第70話 バールストン・ギャンビット 下
「聞かせていただきましょう、アルタモント卿。なぜこのような犠牲を払い、探偵裁判を開催したのです? そのノーヴェとかいう探偵騎士を使って」
「いいだろう。その前に少し説明を加えよう。君たちも薄々察してはいるだろうが、この子が持つ鑑定技能、そして鉱石技能はどちらも少々変わっていてね……。その才能が本領を発揮するのは、盗みに関してのみ。しかしその一点については、あふれんばかりの才能を発揮するのだ。私がノーヴェを探偵騎士に加えたのはある事件の解決のためだ。誓って王国のため、正義のためであり、君たちをいたずらに傷つけようとして開催した探偵裁判ではない。どのような手段を用いたとしても、私はかならず、クリフ・アンダリュサイトの本性というものを暴かねばならぬと思ったのだ」
「なるほど。僕にもわかる気がします。なぜ、探偵騎士団が僕とクリフ君に挑戦したか。そしてクリフ君をこれほどまでに痛めつけて、何度も何度も繰り返し、彼の善性を試そうとしたか」
ノーヴェがラトを見つめる瞳は鋭く厳しいものがあった。
その眼差しは悪戯の神のそれでも残虐な性質の殺人鬼でもなく、クリフ・アキシナイトに裁定を下す審問官の視線であった。
それは迷宮街を出る直前、二人を見据えていた猫の目だった。
燃えるような炎の色をしているのに一切の熱を感じさせず、そしてにおいもない。
クリフの元に、イエルクの姿を象って現れたときと同じだった。
ノーヴェの全身から体臭がしないのは、変化を気づかれにくくするためだ。
ラトも変装という手段を使うが、これほどまでに徹底した技ではない。
ラトにとって変装は手段でしかないが、ノーヴェはその者に完璧になり替わることに意味を見出しているのだ。
「君は僕らを疑っていたんだね。女神レガリアの盗難者として。だから迷宮街に、それもカーネリアン邸に潜入し、僕とクリフ君のことを探っていたんだ」
ノーヴェは頷いた。
「その通り。女神レガリアを盗み出そうとしたエストレイ・カーネリアンの元クランメンバーたち、そしてその代表であるガルシアは逮捕された。だけど、ガルシアを介してレガリアを手に入れようとしていた何者かはまだ捕まっていない……。ボクの仕事はその何者かを特定し、女神レガリアを守ること。本音を言うとどうでもいいし……死ぬほど興味はない仕事だけれど、アルタモントが言うから仕方がなくやってる。そして、事件の流れを精査する上で、怪しい人物が二人いた。ひとりは女神レガリアの謎を解くとかワケのわからないことを言って探偵騎士団を離脱したラト・クリスタル。そこにあまりにもタイミングよくイエルクの孫まで現れて、エストレイ・カーネリアンの遺産を受け継ぐとか言いだした。はっきり言って、怪し過ぎるンですよ、あなたたち……」
口ぶりからすると、赤い手紙が送られてくる前から、ノーヴェはクリフたちのことを探っていたようだ。
ノーヴェの疑いは寝耳に水ではあったが、確かに、部外者からみればクリフは怪しい存在だっただろう。隠された出自にはイエルクという存在があり、過去をさかのぼればガンバテーザ要塞に辿り着く。
そんな人物がエストレイ・カーネリアンの後継者として突如、名乗りをあげ、女神レガリアを擁するカーネリアン邸に居座っているのだ。
「だが、クリフ君はガンバテーザ要塞で何の罪もおかしていなかった。君はそのことがわかっていたのに、証拠を意図的に隠したんだ」
「その通りですとも。言い訳なんかしませんよ。ですが、すべての探偵騎士を騙してでも、この裁判は必要だったのです。正義を標榜する探偵たちには悪党がどういうものか、本当の意味では理解できていない。キミたちは華麗な推理を披露し、悪を突き止めるが、それは善なるものや勇敢なるものが死んだ後のコトでしかない」
「それでも毒薬は必要なかった。絶対にだ」
「だからエストレイ・カーネリアンは死んだ。トリックも聞いたし、ボクはこれで失礼します。あとはよろしく、アルタモント」
ノーヴェはそう言うと、優雅なしぐさで手の平をひるがえす。
テグスを引いてマントと靴を手元に引き寄せると、その姿は透明に透けていった。トリックではなく、レガリアによる効果だった。
怪盗探偵は何もない空間そのものに変化し音もさせずに消え去っていく。
「待て!」
ラトが怒りに任せて叫んだちょうどそのときだった。
布で仕切られた向こう側から、解放されたパパ卿が現れた。
パパ卿はアルタモント卿を一瞥すると、何も言わずにラトの元へと走り寄る。
「ラト、クリフ君。こんなに近くにいたのに、助けてあげられなくてすまなかった。それに私のレガリアの力が災いし、君たちをさらに苦しめることになってしまった。あれは私のおかしたミスだった」
「いいえ……。パパ卿は悪くありません」
ラトが言う。
そのことについては、クリフも同意見だった。
ジェイネル・ペリドットは常にラトの父親として、庇護者として振舞った。連れ去られる寸前にレガリアの力を使ったのも、ラトとクリフの身を案じてのことだ。
しかしそれでもラトはうつむきながら言う。
「僕はくやしいのです。この探偵裁判で、僕はパパ卿の不利になる行動をしました。そうせざるを得なかったのです」
「血糊を手に入れるために席を離れたことなら何も問題ない。すばらしい機転だったよ、ラト」
「いいえ……。すばらしくなんかない。監視者はいないと判断したけれど、本当にテーブルや椅子に重さをはかる仕掛けがないかどうかの確証はありませんでした。もしかしたら、パパ卿に何かあったかもしれないのに、クリフ君を助けるためにはどうしてもそうしなければならなかったのです」
「探偵騎士としての私の技能やレガリアのすべては、他者への奉仕のためにある。そのために死んだとしても、私は君を誇りに思いこそすれ、うらみはしない。君は天才だ。迷宮街に行き、確実に成長して帰ってきてくれた」
パパ卿に褒められているのに、ラトは顔を上げもしなかった。
「……ラト?」
クリフが声をかける。
ラト・クリスタルはじっと動かずに、膝の上に抱いているクリフの顔を見下ろしていた。
パパ卿の声も聞こえていないかのようだ。
「どうした……?」
長めの前髪が頬にかかって表情が隠れる。
クリフは前髪をかきわけ、様子のおかしいラトの顔に触れた。
無感情な緑の瞳のなかに、戸惑ったクリフの顔がある。
レガリアの効果でお互いの表情は読み取れない。
パパ卿はアルタモント卿からステッキを受け取り、すぐさま、クリフとラトにかかっていた鉱石技能を解除した。
魔力による感情の霧が晴れたあと、そこには限界まで傷ついたクリフ・アキシナイトとラト・クリスタルのふたりがいた。
クリフはラトの顔をみて、はっと息を詰める。
その緑玉の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
「クリフくん……君は……」
ラトの声には、いつもの明るさはかけらもなかった。
掠れ、弱々しく、いまにも消え入りそうだった。
気がつくと、差し伸べたクリフの手は涙ですっかり濡れそぼっていた。
「いつも僕の相棒になんかならないっていうくせに、僕と一緒に謎解きをしてくれるし、面倒事はごめんだっていうわりに、危ないところを助けてくれるね……。事件なんかに興味はないっていうけど、僕にはそうじゃないって感じられるんだ。だから僕は君と冒険をするのが好きだった。君がいれば、どんな謎にも立ち向かえると思う。探偵騎士団の挑戦だって平気だ。でも……もしもこんなことになると知っていたら、僕が尊敬する人たちが、君にこんな仕打ちをするとわかっていたら……」
その言葉の続きは形にはならなかった。
それでも涙は絶え間なくこぼれて、止めることができなかった。
ラトの涙のあとは何重にも重なっていた。
その顔は涙で汚れきっていた。
ロー・カンやノーヴェ、そしてアルタモント卿といった強敵たちと知恵による戦いを繰り広げながら、名探偵はずっと泣いていたのだ。
クリフ・アキシナイトを失うことが怖かったからだ。
パパ卿は無言のまま法廷を出ていった。
ドラバイト卿もラトに背を向けている。
「君が僕の相棒になってくれなくてもいいよ。もう一生、僕から離れてしまってもいい。僕のことは忘れてしまってもいいから。でもひとつだけ約束してほしいんだ。もう二度と、あんなふうに命を投げ捨てないでほしい。生きるのを諦めないでほしい。自己犠牲の精神は君たち兄妹の美徳だけど、だけどあんなのは、僕はもう二度と見たくない。お願い、クリフくん。これから君がどう生きてもいい。でも、もう二度と死なないで……」
クリフは零れ落ちて行く涙に触れた。
自分のためを思って流される涙というものに触れたのはこれがはじめてだった。
どうしていいかわからなかった。
クリフは中途半端に手を伸ばしたままで呆然としていた。
これまで、誰からもそのように思われたことはなかった。
砦には、血を分けた家族である祖父イエルクをはじめとして、クリフがどうなろうが涙を流す者はいなかった。
それどころか、イエルクはクリフのことを何かの実験のように手酷く扱った。
彼はよく孫の食事や飲み物に毒を混ぜ、もがき苦しむ様を楽しんで眺めた。
そこに思いやりや優しさといった感情はなかった。
キルフェだけが例外だったのだ。
彼女だけがクリフを想い続け、無償の優しさを与えてくれた。
しかし彼女はクリフのために泣くことはせず、永遠に立ち去ることを選んだ。
そうして、これまで心から彼の身を案じた者たちはすべて彼のもとを去っていった。
それが何故なのか、いまならわかる。
彼らの手を放したのは、他ならぬ自分自身の手だ。
セヴェルギン隊長の言葉がよみがえる。
クリフ、次がある。
あきらめずに生き続ければ、必ず次の機会がめぐってくる。
そのときは……。
戦え。
クリフは強く念じた。
体は毒に痛めつけられてぴくりとも動かなかった。
それでもだ。
戦わなければいけない。
剣を取り、敵を見定めるのだ。
何を手に入れるべきなのか、今度こそは忘れない。
準備が必要だった。
体を休め、気力を養い、そのときを待つのだ。
《クリフ・アキシナイトに正義はあるか――おわり》




