22話
荊州にて仕事をすること一年と少し経ったが、やはり文官が育ってくると仕事の進み具合が違う。
もちろんこれは既得権益の保持者であった土豪やら名士たちを孫堅や司馬徽が根こそぎ排除してくれたからこそここまで効率化できたのであって、もしも連中が残っていたらもう少し苦労していただろう。
そういう意味では司馬徽に感謝の意を伝えたいところだ。
尤も、彼は『名士がいなければ政は立ち行かん!』という主張を証明するために彼らを連れ出したのであって、俺に協力をしたわけではないのだが。
彼の思惑はさておき。
現状荊州の政は滞りなく行われている。
それこそ劉表がいたころよりも治安は良いし、民の暮らしも楽になっているのではなかろうか。
これについては俺の手腕がどうこうではない。何かにつけて不正をする役人とか中抜きをする土豪とかがいなくなれば、支配地域の財政は健全化するのだ。
財政がまともになればその分を政に使えるようになる。
土地の開発や治水工事。兵士の補充や装備にも気を配れば、治安が悪くなる理由がない。
袁術の手の者や、越族が扇動しようとしても無駄だ。
皆が今に満足していて『昔の方が良かった』と思う人間などいないのだから。
皮肉なことに司馬徽の行動は『政に名士など不要。大事なのは出自に関係なくきちんと働く官吏である』ということを証明してしまったわけだ。
彼は今頃荊州の情勢を知って「どうしてこうなった……」と頭を抱えているのではなかろうか。
出て行った連中のことなどどうでもいいが。
そうこうしていると兗州にて袁術を打ち破った曹操から使者が来た。
なにやら必死で弁明を繰り返す使者の言い分を要約すると『兗州の諸侯に請われて仮の刺史となることになった。長安からの許可は得ている。嘘ではない。荀攸と張温も認めている』とのこと。
長安から許可を得ているのであれば俺から言うべきことはない。
というか何故俺に報告してくるのか……。
そう疑問に思ったが、すぐに答えが出た。
長安の許可はあくまで内示であって公式のものではないのだ。
だから曹操としては『そろそろ公式に認めて欲しい』と思っているのだろう。
確かにこれまで曹操は反董卓連合に参加していた諸侯に囲まれていたため、どうしても彼らの味方として振舞う必要があった。
だが現状はどうか。
袁紹は冀州の半分に押しとどめられたまま。
袁術は曹操に大敗して撤退。
徐州の陶謙や幽州の公孫瓚は元々反董卓連合に加わっていない。
この状況であれば、確かに曹操が反董卓連合の一員として振舞う必要はないだろう。
曹操だっていつまでも逆賊は嫌だろうし、なんなら『自分も袁紹らと一緒に処分されるかもしれない』と警戒しているかもしれない。
「ふむ」
理想としては、曹操も逆賊として処理したいところではある。
だがここで曹操と本格的に敵対した場合、長安政権が勝てるかというと……。
「微妙な所だろうな」
この国に、官軍と西園軍、さらには董卓が率いる軍勢と正面から向き合って勝てる軍勢は存在しない。
それは兗州を支配した曹操でも同じこと。
しかし、負けるとわかっているなら正面から戦わなければいいだけの話。
曹操なら自分たちが各個撃破されぬよう立ち回りつつ、こちらを分断するなりなんなりしてくるだろう。
それなりの相手であれば荀攸や司馬懿でもなんとかなるだろうが、相手はあの万能の天才曹孟徳である。
どんな手を使ってくるか想像もできん。
将兵の被害が増すだけならいい。
もし劉弁が討ち死にしたり暗殺されたら洒落にならん。
曹操にはそれをやり遂げるだけの怖さがある。
だから彼との敵対は避けたい。
そんな中、向こうから『自分は長安政権に逆らう心算はない』と擦り寄ってきているのだ。
今こそ彼を懐柔する絶好の機会だろう。
史実でも曹操は漢に逆らう心算はなかったみたいだし、信用はできると思う。
後に魏国を築いたことで彼は劉協を傀儡化した悪党と言われているが、そもそも当時の皇帝なんて傀儡でなんぼ。むしろ能力もないくせに大人しく傀儡となることを拒否した劉協に問題があるだろう。
あれだ、足利義昭を奉じた織田信長みたいな感じだ。
将軍としての教育をうけていなかった義昭は、将軍としてあまりにも杜撰な人事や政策を立て続けに行い、支配地域の経済や治安を悪化させ諸将からの失笑を買った。
それを見かねた信長が『余計なことはしなくていいから。黙ってろ』と釘を刺したところ、義昭は『俺は将軍だぞ! 俺の言うことを聞け』と逆切れ。
そこから色々と細かいことが重なって、最終的に足利義昭が主導となって織田包囲網が敷かれることとなり、それに勝利した信長によって義昭は追放され、室町幕府は終焉を迎えた。
曹操と劉協の関係も似たようなところがある。
まず、劉協は即位する前から皇帝としての教育を受けていなかった。
当たり前だ。彼が元服する前に霊帝劉宏は後継者を定めぬまま死んだのだし、そもそも劉宏の周りにいた宦官たちが求めたのは”優秀な皇帝”ではなく”自分たちの傀儡となる皇帝”である。
そんな連中が劉協や劉弁にまともな教育を施すはずがない。
結果、兄であった劉弁は殺されたし、残された劉協は傀儡として皇帝の椅子に座ることとなった。
一応董卓は劉協をそれなりに評価していたとされるが、董卓自身が政の場から距離を置いていたこともあって彼に教育を施すような間柄ではなかったと思われる。
そうこうしているうちに董卓は王允の計略に嵌って死んだ。
その王允も董卓の配下によって殺された。
報復の嵐が過ぎたとき、長安の実権を握ったのは政を知らぬ無頼と破落戸であった。
当然彼らが傀儡でしかない子供に敬意を払うはずがない。
皇帝とは名ばかりの、傀儡ですらない置物になりつつあった劉協。
そんな劉協に擦り寄った者がいた。
董承を筆頭とする李傕や郭汜と仲が悪かった旧董卓軍の面々である。
董承は三国志演義などに於いて劉協を護る忠義の士のように描かれているが、実際は讒言を繰り返して周囲の人間を蹴落とそうとする俗物であった。
張済・段煨・韓暹・楊奉・張楊・袁術そして曹操。彼の讒言で踊らされた者は決して少なくない。
確たる理念も持たず、秀でた能力も持たず、ただ権力に固執した男、董承。
こんな男でも劉協にとって彼は数少ない――数が減ったのは董承のせいだが――味方であった。
それ故劉協は董承を頼った。
董承の娘を后にした。列侯にした。車騎将軍にも任じた。
劉協には彼しか縋る者がいなかったのだ。
だが、繰り返し言おう。董承は俗物である。
劉協の威が無ければその地位を保てない程度の小物である。
そんな小物が劉協に皇帝のなんたるかを説いたところで何になるというのか。
最終的に、曹操の暗殺を企てた罪で董承は曹操に殺され、苦楽を共にした家臣を殺された劉協は曹操と反目することとなった。
それでも曹操は劉協を廃位しようとはしなかった。
それどころか自分の娘を嫁がせて劉協の地位を固めようとさえしていたのだ。
――これは曹操が皇帝の外戚となることで実質的に漢を手にしようとしたという見方もあるが、その場合曹家の後継者であった曹丕との関係が複雑なものとなるし、なにより後年の曹操はその気になればいつでも劉協を除くことができたのに、劉協に一定の敬意を払っていたため、わざわざそんな迂遠な手を打つとは考え辛い。
また曹操の娘曹節と劉協の仲も極めてよかった。
曹節は曹丕の意を受けた部下が劉協に帝位を譲るよう告げたとき、使者と曹丕を不忠者として叱責しているし、皇位の禅譲に伴い劉協が都落ちした際も彼とともに都を離れるなど、政略結婚では説明がつかないほどの献身を見せている。つまり曹節は、劉協のもとに嫁ぐ際に曹操から劉協を支えるよう指示を受けていた可能性が高い――
つまり何がいいたいのかというと、さっさと曹操の要望に応えてあげましょうってことだ。
ではどのようにして応えるかという話だが、これはそんなに難しいことではない。
確かに劉弁は『これ以上の恩赦を認めない』と宣言した。
だが『功のある相手に対して褒美を与えない』とは言っていない。
そう。無償の恩赦ではなく、功績に対する褒美を与えればいいのだ。
「名目は、そうだな。『袁術によって荒らされた陳留の復興を条件に曹操及び鮑信らの罰一等を減じる』で問題あるまい。これを陳留王である劉協から上奏させることで劉協の発言力を高めるとともに、諸侯に逆賊の名を雪ぐ方法があるとわからせる。曹操らは逆賊ではなくなるし、長安政権は陳留の復興に金をかけなくて良くなるし、諸侯に希望が見えるし、陳留を荒らした袁術に罰を与える口実になる。ついでに袁術の暴虐を止めなかった罪を鳴らして金尚の刺史就任もなし。これでさらに袁家の影響力を削ぐことができる」
曹操が他の諸侯から狙われる可能性もあるにはあるが、なに、曹操なら『抜け駆け? よく見ろ。私の罪が減じられるのはあくまで陳留の復興が条件だ。どの程度まで復興させればいいか明言されていない。これは私に財を放出させつつ君たちとの仲を裂こうとする悪辣な計略だ』とでも言って上手く躱すだろう。
もし躱せずに袋叩きに遭うなら、それはそれで問題ない。
死ねばそれでよし。
死ななくても、地盤を失って逃げてきたならそれを理由に軍権のない役職につけて使い潰せばいい。
「完璧だな。すぐに長安と弘農へ使者を出そう」
――この後、荊州から派遣された龐徳公が、劉協に謁見し李儒からの要請を伝えたところ、劉協は「あいつは皇族をなんだと思っているんだ……」と嘆きはしたものの要請自体は真っ当なものだったのでそれを快諾。すぐに劉弁へと上奏文をしたためて龐徳公へと託した。
太傅だけでなく皇弟からの書状を預かった龐徳公は顔面蒼白となりながらも長安へと到着。
その日のうちに皇帝劉弁との謁見に臨むこととなる。
師と弟からの上奏文を受け取った劉弁は何とも言えない表情を浮かべながら「太傅は本当に太傅だね」と苦笑いをしつつその上奏を認め、兗州の諸侯に向けて勅令を発することとなった。
その勅を受けて一番驚いたのは、誰でもない。
あれよあれよと兗州の刺史になってしまった曹操その人であった。
――――
「罪を減ずる、だと? それは公に発せられた勅なのか? 内諾ではなく?」
「正式な勅にございます。先に勅使様を迎えた鮑信殿らは涙を流して勅使様に感謝の意を伝え、陳留の復興に全力を挙げることを約束したとか。これから数日後にはこちらにも勅使様が参られますので、殿はお出迎えの準備を急がれますよう」
「う、うむ。しかしなぜ急に?」
「……どうも太傅様が動かれたそうです」
「太傅様が? 確かに荊州に使者を送ったが、それの返答がこれか? ……なにを企んで、いや、私に何を望んでいると思う?」
「私如きでは確たることは言えませぬ。ただ」
「ただ?」
「単純に『袁紹らと袂を分かて』というわけではないでしょう。むしろこの状況にあって袁術や袁紹をうまく踊らせることを求められているのではないかと」
「それは、ありそうだな。というか。今の我々にそれ以上のことを求められても応えられないぞ」
「ですな。とりあえずは袁紹らに弁明の使者を送りましょう。名分は、そうですな『復興の規模を明言されていないからこれは罠だ』といった感じでよろしいかと」
「そんな子供だましが通じるはずがない……と言いたいところだが、ひと昔前の洛陽では当たり前に使われていた手口だからな。袁紹の周囲にはその頃の洛陽を知っている者が多いから、逆に説得力があるかもしれん」
「では?」
「うむ。使者を出そう。荀彧は勅使を迎えるために必要だから、他の人間を見繕ってくれ」
「御意」
こうして曹操を始めとする兗州の諸侯は逆賊の誹りを免れることとなった。
この勅命が齎した影響は極めて大きく、逆賊認定されてしまったが故に反長安政権を掲げるしかなかった名士たちの間にも大きな衝撃が走ることとなった。
それは戦で大敗を喫した挙句、その前後の行動を名指しで非難された形となった汝南袁家に於いてより一層深刻な影響を及ぼすことになる。
「どうなっておる! なぜ儂が! 身を削って逆賊どもを打倒したこの儂が! なぜ長安の若造どもから非難されねばならんのだッ!」
長安政権による汝南袁家弱体化政策は様々な角度で袁家を襲い、その勢力を着実に削いでいくのであった。
閲覧ありがとうございました。









