番外編 ロー・カンの里帰り
ラトとクリフが迷宮街へと帰ってしばらくした後のことである。
王都ロンズデール近郊の田舎道をガタゴトと荷馬車が走っていく。
馬車が山道に差し掛かったとき、藪の中から襤褸着をまとい、剣を手にした男が飛び出してきた。山賊である。
「そこの馬車、止まれ! 荷物を置いて行け!」
荷馬車は山賊から離れたところで止まった。
馬車が軋み、幌が開く。
続いてツイードの上着に臙脂色のスカーフをつけた、少々体格の立派な紳士が現れた。
紳士は山賊に向けてずかずかと歩いていく。
山賊は武器を持ったまま慌てふためき、剣を旗のように振り回した。
「ううむ、これを思うと赤毛の小僧は気合いが入っていたな……」
あからさまに落胆した様子でぼやいた。
紳士はその分厚い手の平でむんずと山賊の剣を掴むと、そのまま指先に力をこめ、刃を真ん中からへし折ってしまった。
そして、そのまま何事も無かったかのように荷馬車へと戻っていく。
山賊はただただ呆然としていたが、いきなり銃声が高らかに鳴ったので、びくりと体を揺らした。
荷台のうしろに腰かけた長身痩躯の男が空に向けてレガリア銃を撃っている。
すばやく無駄のない装填で三発ほど空砲を撃つと、山賊は悲鳴を上げて逃げ去って行った。
その無様な後ろ姿をみて、長身痩躯の男は声を立てて笑った。
再び馬車がガタゴトと走り出した。
荷台に並んでいるのは二人の男たちである。
ひとりはレガリア銃を手にした長身痩躯の男で、灰色の髪にハンチング帽を乗せている。コートの襟元には金色の蛇の徽章が輝いていた。
それは通称、《サーペンティンの民》と呼ばれる流浪集団の一員である印であった。
隣に腰を下ろしているツイードの上着の大男はもちろん、探偵騎士のドラバイト卿である。
さらに荷台の奥から若草色の上着を着た人物が現れる。
つとめて地味な服装を心がけているが、中年に差し掛かっても鮮やかな金髪と明るい緑色の瞳は否応なしに人目を引く華やかさだ。
「山賊はもう行った? 流れ弾で《《僕》》が死ぬことはないね? ロー・カン」
「ああ、もちろんだ。不慮の事故で死ぬ危険性はない。流れ弾で故意に殺すことはあってもな」
「うわあ、怖いこと言うね。君の相棒は相変わらずおっかないな、ドラバイト卿」
「それよりも、なんで貴殿がここにいるのだ、戯曲探偵殿?」
ドラバイト卿はいかにも度し難いというふうにジェイネル・ペリドットのほうを見やった。
「それはもちろん、ロー・カンが里帰りをするって聞いたからさ。ロー・カンが里帰りをするということは、サーペンティンの民が宿営地に揃うということだ。王国とは異質な文化を持つ彼らと交流するのは、都会のわずらわしさを払拭し、休日を楽しむ予定としてぴったりだと思ったのさ」
「要するにアルタモント卿と離れたかったんだろう、君は」
「それもある。僕が王都にいると一秒と時を待たずに事件がやって来る。君たちが不在となるとなおさらだ」
ジェイネルはうんざりした顔つきだ。
そこにはペリドット家の主としてや、そしてラトの父親としての顔ではなく、同年代の探偵騎士仲間としての気安さがある。
しかしその気安さはドラバイト卿にとってはた迷惑なものだったらしい。
「アルタモント卿と面と向かって話をしたらどうだね。クリフたちのことやノーヴェとかいう新顔のこと、話題には事欠かないだろう」
「貴族同士だと何かとややこしいんだよ、ドラバイト卿。面と向かったとしても面と向かったことにはならないんだ。それにノーヴェのことは君たちにも関わりがあることだ。少し手を貸してくれないか?」
「ラトの前では父親ぶるくせに、帰ったとたん面倒臭いやつだな……。我々には我々の責任の取り方というものがある。アルタモント卿のやり方が心底、気に食わないと思えば、ただ黙って探偵騎士団を離れるのみだ」
「それは困る。僕だけで王都の安寧は守れないよ」
「おい、ロー・カン。こいつを連れていくのか?」
「私はどちらでも構わない。ジェイネルは金持ちだ。金持ちは誰でも好きだ」
のんびりとしたペースであったが、山を二つほど越えるとサーペンティンの民の宿営地が見えて来た。
一生を放浪しながら暮らす移動医師団、サーペンティンの民は定住地を持たないが、一年のうちに何度か、複数の家族集団が合流することがある。
その宿営地から立ち昇る煮炊きの煙が眼下に迫る。
川べりの平坦な土地に、天幕が並んでいる。
ロー・カンは御者台のほうに移動して立ち上がり、朗々《ろうろう》とした声で歌をうたいはじめた。
その詞は古い言葉でできている。
意味を知っているジェイネルとドラバイト卿には、呪文めいた歌声が以下のように聞こえていた。
ただいま、わが家族よ
あなたたちの息子がいま帰ったよ
家族の天幕がみえると
荒れ野でも輝いて
まるで翡翠の玉のようだ
おみやげがあるよ、兄弟たちよ
ともだちもふたり連れてきた
歓迎の準備をしておいてくれ
ロー・カンの歌に応えるように、宿営地からも歌声が上がる。
しばらくして、迎えの馬が馬車のほうへとやって来た。
*
サーペンティンの民、別名|《サーペンティン移動医師団》は構成員のすべてが医師という特殊な流民集団だ。
彼らは家族単位であちこちを移動し、病や怪我をした患者に医療を施しながら村や町をめぐる。
通常の移動には家馬車と呼ばれる、住居を兼ねた大型の荷馬車を用い、宿営地に来ると天幕を張って過ごすことが多い。
その場所で頼まれれば患者の家を訪れて往診を行ったり、狩りに出て獲物を持ち帰ったりもする。
探偵騎士ふたりとロー・カンが宿営地に入ると、大人たちも子どもたちも歓声を上げ、主に探偵騎士たちのほうにまとわりついた。
誰もが競い合うようにジェイネルやドラバイト卿の荷物に手を伸ばしてくる。
それは旅人の重たい荷物を肩代わりしてやろう、という優しい申し出であるだけではなかった。
「ドラバイト卿、知ってるかい? サーペンティンの民には《貸与》や《所有》という概念がない。あっても限りなく薄いんだ。彼らは狩りで得た獲物を分け合うように、道具や衣服などあらゆるものを分かち合う。だから、荷物を渡すともう二度とは返って来ない。だって返却しなくても盗みにはならないんだからね!」
ジェイネルは笑いながらそう言い、ポケットから色とりどりの包み紙に包まれた菓子を取り出した。
それを子どもたちにバラまきながら本命の荷物を死守する作戦だ。
子どもたちは歓声を上げ、我先にと菓子の包みを掴んだ。
「その程度の知識を自慢げに披露するとは恥ずかしいぞ、ペリドット卿! 私も探偵騎士の一員だ、その程度の知識は持っていて当然というものだ!」
押し寄せる流民たちの垣根のむこうへ、ドラバイト卿は怒鳴るように大声を上げ、思わず咳き込んだ。
人いきれのみならず、あたりにはむせ返るような香のかおりが立ち込めている。
さすがは医師集団というだけあって、何百種類ものハーブや薬草が入り混じったにおいが宿営地全体に漂っているのだ。
そのとき、苦草の煮汁の色で染まった指先がドラバイト卿の荷物のハンドルにかかった。
「サーペンティンの民らには貸与の概念はないだろうが、しかし別の観念については持ちあわせがある! すなわち衛生と清潔だ。——《私は医者だ。王都から来た。これは私の仕事道具だ》」
ドラバイト卿が流暢な古語を使ってそう話すと、荷物を持ち去ろうとしていた男はすんなりと引き下がった。
ドラバイト卿の体格や迫力のことを考えると、それ以上の無理強いはされないだろう雰囲気だ。
「医療に関する道具は別なのだよ。ご高説を打っていたわりに、ご存知なかったようだな、ペリドット卿」
そこにサーペンティンの子どもたちがやって来て、手にきらきらしたものを乗せ、広げてみせた。
「いいかね、サーペンティンの民は男女問わず将来的にみんなが医療に携わる。だから手先の器用さを養うために、子どものうちから手仕事を覚えるのだ。ビーズや刺繍、飾り紐などだな」
木彫りのビーズには細かな紋様が彫られており、丁寧にニスが塗ってある。
独特の図柄ではあるが驚くほど細かい意匠だ。
ドラバイト卿は少女が差し出した飾り紐を手に取った。
羽根を広げ、いまにも襲いかかろうとする鷹の図柄が紐の組み合わせで色鮮やかに表現されている。
彼は飾り紐を受け取り、小銭を小さな手の平に乗せてやった。
「彼らは時折、獲物の肉やこうした工芸品を売りに街に出てくることがある。大事な現金収入なのだ」
ドラバイト卿が得意げに言い、飾り紐を懐深くしまおうとしたときだった。
「おっと、それはまずいよ、ドラバイト卿」
ジェイネルはそれを目敏く見つけると、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》といった態度でこれ見よがしに指摘する。
「買ったものを見せびらかさずに懐にしまうのはサーペンティン的に言うと《ドケチ》のやることだよ。それに医療道具だってちゃんとした《譲渡の儀式》を行えば他人に譲り渡しても構わないんだ。おやおや。武闘探偵ことドラバイト卿ともあろう者がご存知なかったのかな?」
「君はまったく、ラトの父親だな!」
「褒め言葉をどうもありがとう」
「どうやら貴殿は私と知識勝負をしたいようだ」
「そういうわけではないけど、たまには競争も楽しいものだよね。受けて立つよ」
肉体自慢のドラバイト卿の鋭い眼光がジェイネルを見据える。
対するジェイネルは華やかな王国貴族然として、その視線を受け流していた。
見えない火花を散らす二人を眺めながらロー・カンは肩を竦めた。
「知ってるか、探偵騎士たちよ。空腹なのに夕食の時間を遅らせるやつらは撃たれても文句を言えないんだ」
「そんな習慣はサーペンティンに無い!」と、二人が異口同音に言う。
「そうか。王都では常識なんだがな」
ロー・カンはそう言ってため息を吐いた。
*
久しぶりに家族に対面したロー・カンは老母に挨拶をし、これまた久しぶりにサーペンティンらしい衣装に着替えた。
流民たちは宿営地に集うときはみんな刺繍を贅沢に施し、ビーズを散らした色鮮やかな服を着る。
そして男女ともにビーズを連ねたネックレスを重ねて身につけ、染めた鳥の羽の耳飾りをつけて、帽子をかぶる。
「ロー・カンや。おまえが無事であるよう願った数だけ珠にしたよ。ドラバイト卿はお前を大事にしてくれているだろうね?」
老母や姉妹たちに優しく頬を撫でられながら、鮮やかな翡翠色をしたビーズの首飾りをかけられているロー・カンはまるであどけない子どものような表情をしていた。
普通の王国民がサーペンティンの民の生活をあまり知らないように、サーペンティンの民のほうも大抵は王国での暮らしに無知だ。
当然、探偵騎士が何か、探偵助手がなんなのかも知らない彼らは、ロー・カンが王都の医院に奉公に出ているとでも思っているに違いないのだった。
「ああしていると人食い虎も猫のように思えるな」
ドラバイト卿が言うと、ジェイネルが無言でそのたくましい腕を叩いた。
探偵騎士たちも刺繍入りの上着を着せられ、家族の天幕で車座になり食事を振る舞われた。
ドラバイト卿とジェイネルの知識勝負は延々《えんえん》と続く。
もてなしの合間にも、水面下での熾烈な戦いが繰り広げられた。
ひき肉を包んだ芋の香草焼きを食べながら二人は肉の種類を当てようとし、伝統的なレモンのスープを飲みながら、細かく刻まれたハーブの種類について意見を戦わせた。
議題は食べ物だけでなく壁掛けの布の柄から煙草を吸うパイプの素材に使われた木の種類にまで及ぶ。
しかし両者が有する知識量はかなり拮抗しており、最後は引き分けに終わってしまうのだった。
「では、ドラバイト卿。ロー・カンという名前はじつは生まれたときに両親からつけられた名前とはちがうっていうのは知っているかな? ロー・カンというのは、狩りの腕前と医師としての実力の両方に恵まれた人物に与えられる名誉称号なんだ」
「知っているに決まっているだろう、彼は私の探偵助手なんだぞ! サーペンティンは生まれてから何度か名前を変える。長患いをしたり、家族に死者が出たりしたとき、厄払いをかねて名を改めるのだ!」
どうにも決着はつきかねた。
気分転換をかねて、勝負は天幕の外にまで持ち越された。
あちこちにたき火の火が焚かれ、宿営地は祭日のような賑やかさだった。
普段は別々に行動している家族たちが集うので、大人たちは炉端に集って熱心に情報交換をしている。
大切な馬や家畜の世話に精を出したり、刺青を彫っている者もいる。
天幕は家族ごとだが、そのうちのひとつに子ども用の天幕があった。
ここでは各家庭の子どもたちがひとつ所に集められ、医術の講座が開かれていた。
彼らは夜はこうして座学をし、昼間は大人たちについて行って狩りや医療の仕事を覚える。
もちろん子どもたちの性格は様々で、誰もに得意不得意というものがある。だが、成人すれば全員がサーペンティンの医師だ。
サーペンティンの民は《知識》や《技術》ですら分け合い、共有する。
彼らは、ある者に治療ができないのなら、別のできる者がやれば良いと考える。患者の汗を拭き、重たい荷物を運ぶだけであっても、それはサーペンティンの医術のうちだ。
そうして家族のすべてが仕事と分け前を共有するのである。
「ドラバイト卿、ご覧よ」
ジェイネルに促され、見ると成人を済ました若者たちがたき火の周りで六弦琴を弾き、舞踊を披露し、古語での即興歌を歌っていた。
「あれを次の勝負にしようじゃないか」
ジェイネルがドラバイト卿に挑んだのは舞踏対決であった。
二人は我先にと集団に混ざり、夜遅くまで踊り明かした。
それにしてもサーペンティンの民の音楽と舞踊にかける情熱にはなみなみならぬものがある。
次々に歌い上手、楽器上手、踊り上手が集まって王都からの客たちを取り囲み、じきにその姿は見えなくなった。
数時間後、大盛り上がりの舞踏会場から、ドラバイト卿は命からがら逃げ出した。
知っての通りの体力自慢ではあるが、次から次に踊りの相手が登場し、音楽は鳴りやまず、テンポは踊り手の技量を試すかのように速くなっていく。
しかも珍しい王都からの客人を、誰も逃がそうとはしない。
ジェイネル・ペリドットは得意のジャグリングなどを披露していたようだが、その姿はもはやどこにも見えない。
流民たちの狂乱の踊りに揉まれて潰されて死んでしまったのだとしてもおかしくないと思えた。
休憩も許されずに踊り続け、天幕に帰って来たときには、息も絶え絶えになっていた。
「フフ……。この勝負、私の勝ちだな」
ドラバイト卿は勝利を確信した。
それは思いのほか心地良い感覚だった。
かねてから探偵騎士団の連中は、ドラバイト卿のことを《武闘探偵》なんぞと呼び、医師であるということや探偵であることさえすっかり忘れているような節があった。
アルタモント卿が寄越してくる依頼は暴力沙汰になることが確実な事件ばかりだし、ジェイネルは身に危険が迫るといつも頼ってくるくせに知的な労働の場合はまったく音沙汰が無い。
クドー・ドラバイトという男がなぜ探偵騎士と呼ばれているのか、もう少し深く考えてもらいたいものだ――とか思いながら、彼は、誰もいない天幕に転がっていた自家製の酒を勝手に飲み、煙草に火をつけた。
なぜ天幕に誰もいないかについては大して深く考えなかった。
全身を心地良い疲れが覆っていたし、みんな外で踊っているか、窮屈な家馬車の荷台で寝るんだろう、くらいに思っていた。
そのうち自分も眠たくなって少しばかり寝入った。
しかし、半時もせずに何かが体の上を這いまわる感触で飛び起きることとなった。
目覚めたとき、そこには三人の女たちがいた。
女たちはサーペンティンの民のビーズや刺繍を身につけている。
いずれも、そこそこ年かさの女たちである。
彼女たちはドラバイト卿の上着を脱がし、その体をまさぐっていた。
「だ、誰だっ! そこで何をしているんだ!? ロー・カンはどこに行ったんだ!」
慌てふためくドラバイト卿に女たちは顔を見合わせた。
そして天幕の外に向けて声をかけた。
「ロー・カン! 旦那様がお呼びよ!」
外で世間話をしていた声が止み、酒瓶片手にロー・カンが入ってくる。
「どうしたんだ? クドー」
「どうしたんだ? じゃない。これはいったい……、いったいぜんたい、何なんだ? 誰なんだ、彼女たちは!」
ドラバイト卿は女たちを見回し、まるで生娘のように後退って、その分厚い胸板を敷布で隠そうとしていた。
「何ってお前。それはもちろん、子作りだ」
「こっ……。子作り!?」
「べつに驚くようなことじゃないだろう。大人なら誰でもしていることだ。しかもクドーは医者で頭がよく、体が丈夫だ。子どもが生まれたらきっと賢くたくましい子になる。部族中の女がお前と寝たがっているぞ」
ドラバイト卿はたまらず悲鳴を上げた。
「そんなわけないだろ! それに誰もがすることではあるが、誰とでもはしない!」
「まあそう言うと思って、俺が事前に最適な女を選んでおいた。何しろクドーは未婚だし、王国民はテイソウカンネンというのがあるのだろう? うちの家族と結婚はしたくないだろうと思って、ここにいる女たちは全員、俺の親戚筋から選んだ既婚者だ」
「亭主がいるのか!? ますます、まずいだろ!」
「どうしてだ?」
ロー・カンは本気で不思議そうに首を傾げる。
「みんな夫の子どもをひとりふたり産んで、次の子が欲しいと思っているだけだ。子種だけくれてやればいい。子どもが生まれたとしても、クドー、お前は世話なんかする必要はない。彼女たちとその家族が実の子と同じように育てるからな」
ドラバイト卿は絶句していた。
サーペンティンの民が王国とは全く別の文化を持つということは、様々な書物で目にしていた。
もちろん、そのいくつかには、彼らが時として集団に新しい血を入れるために養子を取ることもあるとも書いてあった。
だが、これほどまでに積極的だとは全く思っていなかったのである。
書物に書かれた活字と現実のあまりの隔たりに、ドラバイト卿は青ざめていた。
「……待ってくれ、ジェイネルはどうしたんだ?」
「ジェイネルか。あいつは今、踊りの途中で抜け出して、子どもたちの天幕で絵本を読んでいる。あいつの子種がほしいという物好きもいたんだが残念だ。子どもの集まる天幕では子作りは禁止だからな」
ちがう、とドラバイト卿は思った。
嘘つきジェイネルのことだ、とドラバイト卿は推理を働かせる。
あの男はいちはやくこの事態を察知していたに違いない。
そして女たちが客人を見物する熱いまなざしや態度からこの展開を予測し、逃げ込むべきはどこかを的確に見抜いていたに違いないのだ。
敗北の味は苦すぎるものであった。
「ロー・カン。もしかして、あんたの旦那、男が相手でないと使いものにならないんじゃない?」
いつまでもその気にならないドラバイト卿に《《じれ》》て、女たちのひとりがロー・カンに文句を言う。
「え? そうなのか?」と、ロー・カンが言う。
「ロー・カン。あんたも混ざりなさいよ。男の穴と女の穴はいっぺんには使えないから、手前までをあんたがやりなさい」
「嫌だよ、義姉さん。俺はクドーとは寝たくない」
ロー・カンの兄嫁も混ざっていたのか……という衝撃は、もはや大したことではなかった。
ジェイネルとの勝負にも負け、しかも長年、探偵騎士とその助手として組んできた相棒にも裏切られた気持ちがした。
こと相棒に関しては、いまは本当に何も知らない初対面の相手に、それもとんでもない異常者に思える。
相棒を失ったと表現しても過言ではなかった。
クドー・ドラバイトは探偵人生最大の窮地を迎えていた。
*
『……というわけで、来年あたり、ドラバイト卿の子どもが三人ほど生まれるかもしれないね。このことをどうしても誰かに話したかったんだけど、ドラバイト卿には口止めをされているし、こんな話を共有できるのは君しか考えられなかった。もちろん、カーネリアン邸の女性たちやラトには内密にしてくれたまえ。あまりにも下品で刺激の強い男の下半身の話だからね。それでは、再び会えるのを楽しみにしているよ。——ジェイネル・ペリドット』
ジェイネルから、迷宮街はカーネリアン邸に宛てられた手紙にはそう書いてあった。
クリフは葉巻を吸いながら手紙の文面をじっと見つめていた。
カーネリアン邸の応接間には、ラトやクリフのためにペリドット侯爵家から届けられた手紙と荷物であふれ返っていた。
荷物にはジェイネルからの贈り物がたくさん詰められている。
その内訳は、ジャムや高級菓子、服や絹のスカーフ、酒、葉巻などだ。
ラトの世話をすることになるカーネリアン邸の家人を気遣って、いずれも多めに入っている。宝石がついた装飾品の類はカーネリアン夫人への贈り物だ。
その仕分けをしているカーネリアン夫人とラトに向けて、クリフは手紙を差し出した。
「ラト、お前の親父さんが俺にこんな手紙を送ってきたぞ」
「クリフ君に宛てた手紙だろう? 僕も読んでいいのかい?」
恐ろしいまでの速読で手紙に目を通し終えた瞬間、ラトはけたたましい笑声を上げて椅子から転げ落ちた。
頭を軽く床で打っても笑いは止まらず、苦しそうに涙までこぼしている。
それを見て、カーネリアン夫人が不思議そうな顔をしている。
「手紙には何て書いてあったのですか? クリフさん」
「下品で刺激の強い男の下半身の話がお嫌いな女性は、読まない方がよいと書かれています」
「そんな女性、この世にいないわ」
こうして手紙はカーネリアン夫人の目にするところになった。
しかし彼女はラトとちがい、高貴な夫人らしく目を丸くして「まあ」と口にするだけだった。手紙はメイド長のアンナへと回された。
かくしてドラバイト卿はカーネリアン邸においては、ある意味では一番人気の探偵騎士となった。
その名前を出すと皆が一様に「あの……」と言い、様々に不遜なあだ名を口にするのだった。
《番外編 ロー・カンの里帰り――おわり》




