21話
一〇月中旬。
その報せは西からやってきた。
「な、なんじゃと!? もう一度申せ!」
「ははっ! 豫州に朱儁将軍率いる軍勢が襲来し……橋蕤様率いる軍勢、壊滅! 橋蕤様を始めとした将帥の方々はみな討ち取られました!」
「なぜ、なぜ朱儁が動く! それに、朱儁が率いる軍勢は三万程度じゃったはず! 対する橋蕤が率いた軍勢は五万じゃぞ! しかも戦場が豫州ならば地の利は我らにある! 負けるはずがなかろう!」
「そ、それが……」
「なんじゃ!」
「確かに朱儁が率いていた軍勢は三万でした。しかし……」
「だからなんじゃ! さっさと言わんか!」
「はっ! 豫州に侵攻してきたのは朱儁だけではなかったのです!」
「なにぃ?」
「援軍です。荊州の李儒、いえ、呂布めが三万の兵を率いて現れたのです!」
「りょ、呂布じゃと!?」
「はっ! しかも卑怯にも呂布めは朱儁の動きに注視していた我らの目を掻い潜り、後方に陣取って挟み撃ちとしたのです! 六万の軍勢に挟まれた橋蕤将軍は奮闘するも衆寡敵せず……」
「な、なんと……」
呆然とする袁術。しかし、反董卓連合の際に散々蹴散らされたことで呂布の怖さを知っている袁術は、内心で『アレが率いる軍勢に挟まれたら死ぬだろうな』と納得もしていた。
納得したところでなんだという話なのだが。
「で、では豫州は、汝南はどうなった!?」
「……潁川、陳国、そして汝南は、残った方々の必死の抵抗も空しく、賊徒どもに占拠されました」
「馬鹿な! 早すぎる! どれだけ多く見積もっても半月もないのだぞ!」
防衛する兵がいないのだ、確かに奪われることはあるだろう。
しかし、どう考えても早すぎた。
「そ、それは……」
言い淀む使者。
袁家のお膝元とも言える豫州がこうも早く攻略されたのには、当然理由がある。
まず潁川。元々潁川郡は荀攸らの故郷ということもあって、豫州の中にありながらも親長安政権派の者が多く、朱儁らに対して抵抗せず、むしろ進んで官軍を迎え入れた。
次いで陳国。
こちらについては言うに及ばず。
一方的に行われた略奪の被害者である彼らが、袁家のために戦うはずがない。
むしろ彼らは率先して袁家が派遣していた役人たちの首を刎ね、官軍を迎え入れたそうな。
汝南も似たようなものだった。
確かに汝南郡は袁家の影響力が高い地であった。
しかし、何事にも限度というものがある。
兗州での戦闘に敗北して大量の人員と物資を失ったこと、袁術が汝南に戻らず寿春に本拠を移したこと、陳国などで略奪を働いた結果、賊に落ちた者たちが大量に流入し治安が悪化したことなど、袁術が犯した度重なる失態の煽りを受けた彼らは、袁家に対する忠誠心を失ったのである。
彼らは官軍を迎え入れるに当たって、袁家の親類縁者を差し出し、助命を乞うたという。
結局袁術は、己の行いで袁家の首を絞めたのである。
それを考えれば、使者として豫州の有様を報告をしているこの男は、まだマシと言えるかもしれない。
「お、恐れながら申し上げます! 落ちてしまった実を数えてもしょうがありませぬ! 今は残った実について大事になさいませ!」
「ぬっ!」
「紀霊将軍がいる沛国はまだなんとか踏みとどまっておりますが、梁国や魯国が落ちるのは時間の問題です! このままでは豫州は連中の手に落ちてしまいます! どうか紀霊将軍に援軍を!」
「……むぅ」
豫州が攻略された理由を暈しつつ援軍を要請する使者に、怒りを示す前に納得してしまった袁術。
確かに、精強を誇る袁術軍の中でも有数の名将である紀霊ならば、数万の兵に囲まれようとも耐えることはできるだろう。
しかし、それだけだ。
汝南が協力的な時ならいざしらず、沛国だけで用意できる兵は多くて一万前後。
対して敵は六万という大軍だ。
さしもの名将紀霊とて、六倍の兵、しかも歴戦の朱儁や呂布が相手では分が悪いと言わざるを得ない。
そして沛国が落ちれば、残るは寿春がある九江郡と、廬江しかない。
よって可及的速やかに援軍をおくるべきだ。しかし……。
「廬江に向かった張勲からも連絡が来ておる。孫堅めが率いる軍勢が迫っておる、と」
「そ、それは……」
具体的な数字は言ってこなかったが、少なくとも廬江に敵が押し寄せているのは事実である。
既に一〇万の兵を動かしている袁術には、紀霊に援軍を出す当てがなかった。
――一応説明すると、廬江に攻め寄せた官軍は、孫堅が率いる荊南軍を中心とした軍勢で、その数はおよそ二万ほどであった。
張勲とて、自分が率いている五万より少ない軍勢相手に負ける心算はなかったのだが、事前の計画では今頃橋蕤率いる軍勢が、廬江に押し寄せた敵を挟み込むための反転を終了しているはずだった。
そのため、張勲は『予定通りことが進んでいるので、橋蕤に急ぐよう伝えてほしい』という意味で、袁術に使者を派遣したのである。
なので袁術は、張勲に対して敵軍の規模を確認し、余裕があるなら援軍を出すよう指示を出すことはできたし、その命令を受けた張勲もまた、袁術の期待に応えるために援軍を絞り出したはずだ。
だが、朱儁の出陣という予想すらしていなかった報告を受けた今の袁術は、張勲の言葉を『援軍がなければ持たない』と受け取ってしまった。
この齟齬が致命的なものとなってしまった。
先ほどは援軍の当てはないと言ったが、それは正確ではない。
実のところ、袁術には一つだけ当てが残っている。
それは、袁術の周囲を固める親衛隊の存在だ。
精鋭中の精鋭を謳う彼ら一万が援軍として加われば、豫州はまだしも廬江での勝利は確実となるだろう。
廬江での戦に勝利したあとは、紀霊への援軍として張勲の軍勢を北上させればいい。
孫堅との戦いで多少の損害も出るだろうから、北上できるのは三万から四万といったところになるだろうが、それでも彼我の戦力差は六万対四万から五万となる。
(地の利が儂らにあることを考えれば、敵に呂布がいることを加味しても互角以上に戦えるはずじゃ。そして、小倅が未だに益州でうだうだとやっている今、時間さえ稼げば反長安政権の諸侯が立つじゃろう。袁紹や曹操ががら空きの司隷を狙えば、朱儁とて引き上げざるを得まい。朱儁がいなくなれば呂布率いる軍勢のみ。それだけなら倍の兵で囲めばなんとかなる……やもしれん)
いつも通り、極めて己に都合の良い理想的な展望を思い描こうとする袁術であったが、今回に関しては自信がなかった。
何故なら袁術はすでに知っていたからだ。
数で勝るはずの自分たちを蹴散らした、呂布という常軌を逸した武将の存在を。
袁術には『倍の軍勢を用意したらアレに勝てる』という確信を抱くことが出来なかった。
また曹操との戦いで『呂布や董卓のような異常個体がいなくとも、倍する兵を以てしても負けることがある』ということも知ってしまった。
世の中には、敗北を知ったことで成長する人間もいる。
しかし袁術は敗北から学びを得るタイプの人間ではない。
まぁ『袁家の威光があっても勝てない敵がいる』と知ったことは成長と言えなくもないが、それで敵を警戒してより深く策を練るようになったりせず、保身に走るようになるのが袁術という男であった。
つまりなにが言いたいのかというと。
「わかった。援軍を出そう」
「……っ! ありが「ただし!」い……なにか?」
「ただし、先に助けるのは廬江の張勲だ」
「そ、それは!」
「まぁ聞け。今すぐ援軍に出せるのは、儂の手元におる親衛隊一万のみ。それだけでも今の紀霊にとっては十分な援軍となろうが、敵が六万を超えるというなら、少ないと言わざるを得ぬ。そのくらいはお主にも理解できよう?」
「……はっ」
「故に廬江よ。向こうは五万対五万と数の上では互角で、互いに決め手に欠いておる。故に賊徒どもの後方に精鋭一万を展開させ、勝利を確実なものとする。廬江での戦いに勝てば、親衛隊と張勲の軍勢を紀霊の援軍とすることができる。どうじゃ? 目先の一万よりも、よほど紀霊のためになるとは思わんか?」
「それは、確かに……」
「援軍が向かうまで紀霊には苦労させることになる。しかしな。儂とて何も考えておらんわけではないのじゃ。そこは理解してもらいたい」
「はっ」
「遅くとも二か月以内には援軍を送る。それまでは、現場の判断で撤退することも赦そう。しかし、必ずや沛国で敵を食い止めて欲しい。廬江での戦いが終わる前に沛国が抜かれたとなれば士気に影響が出るからの。……この旨、しかと紀霊に伝えよ。わかったな?」
「か、かしこまりました!」
(これでよし。次は……)
使者が立ち去ったのを確認した袁術は、先日張勲と一緒に眺めていた地図を前に考える。
自分の身に危機が迫っているときの名家は強い。
その例にもれず、今の袁術の戦略眼は非常に冴えわたっていた。
「紀霊は必死で耐えようとするじゃろうな。しかし六倍の兵力差はいかんともしがたい。そもそも賊徒どもがその気になれば、紀霊を捨て置いてこちらに来ることもできるではないか」
袁術が考察したように、朱儁らとしては一万の兵を紀霊に対する抑えとして残し、残る五万で寿春に攻め入ることも不可能ではない。
そのことに気付いてしまえば、沛国に向かうことも寿春に留まることも、悪手と分かる。
「最早紀霊は諦めよう。しかし廬江も安全とは言い難い」
自覚のないまま討伐軍の策を見破った袁術だが、問題はその策に対抗する術がないことだった。
「時間を稼げば勝てる。しかし、どうやってその時間を稼ぐ?」
使者には『廬江で戦って賊徒に打ち勝ち、その後紀霊の援軍に向かう』と宣言した袁術だが、本心では、五万の賊徒に対してこちらは六万前後という、圧倒的優位というわけでもない戦場に自らの身を置く心算などさらさらなかった。
かといって親衛隊だけ戦地に派遣する心算もない。
彼らがいなくなったら、誰が他のなによりも重要な袁術を護るというのか。
領地よりも袁術。
当たり前のことだ。
「というか、劉繇はなにをしておる? 賊徒どもの後方を脅かす絶好の機会に、何故動かんのだ? よもや無能すぎて気付いておらんのか? ……あり得るな。えぇい! 忌々しい無能どもめ! そもそも連中が大人しく儂に従っておれば、今頃賊徒どもを包囲殲滅できたのじゃ!」
先に自分から攻撃を仕掛けたことなど棚に上げて劉繇らを罵る袁術。
彼らに聞かれれば罵倒の限りを尽くされたうえで殴り掛かられていたかもしれないが、幸いにもこの場にいるのは袁術一人であったため、彼にとって最悪の事態は防がれた。
それはそれとして。
「廬江に篭る? 馬鹿なありえん」
収穫期を迎えたとはいえ、略奪によって蓄えと労働力を失った廬江に満足な物資はない。
物資がない中での篭城など自殺となんら変わらない。
加えて、他者から圧迫されることに免疫のない袁術に、長期の篭城は不可能だ。
沛国は駄目、廬江も駄目、もちろん寿春も駄目。
誰がどう見ても身動きを封じられたように見える。
ここまでくれば周囲からも『潔く死ね』と言われそうな状況に追いやられた袁術だが、幸か不幸か彼の眼には一つだけ活路が見えていた。
「忌々しいが、冀州へ行くしかあるまい。忌々しい限りじゃが、袁家存続の為ならばあ奴とて意地を張るまい」
その活路の名は袁紹。
袁術とは後継者争いをしていたものの、袁家を誇りに思う気持ちに嘘偽りはない。
よって袁術が袁家の当主を譲ると宣言すれば、袁紹とて無下に扱うことはあるまい。
袁紹の下で数年耐えれば、賊徒は自滅するだろう。
そのあと、冀州で袁家を興してもいいし、なんなら司隷を預かってやってもいい。
「……完璧じゃ。完璧な計画じゃ」
将来の為に、一時の屈辱は耐えてみせよう。
紀霊も張勲も理解してくれるはず。
「では残る問題は……冀州までの道のりじゃな」
断腸の思いで配下を戦地に残すことを決めた袁術は、自身が冀州へ向かうに当たって最大の問題となる『距離』について考える。
とはいえ、冀州へ逃れると決めた時点で答えは決まっているようなものだが。
「兗州にさえ辿り着ければいい。曹操とは不幸なすれ違いがあって一度は矛を交えることとなったが、所詮あ奴は袁紹めの子分。ならば、袁紹の世話になろうとしておる儂に危害を加えることはできぬ。少なくとも袁紹に家督を譲るまでは、な」
曹操が聞けば『は?』と首を傾げるだろうが、袁術の中ではこれこそが事実なので特に問題ない。
「で、次なる問題はどうやって兗州に行くか、じゃが……これも簡単じゃな」
さしもの袁術とて賊徒どもと紀霊が争う豫州に入る心算はない。
そうなると残る選択肢は徐州を経由するしかない。
「所詮連中は黄巾の賊すら片付けられぬ無能どもじゃて。精鋭の中の精鋭たる親衛隊を率いる儂に手を出すことはできまい。もし手を出してきたとしても、返り討ちにすれば良いだけの話。連中の首を手土産にしてやるわ」
自信満々に嘯きつつ、自分の立てた計画を吟味する袁術。
「よし! 完璧じゃ!」
――数日後『袁術出陣』の報せが周辺に鳴り響いた。
すわ決戦か! と奮い立つ両軍。
しかし、彼らの思惑は誰もが予想しなかった形で裏切られることとなる。
だってそうだろう。
出陣の報せが鳴り響いてからわずか数日後に『討ち死に』の報せが周囲に鳴り響くことなど、誰が予想できようか。
袁術の動向を注視していた朱儁や呂布はもちろんのこと、孫堅に曹操といった歴史に名を遺す英傑ですら、誰もが想像できなかった事態に混乱する中、どこぞの腹黒外道だけは一人冷静に「まぁそうなるよな」と呟いたそうな。
閲覧ありがとうございました









