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空飛ぶ魔女の航空会社〈Flying Witch Aviation Company〉  作者: 天見ひつじ
第五話 魔女は去りて冬ぞ来たる
30/99

5-5

 狩人たちに案内された仮の冬営地は、馬で約一日の距離だった。本来の冬営地とは異なり牧草はあらかた食べ尽くされていて、見通しがよくなっている。群狼が迫っても、これなら発見は容易だろう。拳銃の男、ここまでの道中でグンナと名乗った男が、ウルリッカが治療を受けている医者の天幕に入ってきた。ユフミルという名前らしい弓矢の男と一緒に、族長への報告を終えた帰りらしい。


「勇者ウルリッカ、そしてフェルリーヤ。改めて、我ら一族の仮の冬営地へようこそ。大したもてなしはできんが、ゆっくりしていってくれ」

 勇者と呼ばれるのは面映ゆいが、彼らなりの敬意の表し方なので受け入れる。

「ありがとう。なるほど、この見通しのよさなら群狼の撃退も容易だろうな」

 グンナはウルリッカの言葉に首を振った。

「確かにハルハーンの襲撃は止んだ。やつなら確実に臭いで羊を追えるにも関わらず、俺たちがここを離れていた三週間、襲撃は受けなかったそうだ」

「一度も?」

「そうだ。やつは恐ろしく用心深く、弓と銃の脅威を理解している。この地では接近戦に持ちこめる距離まで忍び寄れないと理解しているのだろう」

「となれば、この場所に長くは留まれないのでは? ……いや、一族の事情に立ち入るようなことを聞いてすまない。気に障ったのなら謝罪しよう」

「気にする必要はない。二重の意味であんたの推察通りだ」

「私に協力できることがあったら言ってくれ」

 ウルリッカの申し出に、グンナが豪快な笑みを見せる。

「では、我ら一族に勇者を歓待する栄誉をくれるだろうか」

「ああ、お安い御用だ」

「では、夕食時にまた」

 グンナが天幕を立ち去ると、大人しくしていたフェルリーヤがそばに寄ってくる。

「二重の意味でこの場所に留まれないとは、どういうことですか?」

「ひとつは家畜に食べさせる牧草の問題。この辺りの見通しがいいのは、夏の間に放牧を行って、牧草を食べ尽くしたからです。せっかく肥えさせた羊がまだ冬にもならないうちから痩せてしまえば、冬を乗り切るのはそれだけ難しくなります」

「もうひとつは?」

「民心の問題でしょうね。ここに移って三週間、ハルハーンは一度も襲ってこない。もうやつは死んだのではないか。恐れる必要はないのではないか。そう考えて、本来の冬営地に戻りたがる者が出てくる頃合いです」

「けど、あの狼はウルリッカを襲ったわ。死んでなんかいない」

「はい。飢えに耐えながら機を伺っているのでしょう。本来の冬営地に戻ろうと移動を開始すれば、その機に乗じて襲ってくる可能性は非常に高い」

「では、どうすれば……?」


 眉をひそめて思案するフェルリーヤに、どう返答するべきか迷う。あくまで遊牧民の一族の問題であるハルハーンとの戦いに、ウルリッカとフェルリーヤが積極的に介入する理由はない。むしろ、名目上は自治区であるモルウルスでルーシャ帝国軍人であるウルリッカと、魔女メルリーヤの娘であるフェルリーヤの隠密行が明らかになればまずいことになりかねなかった。


 ルーシャ帝国よりシャイア帝国との国境が近いこの地域では、交易などでシャイアと接点を持つ者も少なくない。金に目がくらむか、魔女によって故郷を文字通りに引き裂かれ、雪と氷に沈められた恨みを抱き、シャイアの工作員として潜伏している者が周囲にいないとは限らない。ウルリッカ一人ならともかく、フェルリーヤを連れていては逃げることもままならない。


「フェル、この件に関しては私に任せてもらえますか?」

「わかりました。ウルリッカに任せます」


 日が傾くとあちこちで煮炊きする煙が上がり、畜糞の燃える独特の匂いが立ちこめる。しばらくするとグンナが迎えに現れて、族長の天幕へ案内される。米と野菜を詰めた羊の蒸し焼き、ひき肉を甘辛く味付けした餡を包んで揚げたパン、麺入りのスープや羊肉の腸詰め、香りのいいお茶などが食卓に所狭しと並べられていた。


「族長のハルミルである。ウルリッカ殿、それにフェルリーヤ殿。ここまではるばるやってこられた旅の無事を祝い、我ら一族の流儀に則りささやかながら歓待させていただく。今宵はゆるりとくつろぎ、旅の疲れを癒すがよかろう」

 黒々としたひげをたくわえた族長が両手を広げて歓待の意を示す。

「怪我の手当てに加え、水と食料まで分けていただき感謝に堪えません」

「グンナから聞いておるよ。あのハルハーンの群れと戦って生き延びた勇者だとな。女にしておくには惜しいほどの弓と銃の使い手なのだとか」

「父に……エドヴァルドに教わりました」

「ほう。エドヴァルドとは、あのエドヴァルド・グレンスフォークかね?」

「父をご存知ですか?」

「おお、知っているとも。とすれば、ウルリッカ殿、貴方はあのときの娘さんか。いや、大きくなられた。もう十数年前になるか……お父上と二人で我ら一族を訪れた際に開かれた歓待の場では、わしも末席に加えてもらっていたのだよ」

「そうでしたか……これは失礼いたしました」

「いやいや、頭を下げるには及ばんよ。当時、まだ若輩者だったわしはお父上と二言三言交わしたに過ぎぬのだからな。なるほど、此度は貴方自身の娘を連れての旅というわけだな。うむ、これは中々に感慨深いものだ」

「ああ、ええ……」


 一人合点する族長になんと返答したものか困惑しつつフェルリーヤに目をやると、どうするのかと伺うような視線が返ってくる。軽く顎を引いてうなずき、それから族長に向き直った。この場には狩人であるグンナとユフミルも同席しており、二人にはウルリッカはフェルリーヤの教師兼護衛であると伝えてあるので、上手く説明しなければ不審を抱かれかねなかった。


「……事情があり、そのことは隠して旅をしておりました。願わくば、この場のみのお話としていただくよう伏してお願いいたします」

「うむ、心得ておるよ。さて、積もる話は食事を終えてからにしようか」


 族長の一言でそれぞれの杯にウォッカが注がれ、乾杯してから食事が始まる。料理はどれも美味だった。ウルリッカは歓待を受ける客人の義務として、それまでの旅についてユーモアを交えつつ語っていく。食後にはチーズと果実を漬けこんだブランデーが供されたが、すでにウォッカを数杯飲んでいるので一杯だけに留める。ほどよく酔いが回り、場の雰囲気も和やかであることに安堵しつつ横に目をやると、ふらふらと上体を揺らせるフェルリーヤが目蓋を落としかけていた。


「フェル?」

 見れば、食卓に置かれた彼女の杯にブランデーがわずかに残っている。果実が入っているのでジュースと間違えて飲んでしまったらしい。

「……すまない。この子が酔ってしまったようだ。今晩はこれで」


 遠吠えが響き、フェルリーヤを除くその場の全員が動きを止めた。牧羊犬のそれとは明らかに異なる、憎悪の咆哮には聞き覚えがあった。群狼の長、ハルハーン。白き王が、獲物である羊を追ってここまでやってきたのだ。遅れて警戒を呼びかける角笛が響き渡り、あちこちの天幕から人が出てくる気配がする。


「ユフミル、行くぞ!」

「……おう!」

「羊の柵の方角だ! 俺たちが先に行く、族長は戦える者を集めてくれ!」

「うむ。そちらは任せた」


 真っ先に我に返ったのはグンナだった。ユフミルを連れて、素早く族長の天幕を後にする。残されたのは族長とその家族、ウルリッカとフェルリーヤだ。族長は男たちに武装して集まるよう触れを出す人間を走らせると、二人に向き直る。


「むう……またもや我らの事情にお二人を巻きこんでしまったようだ。すまんが危険が去るまではこの天幕に留まってくださらんじゃろうか」

「わたしたちも戦える」

 そう口にしたのはウルリッカではなく、フェルリーヤだった。

「フェル、私たちがここで戦う理由は」

「理由はある。そうでしょう、ウルリッカ? だって、狼はわたしたちを追ってここまでやってきたのだから」


 ウルリッカは唇を噛む。見通しのいい場所で待ち構える群狼は襲ってこないというのは楽観が過ぎただろうか。あるいは昨夜も餌にありつけなかったことで飢えが限界に達して、ハルハーンと言えども群れを押さえきれなくなったのか。


「では、私が行きます。フェルはここで待っていてください」

「わたしだって……」

「フェル!」


 慌てて制止する。フェルリーヤが魔法を使うことになれば、まずいことになりかねない。いくら族長が箝口令を敷こうとも、この場にいる遊牧民の一族全員の口を塞ぐことなどできるはずもない。メルリーヤに娘がいることは瞬く間にシャイア帝国の知るところとなり、フェルリーヤの自由は大きく制限されることになる。


「……わかりました。ただし、私の指示があるまでは攻撃しないように」

 それから族長に改めて向き直って言う。

「我々も加勢します。馬が心配なので、まずはそちらを確認してきます」

「かたじけない。我々もすぐ後を追おう」


 フェルを連れて夕闇を駆ける。太陽はすでに地平線に沈み、戦える者はある程度の数がまとまり次第、族長の指示で各所へ向かう姿が影絵となって見える。ほどなくして視界は闇に包まれ、人の視界は火の照らす範囲まで狭められる。明かりを消して夜闇に目を慣れさせる手は、多くの人間が連携して動くのを難しくするので使えない。夜闇の戦いは狼をより多く利することだろう。


「……今なら誰も聞いていません。いいですか、フェル。魔法を使うのは、命の危険があるときだけです。それまでは絶対に使わないように」

 走りながら念押しする。

「けど、わたしの魔法を使えば……」

「実戦で使ったことはありますか?」

「ない、けれど……」

「では、許可できません。仮にメルリーヤ様と同じような魔法を使う気でいるのなら、狼だけでなく人を巻きこむ恐れもあります」

「……命の危険を感じたら、いいのね?」

「はい。それまでは絶対に使わず、私から離れないよう」


 弓矢は荷物と一緒に置いてきたので、十連装のブルームハンドルとサーベル、奥の手としてフェルリーヤの魔法だけが頼りだ。狼の遠吠えはあちこちから聞こえ、繋がれた牧羊犬が盛んに吠えたてている。遊牧民と言えど、狩人であるグンナやユフミル、族長であるハルミルのように即座に対応できる人間ばかりではない。どう動けばいいのかわからず、杖や棒を握って立ち尽くす者も見かけた。


「くそ、離れろ! 誰か早く!」


 助けを呼ぶ人の声。まだ幼いそれに混じって、馬のいななきと狼の唸り声も聞こえてくる。そちらに向かって走るウルリッカとフェルリーヤの横を、泡を吹いて狂奔する一頭の馬が駆け抜けていった。繋いであった手綱を引き千切ったのか、切れ端を地面に引きずっていた。下手に捕まえようとすれば蹄にかけられかねず、手が出せない。追ってきた二頭の狼を射殺して、声がした方へ向かう。


 棒を手に狼を威嚇する少年、狼の咆哮と獣臭で狂乱する馬たちの姿が最初に目に入る。周囲には闇に紛れる群狼の影もあった。繋がれた馬たちはかなりの興奮状態にあり、うかつに近づけば蹴られそうだった。狼たちは馬が疲れ果てるのを待っているのか、すぐには襲い掛かってこないが危険な状態だった。


「あっ、あんた、狼を追い払うのを手伝ってくれ!」

 ウルリッカを認めた少年が叫ぶ。

「わかった。君は馬たちを落ち着かせて。できる?」


 ウルリッカの言葉にうなずいた少年に馬を任せ、銃を構える。光源となる松明を調達してこなかったうかつさに唇を噛むが、やれることをやるしかない。反撃がないことに油断したのか不用意に距離を詰めてきた一頭に銃弾を叩きこむ。後ろに跳ね飛び、よろよろと歩いた後に倒れたその狼は、血の匂いに興奮した他の狼によって一瞬のうちにはらわたを食い破られて弱々しい鳴き声を上げる。


「共喰い……!」


 嫌悪感に眉をしかめながら、新鮮な肉に夢中で無防備な横腹を晒す二頭目も射殺する。そのまま芋づる式に撃てれば楽だったが、三頭目を撃ち殺したところで狼の標的がウルリッカに向く。向かってくる狼をサーベルで牽制しながら対応するが、五頭目を仕留めたところで弾倉が空になった。幸いにもその場にいた狼はそれで最後だった。どうやら冬営地の各所に分散して襲撃をかけているらしく、あちこちで騒ぎになっている。この分では増援も期待できそうにない。


「こっちは片付いた。私も手伝おう」

 少年に声をかけ、暴れる馬を落ち着かせにかかる。

「あんたすごいな、助かったよ!」

「フェルは周囲を警戒。少しでも変化があったら教えて」

「わかったわ」


 フェルリーヤはウルリッカの言葉にうなずくと、その場にしゃがみこんで地面に手を当てる。目蓋を閉じ集中する様子はウルリッカの意図した周囲への警戒とは違ったものだったが、ウルリッカもまだ興奮状態にある馬の制御に手一杯で、なにをしているのかと彼女に問うている時間はなかった。


 冬営地のあちこちから叫び声と銃声が聞こえてくる。馬たちの動揺はまだ収まらないながらも、互いに蹴りあって大怪我しかねない危険な状態からは脱したことを確認して、いったん離れる。銃の弾倉が空っぽであることを思い出し、再装填しておくべきだと気付いたからだった。草原を蹴りつけ疾駆する音と、フェルリーヤが警戒を促す声が聞こえたのはほぼ同時だった。


「ウルリッカ、後ろ……!」

「…………っ!」


 とっさに拳銃と銃弾のクリップを手放し、振り向きざまにサーベルで払う。背後に迫りつつあった影は地を這うような急接近から弾けるように方向転換し、馬と少年に矛先を向ける。白く巨大な体躯。群狼を統べる白き王、ハルハーンだった。


「少年!」

「わあっ!」


 一瞬で恐慌状態になる馬たちに弾き飛ばされ、尻餅をつく少年。しかし、それが幸いした。馬を軽々と飛び越えたハルハーンは、少年の頭があった空間でがちりと歯を噛み合わせ、そのままウルリッカとの間に馬を挟むような位置取りで駆け戻ってくる。彼女がこの場で一番の脅威であると理解しているかのような動きだった。放置すれば少年が危うい。地に落ちた拳銃と、クリップから飛び散った銃弾を一発だけ拾って弾倉に叩きこむ。これとサーベルで撃退するしかない。


 だが、間に合わない。少年もまたウルリッカから見れば馬たちの陰になる位置で腰を抜かしていて、ウルリッカが回りこむよりもハルハーンが戻ってくる方が早い。彼を見捨てて、フェルリーヤの安全確保に動くべきか一瞬だけ思案する。ちらりと投げた視界の端に映ったのは、刻一刻と深くなる闇の中で燃え立つ炎のような圧を周囲に発するフェルリーヤの存在だった。


「フェル!」


 ウルリッカの制止よりも、魔法の発動の方が早かった。地震かと錯覚させられる下方からの突き上げにバランスを崩され、ようやく踏み止まって前方に視界を戻したところで、自らの目を疑う光景が飛びこんできた。


 フェルリーヤの足元から始まり、地の果てまで続く地割れ。一直線に走るそれは次第に広がり、最大10メートルほどの幅でまっすぐ続いている。亀裂は一頭の馬を呑みこみ、少年が倒れるすぐ脇を通り抜けている。この暗さでは見て取れないが、深さも相当なものだった。ハルハーンはこの地割れに呑まれたのだろうか。


「少年、大丈夫か!」


 ウルリッカが声をかけるも、少年の返事はない。おそらく気絶しているのだろう。巨大な白狼に襲われた直後、地割れに呑まれて死にかけたのだから無理もない。ひとまず地割れに呑みこまれる危険はないことを確認して、視線を移す。


「フェル!」


 地面に両手を当ててうつむく彼女も心配だった。駆け寄ると、さきほどまで感じられた空気の圧や熱は消え去り、凍えるような虚無に包まれる錯覚に襲われる。魔法を間近で目撃したのは初めてだったが、予備動作も呪文の詠唱もない、一瞬の出来事だった。このようなもので狙われれば、どんな大部隊や要塞でもひとたまりもないだろう。そして、認めざるを得なかった。フェルリーヤ・ヴェールニェーバ。彼女がメルリーヤの血を引く、紛れもない魔女であることを。


「……っ、は」

「無理しなくていい。ゆっくり息を吸うんだ」

「……まだ…………は」


 フェルリーヤは、切れ切れの息でなにかを伝えようとしていた。その内容に思い至るよりも、音もなく迫る白狼の方が速かった。明確な殺意を抱き、横合いからフェルリーヤを目がけて跳躍したハルハーンに対して、ウルリッカはとっさに左腕を突き出して彼女をかばうのが精一杯だった。


 布地を突き破って牙が食いこみ、骨に到達する感覚。狼としては規格外に大きい体躯、その全体重を乗せた体当たりで地面に押し倒される。鋭利な爪に服と肉が切り裂かれていく。右手に握っていた銃を心臓の辺りに向けて撃ち、弾倉が空になったそれで白狼の頭部を側面からぶっ叩いた。凄絶な痛みと、左手はもう使えないだろう、と場違いに冷静な思考が頭を支配する。


「逃げて、フェル……!」


 サーベルは押し倒された拍子に手放してしまっていた。仮に握っていたとしても、こうも密着した状態ではハルハーンに致命傷は与えられなかっただろう。ウルリッカ・グレンスフォークは、おそらくここで死ぬ。それは構わない。ただ、フェルリーヤはこの場から無事に逃がさなければならない。その一心でベルトに差していた短剣を抜き、白狼の腹部を幾度も突き刺す。


「ウルリッカ!」

「フェル……離れて!」


 フェルリーヤは、逃げるどころかウルリッカに向かって手を伸ばしていた。それに気付いたハルハーンが、憎悪の視線を彼女へ向ける。噛み砕かれつつあった左腕が唐突に自由になり、白狼がそれから口を離したことを知る。なぜ離したか、理由は考えるまでもない。雪白色の少女、その繊細な造形の手指が無残に噛み砕かれる光景が脳裏をかすめた瞬間、少女の指先は白狼の鼻先に触れていた。


 直後、どさりと覆いかぶさってきたものに視界を奪われた。ぐったりと力の抜けたそれを残った右腕で押しのける。ぬるぬると温かい血が、ウルリッカを赤く濡らしていく。ごわごわとした毛皮の感触は、白狼ハルハーンのものだった。月明かりを照り返して神々しさすら漂わせていた白狼の毛並みは色褪せ、くすんでいるように見えた。血塗れた、というだけでは説明できないそれを目の当たりにして、白き王の命は、すでにそこには宿っていないと知れる。


「フェル、無事です、か……?」


 振り返り、視界に入れたそれは。青紫色の瞳が月夜にあって強い輝きを放ち、雪白の髪は白狼の溢れんばかりの生命力を写し取ったかのように艶めいていた。射すくめられる、とはこのような状態を指すのだろう。自らの命を容易に奪い去れる相手を目前にして、その美しい在りように畏怖を覚える。


「ウルリッカ……?」


 忘我の境地にあったウルリッカを呼び戻したのもまた、フェルリーヤだった。左腕の怪我を気遣うような口調と態度は、普段の彼女と変わりない。神秘的な気配も瞬きひとつの間に薄れ、痛みと失血による錯覚だったかと自らを疑う。


「フェル……無事、でしたか?」

「はい、貴方のおかげです。待っててください、すぐに医者を……」

「魔法を、使いましたね?」

 ウルリッカの問いに、フェルリーヤが目を伏せる。

「なぜですか? 私の指示に従ってくださいと言ったはずです」

「けど、貴方はこうも言ったわ。命の危険を感じたら使っていい、と。あの子とウルリッカの命は危険にさらされていた。違うかしら?」

「詭弁です。私は貴方自身の命を守るためならばと……」

「ごめんなさい。でも、わたしは貴方が死ぬのを見過ごせなかった」

「それがどんな結果を招くとしても、ですか?」

 詰問する口調にも怯まず、フェルリーヤはまっすぐに見返してくる。

「それが力持つ者の務めだと、お母さまならそうおっしゃるはずです」

「……わかりました、ですが……」

「ウルリッカ!」


 痛みに思考が鈍り、失血で意識が薄れる。重い目蓋を開いておく余力は、満身創痍のウルリッカには残されていなかった。

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