14 お願い
カーテンの隙間を抜けた光が白く床を撫でて、机の上の影を薄く揺らした。
朝起きると、丁寧に畳んで置かれた四角い包みが視界の端に見えた。
もちろん、中身は既に空になっている。
病室の入り口を目の端に置きながら、一つのことを考えた。
思い返してみると昨日は『明日どうする』というような話をしていなかった気がする。
毎日来るとは言っていたが、それは何も強制のことではない。
今日は日曜日だから、普通の人なら家族や友人と出かけたり、やりたいことがいろいろとあってもおかしくない日だ。
――しかし、それでも俺は確信していた。
そんな常識など覆して、今日もあいつは早朝からここに来ると。
……そんなことを考えている間に。
廊下からよく知る足音が近づいてきて、俺の予想が正しかったことを伝えてくれる。
スライド式の扉が、ノックもなしに開いた。
「おはよう黒瀬くんっ!!」
喜びに満ちた挨拶と共に、白石がテンション高めで病室に飛び込んできた。
「うん。なるほど、一般常識と向き合うことはもうやめたんだな」
俺のツッコミに対して、白石はなぜか自信満々に頷く。
「はい!! ……私、今日起きたときに考えたの。少しでも早く黒瀬くんに会うには、ノックなんていう小さな常識に囚われている場合じゃないんじゃないかって……。
……そして、毎回私がちゃんとノックもせずに入っていってしまうのは、私自身が心のどこかでそのことに気づいていたからなんだと!!」
まるで、世界の真理に辿り着いたとでもいうような悟り顔で謎の持論を語る白石。
時々忘れかけるが……そういえば、白石は俺のことになると思考回路がショートするんだった。
(そして、寝起きで何を考えてるんだこいつは)
……。
「……あ」
突然、何かを思い出したようにぽつりと呟く白石。
白石がゆっくりと俺のほうに近づいてきて、目の前でぴたりと止まった。
かかとがコツンと床を叩き、まだ何も言っていないのに顔が赤くなっていく。
そして、迷子の子猫みたいに行ったり来たりした視線は……最終的に、俺の膝で止まった。
「?」
「……あの、ね? 今日は、黒瀬くんにお願いしたいことがあって、来たらすぐに言おうと思ってたんだけど……」
……なるほど。今日は何か、特にしてほしいことがあったらしい。
突っぱねる理由もその気もないので、とりあえず聞いてみる。
「うん。何?」
俺が聞いたあと、白石はしばらくもじもじして固まった。
少しして、ようやく勇気が出たのか、再び口を開いた。
「そ、その……久しぶりに、黒瀬くんのお膝に……」
白石はそこでまた、もにょもにょと口ごもった。
しかし、今のはもう、頼みが何か余裕で分かるところまで言ったような気がする。
「……お願いっていうから何かと思ったら、そんなことか」
「! そ、そんなことって……! 私からしたらめちゃくちゃ大事なことだもんっ……!!
……それに、この前は膝が痛いって断られちゃったから……」
最後に「もちろん前日にずっと乗ってた私が悪いんだけど……」と、恥ずかしそうに付け足して。
白石は語気の強さで、その「お願い」が如何に大事かを伝えてきた。
どうやらこの一週間で白石が最も成長したのは、「願望に素直なところ」らしい。
「あー、確かにこの前は膝が疲れてたから断ったな」
「……今日もだめ?」
白石がしょぼんとした様子で聞いてくる。
「……ダメとは言ってないだろ」
俺がぶっきらぼうに返すと、白石はそれだけでぱあっと明るくなって、太陽のような笑み(真っ赤な熱さも含め)を向けてくる。
「やった!!」
白石が急いで鞄を置く。
俺の膝に座れることがそんなに嬉しいのだろうか。
……まあ、確かに初日の膝乗せ事件(?)は、白石にとって強烈だっただろうし。
「ほら、乗るなら早くしろ」
俺は前と同じように、身を引いて乗りやすくする。
それを見た白石は、いつも通り顔を紅潮させながらもじりじりと近づいてくる。
俺の右肩にそっと手を置き、視線を何度もぐるぐる泳がせながら、膝をまたいでそのまま腰を落とした。
「んっ……」
……ちょこん、と。
膝の上に、軽い重みと、洗いたてのシャンプーの匂いがやってくる。
白石の呼吸が一瞬止まって、そのあとすぐに体重を預けてくる。
(――あ、そういえば……)
「今日も正面なんだな」
……思い返せば、後ろ向きで乗ってきたのは初日だけだった。
いや、その初日の時もいつの間にかこっちを向いてたんだが。
恥ずかしがりやの白石にとって向かい合わせは相当ハードルが高い気がするが……どうやら、それを超えるくらいには正面の方が好きらしい。
「うぅ、だって……このほうがくっつけるし……黒瀬くんの顔、見えるんだもん」
沸騰しそうなくらいに赤くなった白石が、正面を選んだ理由を話す。
この距離でもはっきり聞こえてくる白石の心臓の音が、うるさいくらいに大きくて、はち切れそうなほど早い。
「……それに、これなら黒瀬くんにも私の顔を見てもらえるから……」
さらに恥ずかしいことを、わざわざ追加で言ってくる白石。
案の定自分で言って恥ずかしいようで、元々俯き加減だった顔がさらに俯く。
そして、これはチャンスだ。
「じゃあ見せろよ、顔」
ここぞとばかりに白石を煽る。
「…………いじわる」
……胸をぽかぽかっ、と優しく叩かれた。
まあ、「いじわる」に関して一切否定する余地はないので、この一発(?)は甘んじて受け入れよう。
そして、この上ないほどに照れつつも、白石は言われたとおりに少しずつ顔を上げる。
「~~~っ、……ぅ……」
……確かに目を合わせてはきたが、最初から真っ赤で限界の顔をしている。
顔の距離が近すぎる上、膝の上でのことなのだから当然と言えば当然だ。
目を閉じそうになるのを必死に我慢してぷるぷると震える白石は、まるで小動物である。
……そんな様子を見てまた無性に撫でたくなってしまった俺は、後頭部にそっと手を置いて、いつも通りに白石の頭を撫でる。
「ひゃっ……!!」
一撫でした瞬間、とても良い反応が返ってきた。
そういえば、昨日撫でていたときは、髪を梳かすついでだったので――今のほうが感覚が強いのかもしれない。
昨日櫛で梳かしたおかげか、手のひらの下でさらさらな髪がよく滑って心地よい。
そんななか、白石は甘い息を漏らしながら、
「あう……ううぅ…………黒瀬くん…………、もっとぉ…………」
蕩けそうな声で続きをねだってくる。
……やはり、恥ずかしさと願望では願望の方が勝つらしい。
そのまま、しばらくの間撫で続けていると――
いきなり、白石が抱きついてきた。
いや、いきなりというよりも、我慢していた限界が今来たので実行に移したという感じだ。
……そしてそれは、こう「きゅっ」とか「ぎゅっ」とかのような、軽い感じのハグではなく。
どちらかといえば、「ひしっ……」という擬音が一番近いような。
まさに「抱きつく」という表現が最適なくっつき方である。
(……)
一瞬、「これはいきなり甘やかしすぎでは……?」という考えがよぎったが、その思考も一瞬で終わった。
なぜかと聞かれれば、その答えは一つしかない。
「あっ……んっ……っ、はわぁぁ…………」
――シンプルに、可愛すぎたからである(すべてが)。
俺は一度、ふっと息を吐くと――全身の力を軽く抜いて、その抱擁を受け入れた。




