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19話

八月 兗州東郡 濮陽


荊州からやや離れた地を治めている曹操は、荊州や豫州で発生していた混乱に巻き込まれることなく、今日も今日とて書類仕事を捌きつつ、陳宮と周辺地域の状況について語り合っていた。


目下彼らにとって最大の関心は、いつ袁術が長安政権からの命令に応えて兗州へと侵攻してくるか、というところにあった。


よって、当然袁術が周辺の諸侯へ働きかけを行っていることは掴んでいる。

掴んでいるのだが、それに対して曹操は何ら対応する手を打ってはいなかった。


一応長安政権に所属している袁術を陰ながら支援するため? 

違う。

手を打つ余裕がなかった?

それも違う。


偏に手を打つ必要がないと判断したが故に、時間と労力の無駄と判断したが故に彼らはなにもしなかったのだ。


そして彼らの考えは正しかった。

袁術に呼応する者が一人も現れなかったのだから。


「袁術も無駄なことをしましたな」


「まぁ、騒ぐだけで終わったからな」


「然り。自身が動かず、他者を躍らせようとは片腹痛い」


「それもあるがな、そもそもこちらではようやく荊州で発生した名士離脱事件の詳細や、それらを受け入れた豫州や揚州の動きに関する情報が入りつつあるところなのだぞ? その整理が終わらぬことには動きようもあるまい。あと、袁術の誘いに乗って誰に何の得があるのだ?」


「ありませんなぁ」


「明確な利もないのに動く者などおらん。勝算がないなら尚更だ。当たり前の話だな」


「然り」


これまでは袁家のために働くことが自分たちの利益に繋がっていた。

その中でも最も大きな利益として見込まれていたのが、宦官に対する風除けである。


袁家が護ってくれるからこそ名士は袁家のために働く。

名士が働いてくれたからこそ袁家は栄えた。


当時はそれでうまく回っていた。

そこまではいい。


「翻って、だ。今の袁家になにが出せる?」


「さて。あぁ、孫堅殿は襄陽と大量の物資を得ましたぞ」


「ははっ。あれは痛快だったな。袁術の面目は丸潰れ、袁術の失敗を嗤っていた袁紹も、少ししてから奪われたのが汝南袁家の資財だと気付き激怒。そうして責任の擦り付けあいに発展し、袁家が完全に分裂すると連合もまた瓦解した。おかげで私も名を落とすことなく無事撤退することができたわけだ」


「そういう意味では殿にも利はありましたか」


「連中が意図したものではないぞ。それを恩に着せられたら堪ったものではないわ」


「まぁ、そうですな」


一歩引けば三歩踏み込んでくるのが名家というものだが、袁家に至っては平気で五歩以上踏み込んでくるから始末に負えない。


そのことを良く知る曹操としては、冗談でも『袁家のおかげ』などという言葉は聞きたくなかった。


「話を戻すぞ。連中が名家・名士の領袖として君臨できたのはそこまでだ。今は先代らが遺した財を食いつぶしている状態よ」


新たに作ることができないなら後は減るだけ。


一族の楊彪は長安政権に食い込んでいるものの、現在その権力は極めて限定的なものに落とされている。


「中央を諦めて地方で奮起しようにもこの有様だ。どうしようもないな」


「然り」


一応補足すれば、汝南袁家を継いだ袁術には差し出せる恩賞は大量にある。


しかし、それはあくまで金銭や宝物に限った話だ。

兗州の諸侯が欲しているのは金銭でも宝物でもない。

恩赦だ。


彼らは逆賊の名を雪いでくれる恩赦を与えてくれる存在を望んでいるのだ。


その程度のことは袁術とて理解していたのだろう。

いや、もしかしたら袁術は理解していなかったが、彼の配下が理解していたのかもしれないが。


真実がどちらかは定かではないが、実際に袁家として『儂に従えば恩赦の対象となるぞ!』という旨が書かれた書簡を大量にばら撒いているので、大きな違いはないものとする。


この書簡作戦、普段であれば効果はそれなりにあっただろう。


袁術の器に疑問を抱く者は多々いても、汝南袁家が有する政治力に疑問を抱く者はいないのだから。


だが、(袁術にとっては)意外なことに、袁術の要請に応えようとする者は現れなかった。


当たり前だ。皇帝陛下その人が『これ以上の恩赦を認めない』と宣言してしまっているのだ、袁術に恩赦を与える権利がないことなど、周知の事実であった。


これでは袁術の口車に乗る者など出ようはずがない。


むしろ長安政権に『袁術が勝手に恩赦を口にしている』と告げ口する者が現れたくらいだ。

何を隠そう、ここで涼しい顔をしながら袁術をこき下ろしている曹操もその一人である。


「結局袁術には器が足りぬのだ。アレがもう少しまともなら、今の段階であからさまに動くような真似はしなかっただろう」


動くなら皇帝の親征に合わせて動くべきだったのだ。


親征が失敗したらその責任を追及する形で、成功したら皇帝を褒め称えて恩赦を貰えばいい。


それなら諸侯も少しは信用できたはずだ。


「機を逸した結果がこれ、ですか」


「あぁ。時期も悪ければやりかたも悪い。家中にアレを諫める者はいなかったのか?」


「いたらこのような真似はしていないでしょう」


「確かにそうだ」


勝手に恩赦を約束したこともそうだが、それ以前の問題として、袁術があからさまに動いたことで諸侯に警戒する時間を与えてしまったことが問題だった。


その後も酷い。


調略が失敗したのであれば大人しく引くか次の機会を待てばいいものを、何を勘違いしたのか袁術は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の戦支度をするよう配下に命じたという。


確かに袁術が兗州の諸侯を討伐するよう勅命を受けているのは事実だ。


そういう意味では、彼の命令に従わないのはよくないのかもしれない。


だが、諸侯にとって袁術はあくまで袁家の当主であって、皇帝その人でもなければその代理人でもない。よくて皇帝の命令を受けて兵を出した将軍、つまりは前線指揮官だ。


しかもその前線指揮官は漢への叛意を隠していないし、漢もまたその前線指揮官を信用していない。

そんな人間に『漢の人間なら俺に従え』と言われて従う者がいるだろうか?


いや、いない。いるはずがない。


実際袁術の動きを知った劉岱は兗州の諸侯に対して臨戦態勢を敷くよう命じているし、諸侯もその要請に応じて迎撃の準備を整えている。


曹操も要請があればすぐに援軍として出陣する予定である。


「一手でわざわざ敵に情報を送り、万全の態勢を整えさせる時間を与えるとはな。よくもまぁここまで外れを引けるものだ。呆れを通り越して感心するよ」


「……彼が敵で良かったですな」


「あぁ。これが味方なら目も当てられん」


袁家の立場から見て政略的にも戦略的にも、もちろん戦術的にも最悪の選択肢を繰り返し選び続けている男、袁術。彼がいる限り袁家が栄えることはない。そんな彼を止めることができないのであれば、袁家は滅ぶしかない。


曹操をしてそう確信せざるを得ないほど、袁術の行動は極まっていた。


「……黙っていても自滅するような連中に労力を割いてもしかたがないな」


今までは袁術――というか、彼が率いている汝南袁家――に一定の評価をしていた曹操だが、家臣団が袁術の手綱を握れていないと判断した時点で、その脅威度を大きく引き下げた。


袁術に次ぐ警戒の対象は誰か? 

言わずとしれた袁紹である。


冀州最大の都市である鄴とその周囲を抑え、着実に足場を固めているように見える袁紹。

漢でも有数の豊かな土地と、汝南袁家に縋ることしかできない無能とは一味も二味も違うと嘯く優秀な集団を率いる彼は、反長安政権を標榜している諸侯の中で――いい意味でも悪い意味でも――最も評価されている存在だ。


尤も、評価と実態が反比例することなど良くある話で。


「袁術もそうだが、袁紹もまた面白い状況に陥っているようだな?」


「御意」


袁紹にとって最大の敵は、言わずもがな。

一人目は、南皮を中心とした冀州の北部を支配する長安から認められた正式な冀州牧にして皇族である劉虞。

もう一人は彼を支援する幽州牧の公孫瓚である。


「単純な国力という意味では袁紹が勝っているだろう。だが袁紹にはその国力を最大限発揮する為に必要な人材が足りていない。いや、正確には皇族を敵に回してまで袁紹を支援しようとする人材がいない」


「当然のことですな」


「あぁ、当然のことだ」


相手が劉弁ないし劉協なら『幼い皇族を利用している佞臣を討つ!』と言えただろう。

従う者たちも、相手が”霊帝の子供”ならそれなりに納得もしたはずだ。


だが相手は皇族の中でも徳の高い人物として名高い劉虞その人。


さしもの袁紹も『劉虞が誰かの傀儡になっている』とは言えないし、言ったところで信じる者はいないだろう。


攻めようにも、従う将がいない。

文官だって手伝いたくない。

袁紹とて『劉虞を滅ぼした』などという悪評はごめんだろう。


そうなると袁紹陣営がとれる手段は一つしかない。


「公孫瓚と劉虞を仲違いさせ、公孫瓚に劉虞を討伐させること、ですな」


「そうなる。その為に劉虞陣営にも公孫瓚陣営にも大量の使者と書簡を送っているようだが、効果は上がっていない。まぁ当然だな」


離間計。この計略の最も素晴らしいところは、費用対効果が極めて高いところだろう。

極論手紙と使者が往来しているだけでも一定の効果が出るのだからさもありなん。


効果も実証されている。

そりゃあ何度も何度も敵の使者が行き来していれば、どれだけ相手を信用していても不安が頭をよぎるだろう。不信感も生まれるだろう。それらを増幅して最終的に敵対させることがこの計略の肝となる。


単純に相手を貶めることにも使えるので、数年前までの洛陽や長安ではこの計略のスペシャリストと呼べる人間が大量に存在していた程度にはお手軽で効果が高い計略である。


惜しむらくは今はもうその大半が土の中で眠っていることだろうか。


「袁紹が抱えている者たちはその大半が袁紹と同年だ。洛陽の澱みを生きていた連中とは比べ物にならん」


「どのような計略でも機微を理解できておらぬ者には使いこなせませんか」


「あぁ。連中は劉虞が何を欲し、公孫瓚が何を欲しているか理解できていない。これでは不和を生じさせることはできん」


もし史実のように公孫瓚が劉虞の政策に不満を抱いていたら。

もし史実のように劉虞が公孫瓚の行いに不満を抱いていたら。


もし史実のように公孫瓚が物資に苦しんでいたら。

もし史実のように劉虞が公孫瓚以外の軍事力を求めていたら。


もしかしたら公孫瓚は劉虞が治める土地を攻めていたかもしれない。

もしかしたら劉虞は袁紹に助けを求めていたかもしれない。


だが、その”もし”は発生していない。

何故か。長安政権が盤石だからだ。

では何故長安政権が盤石なら公孫瓚と劉虞が争わないのか。


「漢に生きる人間には分かりづらいことだが、涼州と幽州は草原で繋がっている」


「御意。長安に蓄えられている物資が涼州経由で幽州へと運ばれている以上、公孫瓚殿に不安も不満もございませぬ。逆に漢に背いて物資の支給を止められることを恐れるでしょう」


「その通り。で、公孫瓚が漢に背けないと知っている、劉虞には公孫瓚を恐れる必要がない」


「袁紹の使者は『劉虞は長安の陛下にとって代わろうとしている』などと囁いているようですぞ」


「それはお前と袁術だろうが」


袁紹が生き残るには傀儡の皇帝を擁立するか、皇帝を打倒するしかない。

そんなことは誰でも知っている。


もしその理屈を採用するとしても、それはあくまで劉虞と戦う口実として利用するだけのこと。

本心から劉虞が長安政権を裏切ると考える人間はいない。


それを言って来たのが袁紹の関係者となれば、最早笑い話の類いだろう。


「えぇ。公孫瓚殿もそう言って、使者を劉虞様のもとに送ったそうです」


「はっ。わざわざ両者の仲を繋ぐとはな。さすがは袁紹、袁術とやることが同じだ」


「鄴では『なぜうまくいかん!』と騒ぎ立てている姿が見られているようですぞ」


「そこも袁術と一緒か。やはり距離を置かねばならんな」


「御意。袁紹に勝ち筋はございません。精々物資を搾り取るが宜しいかと」


「そうか。では荀彧に繋ぎを頼もう。書状の内容は『袁術が兗州を狙っている。もちろん簡単に負ける心算はないが、袁術が不当に支配している汝南袁家は強大だ。抵抗する為にいくばくかの支援が欲しい』といったところかな?」


「十分でしょう」


袁術の行動に嘘はないし、簡単に負ける心算がないのも本当だ。

汝南袁家が強大なのも嘘ではない。


袁術の隆盛を何よりも嫌う袁紹は、自分たちに無理が出ない程度に支援してくれることだろう。


「汝南袁家を滅ぼすのが袁術なら、汝南袁家の隆盛を妨げるのが袁紹、か。いや、違う。偉大な先代らが急死し、まともな引き継ぎができなかった時点で袁家の命運は尽きていたのだろうよ」


「……その先代らが死んだ切っ掛けは、袁紹による宮中侵犯ですが?」


「あぁ、そうだったな。ならば汝南袁家は袁紹の手で滅ぶのか。私も気を付けねばならんな」


「死後を気にかけるのは些か気が早いのでは? 袁紹亡き後、鄴を奪って我が物にするくらいの気概を見せて欲しいものですな」


「ハハッ。こやつめ」


どう考えても詰み。二人の中ではすでに袁家は終わった存在であり、その興味は彼らが消えた後の権益に向けられていた。


それを油断慢心というのは酷だろう。

なぜなら同じような考えを抱いていたのはこの二人だけではない。

多少目端が利く者たちの間では袁家の滅亡は共通見解ですらあったのだから。


この、当時大多数の識者が共有していたこの見解に大きな歪みが生じることになるのは、二人が笑いあってから僅か数か月後のことであった。

閲覧ありがとうございました


=以下宣伝=


7月18日に拙作の八巻が発売予定です。


細やかな修正に加え、約二万字くらい書き下ろし分があるので、WEB版をご覧の皆様にもお楽しみいただける内容になっているかと思いますので、気になる方は下に貼ってあるリンクからチラ見していただければ幸いです。


よろしくお願いします。

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