第69話 バールストン・ギャンビット 上
解毒薬がクリフの体内に押し込まれるのをラトは落ち着かない様子で見守っていた。
「薬の効果が出るまでどれくらい?」
「俺から言えるのはそれまで生きていろということだけだ」
ラトはクリフのぐったりとした体を膝の上で抱いていた。
普段のクリフなら抵抗しただろうが、その気力はまるでないようだ。
額には大粒の汗が浮かび、吐息は荒い。
だが呼びかけには反応があり、意識もしっかりとしている。
ドラバイト卿はクリフの首筋や腕に触れ、あらためて脈を取った。
そして、その皮膚の下に何か恐ろしいもの、それも奇跡と呼ばれるものが秘められているのを目の当たりにしたかのように大袈裟にのけぞってみせた。
「生きているぞ。脈が戻っている。いったいこれはどういうことなんだ、ラト!」
「どういうことも何もありません。クリフ君は生きている。目の前にいる。それが事実です。それ以上でも以下でもありません」
「しかし、結審した時点で彼の脈は完全に停止していた。ロー・カンの毒薬を五杯も飲んで生きていられるわけがない。なにか仕掛けがあるはずだ。まさか、毒に耐性があったということか?」
毒にかぎらず、薬というものは使い方をまちがえると効果が薄くなるものだ。
そうした性質を逆に利用して、定期的に少量ずつ毒を摂取すれば、苦痛と引き換えにいくらかの耐性をつけておくことも不可能ではないといわれている。
しかしドラバイト卿は提示した可能性をみずから否定した。
「いいや、ちがう! 我々は当然のことながら、そういう可能性は最初から考慮していた。私やロー・カン、そしてペリドット卿は、王国に再びイエルクのような輩が現れたとき、その脅威に対抗し得る人材として探偵騎士団に集められたのだ。イエルクのやりそうな悪事はあらかじめ想定済だ!」
それは誰かに聞かせるというより自分自身に言い聞かせているようだった。
声に出すことが彼の思考方法なのだろう。
「先に謝っておくが、すまない」と、思考に没頭しているドラバイト卿に向けて、ロー・カンが謝った。
「なぜだ、どうしてきみが謝ることがある?」
そのとき、法廷の出入口に立つ者がいた。
そこにはアルタモント卿が立っていた。
「私にもぜひ謎解きを聞かせてくれたまえ。まだ間に合うならね」
彼はおだやかな微笑みを浮かべていた。
タウンハウスに出現した盗人が彼の手先であることはもはや明白である。
その盗人はテーブルの向こうでひっくり返っており、死刑判決が下ったはずのクリフ・アンダリュサイトは生き返って、ドラバイト卿がガンバテーザ要塞で起きた事件の新しい物的証拠を手にしているというのに、まるで何ひとつ計画は狂っていないとでも言うかのようだ。
「私も知りたいのだ。ラト、君がどうやってクリフ君を救ったのかについてを。古今東西どれだけ優れた理論家であっても、死者を蘇らせることはできなかった。しかし君はやった。成し遂げたのだ。いったいどうやって?」
アルタモント卿にはまるでラトとクリフの姿しか見えていないようすだった。
だが、その眼前にドラバイト卿が立ちはだかる。
ドラバイト卿のまなざしは鋭く、対面する二人の間では抜き差しならないやり取りがなされているかのようだった。
「その前に説明が必要なのではないか? アルタモント卿。我々がこの探偵裁判に加わったのは、誰かがガンバテーザ要塞で散った英霊たちの無念を晴らす必要があると思ったからだ。貴殿から提示された証拠品と事実とを照らし合わせ、クリフ・アンダリュサイトが犯人として間違いないと確信を得たからこそ協力したのだ。しかし、もしも貴殿がクリフの無実を知りつつ、意図的に証拠を隠していたのだとしたら、それは重大な背信行為だと言わざるを得ないぞ」
「……何か勘違いをしているようだな、ドラバイト卿。私も貴殿と同じく、クリフ・アンダリュサイトが犯人であると確信したからこそ探偵裁判の開催を許可したのだ。そのような証拠があったということは初耳だ」
「言い訳などどうでもいい。あの侵入者について説明せよと言っているのだ!」
ドラバイト卿はテーブルの後ろで伸びている影を示す。
「ああ、そういえばそうだった。すっかり忘れ果てていたが、あいつは侵入者なんかではないよ」
アルタモント卿はようやく気がついた、というふうにテーブルの後ろに歩いていく。そして、先ほどラトの金の鳥が直撃したであろうあたりをステッキの先で軽く小突いた。
「起きなさい、ノーヴェ」
「うっ」
うめき声をあげ、影が飛び起きる。
飛び起きた拍子にフードが後ろに跳ねて、その下から鮮やかな赤い長髪がこぼれ出した。
その姿は先ほどまでの魔物じみた姿ではなく、黒い衣服を着こみ、フードをかぶった人間の姿である。
年頃は大人とも子供ともいえない。
白く抜けるような肌はまるで人形のようなそれだ。
居並ぶ探偵騎士たちを気まずそうに見回した瞳は、さらに鮮やかな紅玉の色あいだった。
顔立ちは清廉でまたとなく美しいのに、不思議と男女の別ははっきりとしなかった。
「無事かね、ノーヴェ」
「無事なワケがない。スゴク痛い。たぶん、あばら折れてるよコレ………もうちょっと寝ててもイイ?」
「いいわけないだろう。君は私に断りもなくペリドット卿のタウンハウスに盗みに入ったそうだな」
「はぁ、まあ……それはそうだけど……。もう、いいよ何でも……」
「立って挨拶をなさい」
ノーヴェはアルタモント卿のことをまるで無視し、胸にステッキを抱くと再び床にごろりと横になった。
ノーヴェが所持している杖はほかの騎士たちと同じレガリアつきだった。そのレガリアは深紅に輝き、柄に小さな緑の脇石がついている。
アルタモント卿は、深いため息を吐いた。
「ふてくされている本人に代わって紹介しよう。この子は我々の新しい仲間、新たな探偵騎士だ。名前はノーヴェ。《怪盗探偵》ノーヴェだ」
怪盗。
その言葉の響きは軽快かつ軽妙で、それでいて正体不明だった。
「かいとう……ってなんだ?」と、クリフが息も絶え絶えに訊ねる。
「僕も知らない」と、ラトが答えた。
なんなんだ、とドラバイト卿も呟いていた。
医者で探偵騎士で暴力担当のドラバイト卿が言うのだから相当のものだろう。
さらに、ついでと言わんばかりにアルタモント卿は、とんでもない一言をつけ足した。
「ちなみに、ラトとはきょうだいの関係にある」
その一言だけで、場は混とんとした空気に陥った。
全員が等しく厄介ごとの気配を感じ取っていた。
クリフも死にかけていることを忘れて、重たくて動かしにくい人指し指を持ち上げた。
それをラトに突きつけて言う。
「お前……い、いたのか……?」
「いや、知らない。僕が知る限り僕はひとりっ子だった」
「いくらなんでも知らなさすぎるだろう」
「そんなこと言われても……まだ赤ん坊の僕をパパ卿のところに連れてったのはアルタモント卿だし。いったいどういうことなんです? アルタモント卿」
クリフは毒のせいでまだ幻覚や悪夢を見ているんじゃないかと思ったが、どうもそうでもないらしい。
ラトは珍しく感情の置き場に困っているらしく、眉間に深い皺を寄せている。
「だれも知らなくて当然だ。ノーヴェは私がオブシディアン家で養育し、その存在は秘密にしていた。この件はジェイネルにも話していない、私だけの秘密だ。そして今回、探偵裁判をクリフ君とラトに仕掛けたのは、ラトの言う通り私ではない。全ての発案者はこのノーヴェだ。私は彼の求めに応じて過去の事件を精査し、場所と機会を与えたに過ぎない」
「なんということだ、アルタモント卿。責任逃れにしては安手に過ぎるぞ。暗殺者に責任をなすりつけるとはな。しかもあんな年端もいかない者に」
混乱した探偵騎士たちが、再び床で転がっているノーヴェに視線をもどす。
しかし、そこにはノーヴェの姿は無かった。
黒いマントが丸められて置かれているだけだ。
「――おあつまりのみなさま、お初にお目にかかります」
ノーヴェの声がまるで意図しないところから聞こえてくる。
慌てて振り返ると、逆光のなかに真っ白なはだしの足と赤い髪、そして猫のように輝く瞳が浮かび上がっている。
ノーヴェはさかさまだった。
その足は完全に重力に逆らい、床ではなく天井を踏んでいる。
探偵騎士たちが揃いも揃ってノーヴェの姿を見失い、元いた場所で寝ていると誤認したのは、床の上で丸められたマントに靴までもが添えられていたからだった。
「ボクは皆様方の夢から生まれたかいぶつです。探偵たちの夜見る夢の、羊の群れにまじった色違いの羊。めくるめく赤い夜そのもの、それがワタシ。怪盗ノーヴェ、ゆえあって探偵として推参いたします」
ノーヴェは手にした杖をくるりと回し、それを小脇に挟んで頭を垂れる。
あまりにも優雅な逆さまのあいさつだった。
よく目を凝らせば、天井に這うように細いワイヤーが張ってあるのがみえた。
爪先をずらすと、足首に取り付けたフックが見える。
ただそれだけのトリックではあるが、重力に逆らって見えるのは、まるで天井に立っているように頭の先からつま先まで、そして衣服の端にいたるまでに気を配り、完璧に重心を制御しているからだ。
「以後お見知りおきを。本来なら、探偵どもの謎解きなどという無粋なものの始まる前に立ち去るのが怪盗の礼節というものですが、アルタモントに免じてボクも同席いたしましょう。なにしろ、彼が言う通り、この夜を始めたのはワタシです。ワタシがこの探偵裁判の真の主催者なのですから」
ノーヴェは無表情に杖の柄を弄んでいた。
彼の杖はひとりでに彼の手を離れ、まるで意志を持つ生物のようにノーヴェの周囲を飛び回った。
そして体のまわりを一周すると、その両手の間でぴたりと止まる。
ノーヴェの指の間には透明なテグスが張られている。
杖はそのテグスに引っ張られ、浮いているようにみえたのだ。
「……挑戦状はアルタモント卿の名前で送られてきたはずだよ」
「ワタシの名前で送っても、キミたちは王都くんだりまで出向いて来たりしないでしょう? だからボクはアルタモントと手を組むことにしたんです。そういう意味で、彼とは共犯関係にありました」
ラトがアルタモント卿を睨みつけると、アルタモント卿は平然として答える。
「探偵裁判の開催と二人に血のつながりがあることはなんら関係がない。ノーヴェは探偵騎士のひとりとして、探偵裁判を開催する正当な理由でもって私を説得し、私もまたその必要があると感じたからこそこうした機会を持った。ノーヴェは証拠の隠蔽を行ったかもしれないが、しかしそのことがあったとしても開催に際して用意された理由はまだ生きている」
「その理由とやらを先にお話になってはくださらないのですね」
「まずはお楽しみが先だ。ラト、なぜクリフ君が未だに生きているのか、その説明をしてくれたまえよ」
アルタモント卿はにこやかである。
クリフは、出会ったときからアルタモント卿がクリフに向けていた笑顔の意味がわかりつつあった。
アルタモント卿のそれは、ジェイネル・ペリドットが若輩に向けるそれとは根本的に違う。
「いいでしょう」とラトは応じた。「まず、前提として、僕はこの探偵裁判においていろいろなものの板挟みになっていました。ご存知の通り、パパ卿は探偵騎士団の手に落ちて、クリフ君の命は五杯の毒薬の前に風前の灯火です。そして、姿の見えない暗殺者が僕らを狙ってもいました」
「怪盗」とノーヴェが口を出したが、ラトは無視した。
クリフも取り合う気にはなれなかった。
「僕の目標はパパ卿の身柄を無傷で奪還し、そして最終的にはクリフ君の命を救うことです。しかしクリフ君は毒杯を共有することを拒否しました。なぜか? ——これが問題です。彼はガンバテーザ要塞で三十人もの王国兵を殺害した犯人に積極的になりたがっていました。裁判で、毒薬を言われるがままに飲み干すことによって。もしも彼が本当に犯人なら、そのように破滅的な行動を取る必要はありません。しかしクリフ君の決意は異常に固く、説得に応じる様子は皆無です。おそらく誰かを庇っているのだろうと思いました」
心の中が何一つ読み取れなくとも、ラトはクリフとセヴェルギンの間にあった信頼関係に気がついていたのだ。
「こうなったらクリフ君の意志を変えるのは至難の業です。進行はなんら乱れることなく、彼がすべての毒薬を飲み干すのは時間の問題でした。でもそれでは、僕らをこの窮地に陥れた人物の意のままになってしまう。クリフ君は死に、真実は闇の中。それだけは防がねばなりません。だから僕は発想を変えることにしました。クリフ君が毒薬を飲むことを止められないなら、毒薬のほうを何とかするべきだと」
「まさか、ロー・カンを懐柔し、解毒薬を手に入れたのかね」
ロー・カンが何かを言おうとしたが、それより先に口を挟んだのはドラバイト卿だった。
「それは不可能だ。裁判を中止にでもしないかぎり、ロー・カンが敵に情けをかけるようなことをするはずがない」
ロー・カンが予定を変更し、自決用のナイフをクリフに持たせたのは、あくまでもその時点ではアルタモント卿がこの裁判の主催者だったからだ。
裁判を滞りなく終了させるために、ロー・カンは尽力した。たとえラトが泣きついたとしても、クリフが王国兵を殺害した犯人であるならば容赦はしないはずだった。
「その通りですよ、ドラバイトおじさま。ですから、僕は勝負に出ることにしました。ロー・カンと、正体不明の泥棒を同時に相手取った二面指しの早指し勝負です。ロー・カンは最後までクリフ君を殺すという意志を変えませんでした。ですが……それと同時に予定にはない行動を取り、結果的にクリフ君を生存させたのです。それは、こういうことです。彼はあらかじめ用意していた毒薬の量を減らしていたのです。それかあるいは、調合を変えたということも考えられます。いずれにしろ、その措置によってクリフ君の体への影響や負担は軽減したのです」
「……なぜだ!?」と相棒に詰め寄るドラバイト卿。
「だから言っただろう、すまないと」と、ロー・カンはしかめ面である。
「ドラバイト卿、ロー・カンは悪くありません。彼はクリフ君を殺すためにそうしたのですから」
「殺すために毒薬を減らすだと!? そんなことはあり得ない!」
「そうですが、しかしあり得ないことが起きたのです。そして、そうするように彼を誘導したのがこの僕です」
ラトは平然として言い、続ける。
「あらためて振り返ってみると、ロー・カンはこの裁判でかなりの重責を担っていました。すなわち五杯の毒薬です。一杯でも、二杯でもありません。かならず五杯飲ませ、五杯で死ななければいけないのです。なぜなら、その間クリフ君は裁判に出廷し続け、証言をしなければならないからです。地獄の責め苦を味あわせながら、意識ははっきりさせなければなりません。これは難題中の難題ですが、ロー・カンは天才的でした。初対面のクリフ君に対して、分刻みで症状を制御するという、芸術的ですらある手腕を発揮してみせたのです。これには僕も驚嘆せざるを得ませんでした。そして何とか彼を攻略せねば、生存の道は開けないことがわかっていました。勝利の目に必要なものは――時計の針を故意に進めること」
「みごとだ、ラト。核心を言いたまえ」
ラトは真正面にアルタモント卿を見据えながら、答える。
「実に簡単な一手です。僕はロー・カンが正確にはかり続けていた時計の針をずらしたのですよ。ドラバイトおじさま、クリフ君が二杯目の毒を飲んだ直後のことです。クリフ君が鼻孔から大量に出血したことを覚えていますか?」
「もちろんだ。患者の身に起きたことはすべて記憶している」
「じゃあ、三杯目の後に喀血したことも記憶にありますね。実はあれは、ロー・カンのタイムスケジュールには存在しない、まるで想定していない症状なのです。クリフ君は、彼の予定よりも早く死にかけていたのです」
探偵騎士たちが言葉を失う。
そこでは言葉は思考という光よりも遅く、もはや意味のないものだった。
その衝撃からいちはやく抜け出したのは影の貴族であった。
アルタモント卿がにやりとして言った。
「ロー・カンは天才肌で、職人気質でもある。もしもそのようなことが目の前で起きたとしたら、クリフ君は裁判を終えることなく、毒に倒れると思うだろうな」
「その通りです。被告人が証言台の上で死刑判決を受け取る前に倒れるなど、彼にとってはあってはなりません。ロー・カンはクリフ君に現れた激しすぎる症状を見て、毒に弱い体質であるか、それとも体重が予測よりも軽かったか、あらゆる可能性を想定し、残りの毒薬の量を調節したのです。彼は五杯目の毒薬でクリフ君に完璧な死を遂げさせるために、毒薬の量をわざと減らしたのですよ」
探偵裁判の最中、ラト・クリスタルは瀕死の相棒を前に動揺している演技をしながら、二度、ドラバイト卿と共に控室から離れた。
クリフは毒の影響で朦朧としており、ロー・カンが法廷に入って毒薬の量を調節したとしても気がつかない。
ロー・カンはもはや何も言葉にはしなかったが、それは肯定と同じ意味合いだった。彼は獲物を逃がしたのだ。
それは彼がこれまで対面した誰よりも賢い獲物であった。
「では、あの大量の出血は何だったのだ? 毒の効果ではないとしたなら……」
呆気にとられたように、ドラバイト卿が訊ねる。
クリフもラトも、血を流すためにわざと傷をつけたようすはなかった。
法廷には武器は持って入れなかったはずだ。
「あれは全部ほんものの血ではなく、ただの血糊ですよ。おじさま」
「血糊?」
「はい。舞台演出に使われるものです。それを使って、クリフ君が大量出血したように見せかけたのです」
「だが、裁判がはじまるまえ、お前たちの持ち物を検査したときは、どちらもそんなものは持っていなかったはずだ」
「その通りです。僕は血糊なんか持っていませんでした。持っていたら、取り上げられていたでしょう。でも、いつでも体のどこかに血糊を仕込んでいる探偵騎士がひとりだけいるじゃありませんか」
それが誰なのかクリフにも見当がついた。
ほんの偶然ではあるが、探偵裁判の直前にそれを目撃したからだ。
探偵騎士たちは、それぞれに同一の人物を思い浮かべている。
「嘘つきジェイネルだね」と、アルタモント卿がおかしそうに言う。「確かに、彼ならば血糊を持っているだろう」
パパ卿のお得意の推理術のひとつは、彼が死んだふりをして、犯人を油断させるという荒唐無稽なものだ。
タイミングよく死ぬためには、常に血糊を持ち歩いていなければならない。
しかしパパ卿から血糊をもらうという単純な手段は、この場合、とてつもない難事業だと言えた。
「ペリドット卿は館のどこか別の部屋にいるはずではないのかな、ラト」
パパ卿が檻に捕らえられたのは、クリフたちが館にやって来た直後のことだ。
そのときに誰にも知られぬよう血糊を受け渡すタイミングはなかったし、その後の行動も監視されており、パパ卿と接触する時間も機会もなかったはずだった。
「人が悪いですね。貴方は、探偵裁判に使われたトリックのことなら全部わかっているのに。別の部屋なんかじゃありません。パパ卿ならずっとここに、僕たちと一緒にいましたよ。ねえ、そうでしょう? アルタモント卿」
ラトの言葉が理解できないのは、どうやらクリフだけのようだった。
ドラバイト卿もしばらく思案顔だったが、さすがに彼も探偵騎士のひとりである。
答えに辿りつくのに、さほどの時間はかからなかった。
彼はおもむろに立ち上がり壁へと近づいていく。
そして議場をぐるりと一周し、扉と反対側の壁の前で止まった。
そこは、裁判の一番最初にパパ卿の姿が映し出された壁だった。
ドラバイト卿は突然、石壁の表面を拳で殴りつけた。
普通なら拳のほうが粉砕される場面である。
だが、そうはならなかった。
石壁の表面が音を立てて波打ったのである。
ドラバイト卿ははっとした表情を浮かべる。
「これは……絵が描かれた布だ!」
そう言って自分のステッキの柄をひねり、銀色の輝く仕込み刃を引き抜くと石壁へと突き立てた。
石壁はやすやすと深く刃を飲み込んでいく。
そのまま真下へと下ろせば、軽い音を立てただけで切れ目が入った。
その切れ目をめくると、明かりのない暗闇の空間に、まるで手品のようにジェイネル・ペリドットが現れたのである。
「その通りです、おじさま。目の粗い布に石壁の絵を描いておくだけの単純なトリックです。薄暗い部屋の中では壁にみえるけれど、布の向こうで明かりをつけると透けて部屋の様子が見えるんです。僕も最初は騙されました。こんなにも近くにいるのにパパ卿の声が聞こえなかったからです。でも、そうじゃない。よく考えれば、音のやり取りをするレガリアがここにはある」
「疑いはじめたのはいつ頃だね」
「二杯目の裁判がはじまった頃でしょうか。探偵裁判に関する僕の疑問点は、やはり監視者がこの空間にいなかったことに尽きます。この裁判の大前提は、僕が従わない場合は即パパ卿が犠牲になるというものだったはずです。それこそ僕が探偵騎士団の気に食わない行動を取ったら、すぐにパパ卿に危害を加えられなければ意味がありません。そして、パパ卿自身が脱出することがないよう見張っておく必要もあります。そこで、僕はひとつの仮説を立てたのです。もしも盗人が、ガラスの破片に変化してタウンハウスから出たのではなかったとしたら……?」
ラトはノーヴェに視線をやる。
ノーヴェはテーブルの上にステッキを立て、その上にあぐらをかいてラトの推理を聞いていた。それも何かしらのトリックなのだろう。
しかしノーヴェは無表情で、何ひとつ答えない。
「もしも泥棒がクリフ君のが隠し持った武器に変化し、法廷に入り、そのまま裁判を傍聴するつもりでいたのなら、監視者がいないのも納得です。犯人は人質の管理も、僕たちの監視も、ここで一時に済ますつもりだった。でも予定外の出来事が起きた。クリフ君は隠した武器をすべてドラバイト卿に渡してしまったのです。彼のこの行動により、僕は比較的自由に動けるチャンスを得ました。……石壁のトリックは近づいて触れればすぐにわかりました。そしてドラバイト卿と同じように布の端を切って部屋に潜入し、パパ卿から血糊を借りることができたのです。そして、借りたものはもうひとつあります」
ラトはクリフの服の前ボタンを外し、脇の下からゴム製のボールを取り出した。
「これが脈を止めたトリックです。止血と同じ要領で太い血管の流れが止まれば、短時間であれば血の流れを止めることができるんです。ロー・カンは僕の誘導に引っかかり、毒薬の量を減らしましたから、クリフ君は五杯目を飲んでもすぐには死にません。でも生きていることがバレれば、その時点でトドメを刺されてされてしまいます。なのでこのボールが必要だったのです」
クリフ自身は、血糊を塗りたくられたことをまるで覚えていなかった。
しかしボールには気が付いており、それが何に使うものなのかも理解していた。
そこでドラバイト卿とロー・カンが死亡確認に来たときに、脇を締めて脈を止めたのだ。それは咄嗟の判断だった。
「タイミングの打ち合わせはできませんでした。僕とパパ卿は闇の中でも指の動きでサインを送り合うことができるけど、クリフ君とはできません。声を出せば、レガリアがそれを拾いあげてしまうかもしれない。だけど、クリフ君が僕の意図を読んでくれることに賭けました。クリフ君はそれに応えてくれた。これで、クリフ君の死の偽装が完成しました」
「あとは生き返ってみせるだけ……か」
「そうです。そして、法廷を去るときに花瓶の破片をクリフ君に渡したのです」
「破片はどこから?」とノーヴェが訊ねる。
「キッチンのゴミ箱の中。君はタウンハウスを退出する際、僕の推理を邪魔するために、誰かを雇って花瓶を運ばせたんだろうね。誰に頼んだか知らないが、ずさんな証拠の始末の仕方だったよ。どのみち、この館にあることは追跡者によってわかっていたから、僕は手に入れたと思うけれど……」
ふん、とノーヴェは不満げに鼻を鳴らした。
「知ってのとおり、死んだ人間に注意を払うものはいません。死んだ人間が生き返ることはなく、死者は攻撃をしかけてこないからです。そうした思い込みと油断からノーヴェはクリフ君に注意を払わず、背中をみせました。これで王手。いや、詰みだ」
事件はおそろしいまでに静かに幕を閉じた。
犯人が明らかになり、隠されていた証拠によりクリフの無実は証明された。
しかし――……。
その結果としてクリフが守ろうとしていたものはすべて失われてしまった。
セヴェルギン・アキシナイトとその部下たちが、王国の民を守るために針魔獣に立ち向かったという物語は脆くも崩れ去った。
悲劇の帳は乱暴に開かれて、英雄たちの墓標に刻まれた文字も変わるだろう。
息子を救えなかった哀れな父親だと書かれるだろう。
クリフはそのことが何よりも悔しかった。
自分が死ぬことよりも、恥ずかしく悔しいことだった。




