20 追憶(02)
月曜日、彼と病室で初めて手を重ねた日の夜。
家に帰って、着替えて、食べて、風呂に入って――それでも、眠れなかった。
ベッドに横になって目を閉じると、今日の『添い寝』が何度でも浮かぶ。黒瀬くんの瞳の色、息遣い、指先の温度。
心臓はあの時より落ち着いたはずなのに、思い出すたび顔が熱くなる。
……それなのに。
胸の奥で、別のものが動かないまま残っている。
あたたかい記憶のすぐそばで――冷たい痛みが、昔の私を呼び戻そうとしていた。
ゆっくり息を吸って、吐いて。
目を閉じたまま、思考の底へ沈んでいく。過去が静かに、形を取り戻していく。
これは、私の『罪』の記憶。
★★
私が最初に変えたのは、教室の空気だった。
教室の後ろの黒板。誰もいない昼休みの終わり、チョークを取って、目立つように中央に文字を書く。
――〝ぼっち〟。
――〝距離感バグ〟。
――〝女子と関わらない主義〟。
――どれも、黒瀬くんの名前を添えて。
書きながら、胸の奥で何かがざらついていたけど――それでも、止められなかった。
止めたら、彼が誰かと笑う未来を許してしまいそうだったから。
容姿や能力の悪口だけは絶対に書かなかった。それをすれば、自分の気持ちに嘘を吐くことになるから。
私はただ〝彼を孤立させる〟ためだけに動いていた。
……そんな根拠のない落書きでも、狭い人間関係の空気というものは少しずつ変わる。
席を立つタイミング、机の距離、グループからの疎外。
彼が人と関わる機会は、私が狙った通り着実に減っていった。
次は直接噂を流した。
〝黒瀬くん、女子はウザいから関わりたくないって言ってたよ〟
〝頭が悪い女子と話してるとウンザリするし勉強の時間がもったいないんだって〟
昼休みの教室、体育の着替えの時、廊下の蛇口の前。
声のトーンを少しだけ落として、わざとらしさを避け、自然に話す。
それを何度か繰り返したあと、教室は確かに変わった。
黒瀬くんの机のまわりに、自然な〝空白〟ができる。
元気な子も、気の弱い子も、気づかないふりで距離を置く。
……そしてその空白は、日常に置き換わっていく。
一つ一つの影響は大した事がなくても、毎日繰り返していれば残る。
皆の意識に少しずつ植え付けていくことで――次第に彼は孤立していった。
……それでも。
かっこいい黒瀬くんは、一部の女子から人気があった。
私が何をしようが、彼に近づこうとする女子は後を絶たなかった。
だって、別のクラスの女子全員にまで手回しできるほど、私は器用じゃないから。
……それでも。
彼を手に入れるためになら何でもしてやると。
あのときの私は――罪深くも、思ってしまった。
――いや、それはきっと今でも変わらない。
後悔を重ねながらも、この気持ちのためなら、私は何度だって罪を繰り返す。
私は『好き』のためにしか生きられない――そんな最低な人間だから。
自分の席をゆっくり立つ彼の前に、立ちはだかった。
廊下で誰かに声をかけられそうになるたび、わざと話しかけて遮る。
進路を塞ぎ、荷物を持たせ、〝自分の印〟をつけるように。
そうやって少しずつ、彼の世界から他の色を抜いていった。私だけが、濃く残るように。
そして、決定的な日が来た。
放課後、部活の声が遠くから聞こえる場所。
一階の渡り廊下で、彼の前に立つ女子がいた。彼の目を見据え、顔を真っ赤に染めて。
その女子が彼の名前を呼び、何かを伝えるのを見た瞬間――私の中で何かが壊れた。
それが終わるのを待たずに、私は彼の手を引いた。
「……来て」
私は黒瀬くんの手首を強引に掴み、人気のない非常階段へ連れていった。
鉄の扉が静かに閉まる。踊り場の蛍光灯が、実際よりも少しだけ暗く感じた。
「なんだよ白石」
振り向いた彼の胸ぐらを、私は掴んだ。
壁に押し当てると、布が引きつれて、ボタンが鳴った。
……私は彼の瞳を鋭く睨んで、
「告白、断って。……今すぐに」
震え混じりの低い声で、彼に命じた。
彼は息を小さく吐いて、私を見据える。
「……なんで?」
「……理由? そんなの……」
喉の奥が熱い。胸が焼けるみたいに苦しい。
本当の感情を隠すための仮面を乱暴に被って、思ってもいない言葉を吐き出し続ける。
「貴方は〝わたしのおもちゃ〟だから。勝手に誰かと付き合うなんて許さない」
……最悪の言い訳だ。
手を繋いだことさえないくせに、勝手な独占の言葉を使う。しかも、最悪な形に捻じ曲げて。
けれど、そんな意識とは裏腹に――私の手は力を増して彼の身体を壁へ押しつけた。
胸を押して転ばせ、足先で脛を軽く蹴る。
怒りに任せただけの、所詮は女子の力だ。
……けれど、それでも痛みは確かに残る、確かな〝暴力〟。
「……分かった」
彼は見上げたまま短く言って、逸らさずに目を見返してくる。
その瞳の真っ直ぐさに、胸がズキッと激しく痛む。
何故そんなにも真っ直ぐな瞳で見つめ返してくるのか。
何故私の要求を受け入れてくれるのか。
何故絶対に勝てるのにやり返さないのか。
……何故、瞳に嫌悪の色がないのか。
……何も。何も、分からない。
真っ直ぐな沈黙が落ちる。
……その沈黙が、怖い。
私はもう一度だけ胸ぐらをつかんで彼を引き起こし、震える喉でため息をつくふりをして、手を離した。
踊り場の薄い風が、全身の汗を冷やしていった。
……最初から分かっていた。
これは『いじめ』だ。私は加害者で、黒瀬くんは被害者。
最低なことをしていると、自覚もしている。
それでも止まらなかった理由は、いくらでもある。
好きだったから。独り占めしたかったから。
……本当のことを言ったら嫌われると思っていたから。
だから、言葉をひっくり返し、行動を嘘で塗り潰し、罪を自覚しながらも、彼を無理やり独占した。
……その夜、泣いた記憶はない。
後悔の感情さえ、どこか鈍くて。
ただ、あの時の自分を思い出すたび、胸の奥が冷たく疼く。
――どうしてあんなことをしてしまったんだろう、と。
そう思うのに、戻ればきっと、そこには何度でも同じことをする自分がいる。
私は、人間の形をしているだけの、壊れた何かだ。
――ただ。
それでも二つだけ、確かなことがある。
私は、彼のことが好きで。
あの頃から、彼はすべてを分かっていたということだ。
★☆
思考の底から浮かび上がりながら、私は静かに息を吐いた。
追想を終え、意識が現在に戻る。
寝室の空気は、さっきより柔らかく見えた。
時計の針は、零時を少し過ぎている。
喉が渇いたので、水を一口飲みに行った。グラスの縁がひんやりして、胸の奥の熱が少し落ち着く。
あの日病室で謝った私に、彼は「膝に座れ」と言った。
……そして、「知ってる」とも。
罪は消えない。罰も、受けるべきだ。
それでも、この気持ちにだけは嘘をつけない。
私は明日も会いに行く。ちゃんと気持ちを伝えて、素直に甘える。
過去は消えない。けれど、それを背負って生きていくことはできる。
(……私は、ただ、黒瀬くんのことが好き)
電気を消して布団を引き上げる。
まぶたの裏に、彼の顔が浮かんだ。




