囲へ視線を走らせている。
「ダーワラマ、起きていますか?」
「うん、起きてる。なに、ノルブラマ」
すでに陽が昇っているのに、羊を追う人の姿がない。
煮炊きする煙を見れば屋内に人がいるのは明白なので、これはおかしい。
「……村には寄らず、ヒルム山脈を越えます。ご辛抱を」
「わかった」
勘違いという可能性もある。だが、今は少しでもリスクを避けるべきだ。休息と物資の補充ができなかったのは痛いが、このままヒルム越えに挑むしかない。
馬首を返して湖岸を進む。果たして、一行が村に寄らないつもりだとはっきりした瞬間、屋内から十数人の軍服姿が飛び出してきた。彼らは草やシートで偽装していた小型軍用車に飛び乗ると、左右から挟みこむように追跡を開始する。馬に乗った者も数人いるのが見て取れた。草原での馬の扱いに慣れた者だとすれば厄介だ。
「飛ばします。舌を噛まないよう、黙っていてください」
「ん!」
連れていた二頭の替え馬の手綱を手放す。追われながら乗り換える余裕はないし、上手くすれば勝手に付いてくるからだ。あえて岩の突き出した場所やぬかるんでいそうな場所を選んで駆け抜け、まずは車を振り切りにかかる。見通しのいい草原で車を振り切るには、事故らせるかスタックさせるかするのが最善だからだ。
なぜ先回りされたのか、村人はどうなったのか、渦巻く疑問を心の奥底に押しこめ、手綱さばきに集中する。行き先がヒルム山脈、その先にあるマナルナ聖教国であることは自明なので、どうあっても追っ手は振り切らなければならなかった。
「かわして!」
背中から投げられた幼い声に、ノルブラマはとっさに反応した。
鋭い風切り音。わずかに針路をずらした二人と一頭の側を矢がかすめていった。
使ってくるなら銃だと思っていたので、意表を突かれる。
「父上……?」
風にかき消されそうなダーワラマのつぶやきに、耳を疑った。
プマ村の村長、ツェリラマとダーワラマの実の父親がシャイア軍に手を貸しているということか。いったいなぜ。疑問は増えるばかりだったが、後方を確認すると、確かに軍服ではない人間が一人だけ混じって、馬で追いすがってくるのが見えた。だが十数年前に一度だけ会ったきりの男の顔を、ノルブラマは覚えていなかった。
ただ、彼が憤怒に満ちているのは感じ取れた。この距離で表情まで読み取れるわけもないのだが、確信があった。彼は軍服の男たちと怒鳴り合っていて、その後は矢が飛んでこなくなった。おそらく、ダーワラマを傷つけないで捕らえるために制止されたのだ。つまり、最初の一矢は彼自身の意思で射られたということだ。
二人の部下が馬を寄せてきて、思考を現実に引き戻される。
「ここは我らが足止めします。どうか先を急いでください」
「すぐに後を追います。聖教国で落ち合いましょうぞ」
「待て、二人とも死に急ぐな!」
二人はノルブラマの制止に微笑みでもって応え、馬首を巡らせた。背負っていたライフルを構え、狙い、撃ち放つ。弾丸は車両を狙ったもので、片方は運転手の頭部を捉えてハンドルに脳漿をぶちまけさせ、もう片方は命中こそしなかったものの回避のために急ハンドルで岩に乗り上げさせ、その動きを止めた。
馬に乗っていた兵たちが反撃を始め、車から降りてきた兵たちもそれに加わる。多勢に無勢、何発かの銃弾が身体を貫くも、馬上射撃の達人である二人の射撃から正確性が失われることはなかった。彼らの銃弾は敵兵ではなく、移動手段である車と馬を的確に狙っている。敵兵もそれに気付くが、すでに手遅れだ。
足止めを買って出た二人とその乗馬が血塗れで地に伏すまでの間に、シャイア兵たちは移動手段を喪失していた。ただし、銃撃戦が始まると同時に下馬して草むらに馬を伏せさせていたプマ村の村長だけは無事だった。彼は戦闘が終わると素早く立ち上がり、兵たちの制止を無視して、銃声が響く中ノルブラマの追跡を再開した。
替え馬を連れているノルブラマとシャイア兵に徴発されたために替え馬を持たない彼との距離は離れる一方であり、数分の戦闘が行われる間に両者の距離は五キロ以上も離れていたが、諦めるつもりは毛頭ないようだった。
観教に奪われた二人の息子を取り戻す。
プマ村の村長、ラシク・デチュンをその一念が突き動かしていた。
雪の降り積もる高原を、ただ進む。
通った痕跡が雪に覆い隠されるだけの距離を離せれば、ノルブラマの勝ち。
息子を奪った憎き相手を射殺し、末子のタシンを取り返せばラシクの勝ち。
時に替え馬の優位を活かして突き放し、時にわずかな休息すらも惜しんで距離を詰められ、次第に激しくなる降雪の中、彼らはただ前へと進んだ。やがて平地が途切れ、なだらかな勾配となり、険しい山道へと風景は変わっていく。
騎乗して進むのは困難だと判断したノルブラマは替え馬を逃がし、あえて迂回してから進むことで追っ手を撒こうと試みた。僧兵として人並み以上の体力を持つ自信はあるが、遊牧民として狩りをしながら生きてきたラシクは侮れない追跡者だ。決して油断せず、少しでも距離を稼がなければならない。
「ダーワラマ、腹は空いていませんか? これを噛んでください」
「……これ固いから嫌いだよ、ノルブラマ」
「干し肉です。肉食の禁忌を犯すことはご容赦を。長く噛めば力が湧きます」
天候の悪化で、まだ五歳の少年に過ぎないダーワラマが体調を崩さないかも心配だった。仮に熱を出しても、半径百キロ以内には病院どころか診療所もない。プマ村のような辺境までシャイア軍が浸透していた以上、シンユー共和国で観教徒にとって安全な場所はもうどこにもないと考えるべきだった。
歩き始めてから半日あまり。メサムを離れてから丸二日が経ち、ついに体力の限界が訪れた。吹雪の中、最後の力を振り絞って穴を掘り、底に身を横たえる。火は使えず、また起こす手段も持ち合わせなかった。干し肉を少量の雪と一緒に口に含み、長い時間をかけて戻して、噛む。身を震わせるダーワラマを抱き、身体を休めた。
翌朝になると吹雪は止み、雪原を陽光が照らした。だが、寒さで眠れずに気を失うような意識の断絶を繰り返した結果、ノルブラマは激しい頭痛に見舞われていた。咳が止まらず、悪寒も酷い。倦怠感に苛まれ、立ち上がるのも億劫だった。
だが、休んでいる暇はない。晴れた以上、見通しのよい雪原では遠くからでも発見される危険があるし、痕跡は残り続けてしまう。たとえ自分自身は命を落とすのだとしても、ダーワラマをマナルナ聖教国へと送り届けなければならない。
「大丈夫、ぼくも歩くよ」
体調の悪いノルブラマを気遣うように、少年が言う。それを拒否する元気もなく、せめて手を繋いで歩き出す。雪は深く、一歩一歩が足首まで埋まってしまう。遅々として進まない歩みに焦りばかりが募り、つんのめって倒れることもあった。
「ノルブラマ、あれ……」
しばらく歩いた後、ダーワラマが背後の斜面を指さす。そこには枝を上手く使って斜面を滑り降りる小さな人影――ラシク・デチュンの姿があった。彼もまた、どこかで一夜を過ごして追跡を再開したらしい。こちらはすでに捕捉されている。
「……急ぎましょう」
ダーワラマを促して歩き出そうとするが、彼はその場を動かなかった。
「待って、ノルブラマ」
そして、着実に近付くラシクとノルブラマを見比べ、言った。
「待とう。一緒に行くんだ」
「それは……」
彼が父親だからですか、と問いかけそうになる。
転生者とその両親は、親子であって親子ではなくなる。
だが、それは転生を厳然たる事実として受け入れている側の理屈だ。
特に幼い内は知識としての過去の人生よりも五歳までの体験に強く影響を受ける。ラシクにしても、跡継ぎとなるべき息子を二人も奪われて喜んでばかりはいられなかっただろう。そもそも辺境の遊牧民たちは観教徒であると同時に、自然信仰の持ち主であることが多い。観教が害をもたらすとなれば、心が離れるのは当然だ。
であれば、息子を取り戻すため、跡継ぎを奪った者たちへ復讐するため、ラシクがシャイアを手引きしたとしても不思議ではない。追跡にも積極的に参加し、できることなら自らの手で息子を取り戻そうとするだろう。
立ち止まって迷う間にも、双方の距離は狭まっていく。
だが、このまま逃げ続けてもいずれは追いつかれる。ならば。
「……どういうつもりだ。人さらい」
憎しみと疑念を宿す瞳で、ラシクはノルブラマを睨む。
会話のできる距離で、二人は対峙していた。
ラシクは歩みを止めて待ち受けている二人を見て取ると、罠を疑いながら進んできた。十歩ほどの距離で足を止め、油断なく矢を弓弦にかけたままノルブラマの挙動に目を光らせている。酷く顔色が悪い。彼も雪中の追跡で限界が近いのだろう。
「ラシクよ。そなたを待つとダーワラマ……そなたの息子タシンが決めたのだ。拙僧もそなたと話がしたい。こちらに危害を加えるつもりはないと信じて欲しい」
そう前置きしてから、手持ちの道具で武器となりそうな山刀をゆっくりと外し、横へ投げた。銃は最初から持っていないので、完全な非武装だ。ダーワラマは斜め後ろ、少し離れた場所に立っている。人質にしているとは思わせないためだ。
「話、とは?」
苦しげに息を吐き、ダーワラマの方を気にしながらラシクが言う。
「そなたが我らを追ってきた理由について、だ。息子を取り戻しに来たのだろう?」
「そうだ。お前を殺してタシンを取り戻す。ピュンソクもだ。あいつはどこにいる」
「メサムだ。カンワラン宮殿で祈りを捧げておられる」
ノルブラマの言葉を聞いて、ラシクがひきつった笑みを浮かべる。
「なるほど。奪った挙げ句に見捨ててきたのか」
「……返す言葉もない」
ツェリラマが自らの意思でメサムに留まったのだと聞いて、ラシクが受け入れるとは思えない。仮にツェリラマがシャイアに囚われ、かの国に都合のよい発言をしても、ノルブラマはそれを洗脳の結果と断じるだろう。それと同じだ。
「だが、信じて欲しい。拙僧はダーワラマ――そなたの息子タシン・デチェン――をシャイア帝国からお守りするためにここにいる。我らはなんとしてもヒルム山脈を越え、マナルナ聖教国へと向かわねばならないのだ」
「勝手なことを……タシンは俺の息子として羊を飼い、狩りをして生きるはずだった。それをお前らが台無しにしたんだ。ツェリラマだのダーワラマだのと並べ立て、俺の息子たちをお前らが奪ったんだ。なぜだ、なぜ俺ばかりから奪う、言え!」
涙を浮かべ、天に向けて咆吼するラシク。
「俺の人生はあの時からおかしくなった。疫病が流行り、羊も子供たちも次々に死んでいった。その上、ようやく最後に残ったタシンをお前たちは奪っていった。メルヤは、俺の妻は首を吊って死んだ。それもお前たちのせいだ。違うか!」
その悲嘆は、妻帯せず、子を持たないノルブラマには想像しかできない。
「……拙僧はそなたの問いへの答えを持たぬ」
次の瞬間、射貫かれていてもおかしくない。それを覚悟して喋る。
「そなたの憎しみは正統なものだ。僧であれば恨みを捨てて赦せと説くのが筋だろうが、シャイアを憎む拙僧にそのような言が吐けるわけもない。だが、これだけは言っておく。そなたとタシンが向かう場所はプマ村ではなく、マナルナ聖教国だ。さすれば、そなたらが親子として生きることも叶おう。よいな、村に戻れば、今度はシャイア帝国がそなたの元からタシンを奪っていくぞ」
「……脅しか。やつらはあんたの命が目的で、タシンは俺の元へ帰すと言っていたぞ。お前の言葉を信じる理由がどこにある。それに、ピュンソクはどうなる。俺が奴らを裏切れば、あいつとは二度と会えなくなるだろう。え、どうなんだ」
「ラシクよ。そなたは賢い男だ。なれば、シャイアが協力者としてそなたを選んだ理由も察しているはずだ。奴らはピュンソク・デチェンがツェリラマであるからこそ、そなたを利用できると考えた。あるいは、そなたの子供たちは――」
「言うな! 分かっている、言わなくていい……!」
ノルブラマの言葉を遮り、絞り出すようにラシクが叫ぶ。
全ての事情を薄々察してはいても、それでもすがるしかなかったのだろう。
ラシクは弓矢を取り落とし、両手で顔を覆って慟哭する。
それを見たダーワラマ――タシン・デチェンが父親に駆け寄り、その小さな両腕を精一杯に伸ばして彼を抱き締めた。泣き声が重なり、雪に吸いこまれていく。
「……このままマナルナ聖教国へ向かうと約束するなら、タシンはそなたに預けよう。ピュンソクのことは、拙僧に任せるがよい。身命を賭して、必ずや救い出す」
立ち上がる気力も失ったように座りこんだままのラシクに提案すると、彼は力なく首を振った。同時に、ダーワラマが小さく悲鳴を上げる。
「父上、血が……」
「ラシク、そなた怪我をしておるのか?」
がくりと頭を落とす彼に駆け寄り、身体を確認する。右上腕部の貫通創。おそらく銃撃戦の時に受けた傷だろう。布で縛っただけの乱暴な手当で、末端はすでに壊死しかけている。最初から弓が引ける状態ではなく、立っているのがやっとの状態だったのだろう。医療の心得がないノルブラマでは手の施しようがなかった。
「……タシンは、お前が連れて、いけ」
切れ切れの、囁くような声でラシクが言う。
「ピュンソクを……頼んだ」
「……承知。我が名はドルジ。たとえ地獄へ落ちようとも、約束を果たすと誓おう。そなたの息子タシンを安全な場所へ送り届け、必ずやピュンソクを救い出す」
ノルブラマとしてではなく。
ただのドルジとして約束を交わした。
この先、おそらく外道の行いは避けがたいだろう。
観教において人殺しは大罪。犯せば転生など望むべくもない。
だがラシクに報い、ノルブラマの罪を償えるなら、それでも構わない。
ツェリラマ――ピュンソク・デチェンをシャイアから救い出す。
それこそが我が天命。たとえ地獄に落ちようとも。
それだけのために生きると誓った。




