16話
七月のある日。
江夏攻略から一か月もあれば、荊州から遠く離れた兗州にも、李儒率いる討伐軍と劉琦を奉じる江夏勢の戦いの詳細は伝わるもので。
その報せを受けた曹操は即座に陳宮を呼び出し、手に入れた資料を基に囲碁や将棋でいう感想戦を行っていた。
「ふむ……敵が来ても正面から戦わず、徹底して船を狙う、か。狙いはわかる。しかし太傅様も随分とえげつない手を打つものよ」
「御意。しかし、これなら確実に勝てます。それも自軍の損害を最小限に抑えて、です」
「まぁ、な」
曹操自身が優れた戦術家でもあるが故に、戦術が介在しない戦に対して微妙な気持ちを抱いてしまうが、そもそもの話として、総大将に求められているのは勝つことであり、寡兵で以て大軍を打ち破ることではない。
そして、最も効率よく敵に勝つための手段というのが、敵より多くの兵と物資を集め、それを無駄なく活用する体制を整えることなのである。
大軍を擁して将兵の心を折るも良し。
対陣を利用して物資を損耗させることで継戦能力を削るも良し。
敵が圧力に耐えかねて出陣してきたら、それこそ大軍の利が活かされる。
どう転んでも負けはない。戦略家としては満点の答えだろう。
もちろんこの策を実行するための前提条件として、相手よりも生産力や労働力、つまり総合的な国力で勝っていることや、物資の消費を顧みない豪胆さ。さらには勝ち戦を前に余裕を持ってしまった将兵を律する指揮能力が必要となるので、決して簡単なものではない――実際に最後の指揮能力がなかったからこそ袁術は失敗している――のだが。
この点、一部では恐怖が具現化した存在とまで畏れられる李儒に不足はない。
敗ける要因がなければ勝つ。
とても分かりやすい話であった。
「一応、最後は真っ当な方法で締めたがな。はてさてこれは黄祖なる人物に対する手向けか、それとも部下たちに武勲を稼がせたか」
「後者でしょう」
即答であった。
「何故そう思う?」
「太傅様にそのような情緒があるとは思えま……あぁいえ! 戦にそのような情緒を挟むような御方ではございますまい」
「ふむ。まぁそうだな」
基本的にはっきりとした言い方を好む曹操に対し、わざわざ言葉を飾る必要があるのかどうかは賛否が分かれるところである。
実際、もしもここに居たのが陳宮ではなく夏侯惇であれば、遠慮も呵責もなく李儒のことを評しただろう。
曹操個人としては、そちらの方が好ましいと思っている。
しかし、現状どこに太傅の耳目となる者がいるのか分からないという状況なので、敢えて言葉を飾った陳宮が正しいと言わざるを得ない。
曹操としても、こんなことを誰かに聞かれて、有ることないことを吹聴されては困るのだ。
言い訳をする労力が惜しいし、なにより言い訳の為に長安や荊州に派遣されることになる荀彧の胃が持たないだろうから。
荀彧が聞けば、ほぼ確実に『分かっているならもう少し配慮しろ!』と怒鳴りこんでくるようなことを考えつつ、両者の思考は戦後、即ち劉虎への対応へと移る。
「太傅様が劉虎なる人物を赦したのは意外であった」
「御意。逆賊死すべし慈悲はない。それが陛下や太傅様の方針と考えておりましたが、中々に幅がある様子」
「そうだな。姓を変えさせることで、逆賊となった劉表と劉虎の関係性を断ちつつ、劉虎が持っていた劉氏の特権を奪う。さらには漢に広まる劉氏に交渉の余地を与えた」
「今のままなら逆賊として潰す。しかし諸将の中に劉氏を潰すことに後ろめたさがあるのもまた事実。そこで改姓を進めることで、劉氏に決断を迫るわけですな」
「うむ。改姓しなければ陛下の温情を跳ねのけたこととなるので、諸将の中に残る後ろめたさは減る。改姓すればただの土豪に落ち、いつでも潰せる存在となる、か。ふっ、年越しだの節句だのと抜かして佞臣に言われるがまま恩赦を出していた先帝とは根本からして違うな」
「まさしく」
諸般諸々を法に則って決定するのは正しいことだが、正しいだけでは人を従えることはできない。
誰もが認める大義名分の上に、多少の利益を乗せることで人は従うのである。
「儒者が騙る綺麗ごとを根底から覆す陛下らのやりようには賛否もあろう。しかし誰が認めずともこの曹操は陛下の判断を認めよう!」
「……太傅様を含めた大多数が認めておりますが?」
「それはそれ、だ! 賛同者が増えるのは悪いことではなかろう!」
「まぁ、そうですな」
権力者と同じ方向を向いている分には問題ない。
少なくともその逆よりは万倍もマシ。
そう割り切ることにした陳宮に対し、曹操は新たな議題を突きつける。
「で、だ。荊州での戦は終わった。討伐軍が略奪を禁じていたこともあって、復興に関してそれほど手間はかかるまい」
「ですな」
李儒が必要以上の費用と時間をかけた理由の一つがここにあった。
すでに復興の段取りまで終わっているため、必要となるのは実行する人材と時間のみ。
その人員は襄陽から派遣されるので、討伐軍は後顧の憂いなく次の標的を目指して動けるのである。
「では長安、否、太傅様の次なる標的はどこにいる? 益州の劉焉か? それとも揚州の劉繇か? 益州であれば即座に兵を返すだろうし、揚州であればこのまま江夏に留まり水軍を整えるだろう。お主はどう見る?」
劉焉か劉繇。二つに一つと思われる質問だが、あにはからんや。
選択肢はもう一つある。そして今回はそのもう一つが正解だ。
「袁術でしょう」
「口実は? まさか陳国の攻略を理由にはできんぞ」
「いくらでもあるでしょう。連中は江夏の劉琦にも揚州の劉繇にも協力したことがあります故」
意外! と驚くまでもない。
むしろ盤上を正しく見据えることができるなら誰だってそう判断する。
少なくとも曹操はそう見ていた。
敢えて陳宮に問いかけているのは、自分の考えを纏めつつ、陳宮がどこまで理解しているかを確認するためだ。
「ならば時期は?」
「袁術が徐州へ手を出してからでしょう」
「それはいつになる?」
「収穫の後でしょうな。収穫の手間を省けますし、なにより収穫の前に攻め込んでは略奪するものを焼いてしまいます」
より多くの物資を略奪するなら、収穫の前よりも後の方がいい。
子供でも分かる理屈だ。
「よって袁術が動くのは早ければ9月の上旬。遅くとも下旬でしょう」
「討伐軍を警戒して守備を固める可能性は?」
「袁家に仕える者たちの中にはそう進言する者もいるかもしれませんな。しかしそれに今の袁術が納得するかと言えば……」
「受け入れんか」
「御意。袁術が受け入れたとしても、武官が騒ぐでしょう」
「我慢が利かん、か。無計画に奪い、無計画に使い込む連中に楽を覚えさせた弊害だな」
勝ち戦の後に行われる略奪ほど、将兵の士気を上げるものはない。
欲に溺れた者たちが、それを齎してくれた主君に従うようになるのもわかる。
略奪とは経済的な特効薬であると同時に、軍事的な特効薬でもあるのだ。
だがしかし、何事もやり過ぎはよくない。
欲に溺れる獣が『足りないなら奪えば良い』という手法を学んだらどうなるか。
獣の調教を怠ればなにが起こるか。
今や他方から恨みつらみを買い、その名を落とし続ける袁術に味方する者はいない。
それが答えだ。
「もし今の袁術陣営に、現状を理解できるだけの冷静さと能力を有した者がいるならば……」
「どう動く? 袁術を諫めるか?」
「いえ、冀州の袁紹を呼び寄せるでしょう」
今更袁術を諫めたところで落ちた名が戻ることはない。
ならば別の人物を当主に据えればいい。
この時代に於いてはありふれた考え方であるため、良識のある者たちは納得する可能性が高い。
同時に、袁術から餌を貰っている武官たちや、今の体制でうまい汁を吸っている者たちからの反発は免れないという懸念もあるのだが、そちらに関しては明確な解決策があるため、あまり大きな問題とはならないと曹操は見ている。
「汚職に染まった文官共は、そのまま切り捨てればいい。どうせ現状を理解できぬ愚か者どもだ、生かす価値などない。で、切り捨てられない厄介な獣には、餌をやればいい。きちんと取り分が分配されるとわかれば、獣となった連中とて新たな飼い主に尻尾を振ることを厭わんだろうよ」
「まさしく」
袁術が問題視されるのは、自身が略奪の対象を選ばないことと、略奪を行う配下の手綱を握り切れていない――というか、最初から制御する気がない――からであって、略奪自体は推奨すべきこととして認識されているのだ。
ならば、なにも馬鹿正直に『絶対に略奪するな!』と厳命する必要などない。
略奪の対象を絞り、規模を徐々に縮小しつつ適時餌を撒く形にすれば一応の統制は取れるのである。
これこそ文官も武官も納得する最良の策。……と言いたいところだが、袁紹は袁紹で【逆賊】という特大の問題を抱えている。
この一点があればこそ、袁術は未だに袁家の当主でいられるのだ。
だが、その優位も数か月後には失われるだろう。
「袁術が逆賊に認定されれば、唯一持っていた優位がなくなるな」
「御意。両者が逆賊となるなら、袁術よりも器量に優れたとされる袁紹を奉じぬ理由がありませぬ」
「私としては五十歩百歩だと思うが……まぁ世間の評判ではそうらしいな」
目先の餌に釣られて略奪に走り周囲を敵に回した袁術と、感情に任せて宮中に押し入り逆賊認定を受けた袁紹。曹操から見ればどっちもどっちである。
なんなら長安政権と交渉して一時的にでも逆賊の認定を解いた袁術の方がましなのでは? とさえ思う。
しかし世間の評価は違う。
確かに宮中に武装侵犯したのは明確な瑕疵として見られてはいるものの、当時洛陽を牛耳っていた十常侍とその一派を排除したことと、そのどさくさに紛れて生まれの卑しき肉屋の小倅こと何進一派を排除したことは、清流派を自称する者たちにとって明確な功績として認識されていた。
加えて、袁紹には【反董卓連合の盟主】という肩書がある。
かの連合は、政権側からすれば明確な反逆行為に他ならない。
だが、地方に散らばっていた知識人の多くは、未だにあの戦いを『名家閥を率いる袁紹と軍部を継いだ董卓の権力争い』と認識している。
戦は痛み分けに終わったものの、戦の最中に行われた遷都や、洛陽及び長安に於ける名家名士の粛清などが相まって、彼らにとっての悪は董卓であり、袁紹こそ善であった。
そんなこんなで、今は地方に行けば行くほど袁紹の評価は高くなっているのである。
「袁家に仕える者たちからすれば、どうせ逆賊なら名声がある袁紹を掲げた方がマシでしょう。袁紹にしても、地盤のない――しかも押さえているのは半分程度しかない――冀州で皇族の劉虞や比類なき軍事力を持つ公孫瓚と向き合うよりも、寿春や廬江、さらには徐州まで望める環境にある地元豫州に戻った方が展望が開けるというもの」
袁家は豫州、揚州、徐州、そして――曹操は袁紹の子分なので――兗州を押さえることとなる。
ここまでくれば、政権とて簡単には手を出せなくなる。
そこで政権側に逆賊認定を解くよう譲歩を迫ればいい。
完璧な計画である。
実現が不可能であるという点に目を瞑れば。
「いや、どう考えても冀州で公孫瓚を相手にしている方が楽だと思うのだが……」
幽州騎兵を率いる公孫瓚と、官軍を率いる太傅様。
騎兵に対処できれば勝算が見えてくる公孫瓚と、どこにも勝算が見いだせない太傅様。
「後者を敵に選んだ時点で詰んでいるようにしか見えんぞ。……よもや私では考えもつかない勝算でもあるのか?」
「……袁紹も袁術も太傅様の怖さを理解しておりませぬ故」
訝しみながらも『答えを知っているなら教えて欲しい』と促す曹操に対し、陳宮は『知らないからこそ敵に回してはいけない相手を敵に回すのだ』と答えた。
一言で言えば馬鹿だから。
これに尽きる。
「うん? まぁ冀州にいる袁紹とその取り巻きはそうだろうな。袁術もそうだろう」
曹操とて、袁術や袁紹がアレなのは否定しない。
しかし曹操は、彼らがアレでも彼らの部下が全員アレというわけではないこともまた知っている。
「袁家の連中は理解しているだろう? いや、今までは目立った武功がなかったから侮る連中がいるのもわかる。しかしあそこまで鮮やかに江夏を制圧して見せた以上、その力を疑う者などおるまい」
力を認めたなら、その動きを警戒しない方がおかしい。
「それなのですが……」
「なんだ?」
「連中、江夏一郡の討伐に半年以上の期間と多大な資財を費やした太傅様を戦下手と見ている可能性がございます」
「は? 復興の段取りを組みつつ、ほぼ無傷で逆賊を討伐した太傅様が戦下手? ありえんだろう」
曹操の価値観からすればありえない評価である。
「根拠は、根拠はあるのか?」
しかし、陳宮ほどの人間が言うのだからそれなりの根拠があるのだろうと思い問いただしてみれば、陳宮はなんとも言えない表情を浮かべながら言葉を紡いだ。
「太傅様の怖さを理解できているなら、袁術の行動を黙認することなどありえませぬ。即座に袁紹を呼び寄せ、来たる官軍との戦いに備えるでしょう。少なくとも某ならそうします。しかるに、現時点で連中が警戒しているのは我らがいる兗州方面のみ。荊州方面に備える様子は確認されていません」
「……そうだな」
自分の立場に置き換えてみれば、陳宮の意見には納得しかない。
勝てるかどうかは別としても、備えはする。
露骨にやれば官軍から疑いの目を向けられるため隠れてやるだろうが、間違っても徐州に攻めるような真似はしないし、させない。
「まさか、本当に? 目の前であれだけ鮮やかに勝利してみせても、その実力を疑われている? そんなことがあり得るのか?」
「……孫堅将軍の手腕と思われている可能性もあります」
「っ! そうか! 最後の水戦を真っ当に終わらせたのは、孫堅将軍に耳目を集めるためかっ!」
「……そうかもしれません。某も殿と話していて気付きましたので確たることは言えませんが」
「いや、おそらくお主の考えは正しい。……日頃から恐ろしい御方だと思っていたが、思っていた以上に恐ろしい御方だったわ」
「……御意」
どれだけ実績を上げても警戒されない軍師など恐ろしいにも程がある。
油断大敵。謀は密を以て成す。
最後までその能力を知られなければ警戒などされようはずもなく、警戒していない獲物の隙を突くのは容易い。
ましてそれを、バラバラに分散したことで規模が縮小されている諸侯ではなく、最大勢力を誇る政権側の人間が行うとなれば、それは絶対油断できない相手に隙を晒すことと同義。
その結果は、推して知るべし。
「袁家は終わるな。間違いなく」
「はっ」
かつて宮中で強大な勢力を誇り、今もなお燎原の火が如く勢力の拡張を続けている汝南袁家。
多くの者が、袁術は危うくとも、袁紹が継げば安泰だと考えている名門も、もはや風前の灯。
沈むと分かっている船に乗り込む阿呆でもなければ、風が吹けば消えると分かっている灯に身を捨ててまで肩入れする理由もない。
同志? 子分? 寝ぼけるな。
少なくとも何進が死んでからは迷惑を掛けられた覚えしかない。
「せいぜい特等席で眺めてやるさ。連中の終焉を、な」
――あぁ愉しみだ。そのとき飲む酒は、きっと極上のモノになるだろう。
そう嘯いた曹操の表情は、袁家に対する哀れみなど一欠けらも感じさせず、むしろ近年稀にみるほど清々しいものであった。
閲覧ありがとうございました









