第67話 死よ、安らかであれ
四杯目の杯を飲みほした後、その効果は覿面に現れた。
まるで魔法のようだった。魔法の中でも一等すさまじい魔法だろう。
電気鰻にでも触れたかのように手足が痺れはじめ、電撃を受けたかのように強くなったかと思うや否や、いきなり全身の感覚が消失したのである。椅子に座っているという感覚もない。誰かに触れられたとしてもわからなかっただろう。自分が発するうめき声も含めて音も聞こえない。あっという間に天地の区別がなくなり、視界が黒く塗りつぶされていった。
ロー・カンは手足の自由が利かなくなるとか言っていたが、そのようなことが些末に思えるような副次効果である。
クリフは何もない無の空間に、苦痛と悲しみを感じる意識だけとなって浮かんでいた。
死ぬのだろうか、とひとつ思うと、山の頂から転がり落ちた小石がやがて岩雪崩と化すように、恐怖が押し迫ってきた。
ろくな人生でなかったことは確かだが、自分の意識がもうこれきりとなり、永遠に消え去ってしまうのだと思うと余計な焦燥感が生まれる。
それはもう避けられないのだと認めるのと同時に、分裂症の患者のごとくどうにかして逃げる術はないのかと囁く声が聞こえてくる。
これが死に近づくということなのだ。
そしてその死をもたらしたのは、間違いなくクリフの選択のせいだった。
もちろん、この状況へとクリフを陥れたのは探偵騎士団であり、ラト・クリスタルと知り合ったことが遠因になってもいる。
しかし、クリフの命を実際的な死に近づけたのは毒の杯であり、それを飲むと決めたのもまた自分だった。ガンバテーザ要塞の兵士たちを殺害したといういわれのない罪をかけられたときに、弁解しなかったのも自分自身だった。
ラトは――毒の杯を分かち合うことを提案したが、クリフは最後のときまで自分であることを捨てられなかった。
そうとしか生きられなかった自分の手で自分の首を絞めたにすぎない。
しかし果たしてこの自分自身というものに、かけらも罪がないのかということについては、クリフは自信がもてなかった。
なぜならガンバテーザ要塞を立ち去る際、彼はいくつかのものを要塞から盗みだして遺体を破壊したからだ。
まず、彼はセヴェルギン隊長の命を奪った剣を彼の体から抜き、自分のものとした。それからエリオット・ロードナイトの死体を調べ、服や持ち物を剥ぎ取った。
その代わりに崩れかけた隊舎から、サヴィアスがクリフのために用意した装備一式を持ち出して遺体に着せた。そしてエリオットの遺体を辱めた。
死んでいるとはいえ、その腹を切り裂いたのだ。
そうしたのは、彼が腹のうちに飲み込んでいた針魔獣のレガリアを回収するためだった。レガリアは体内で一体になりかけており、遺体を激しく傷つけなければいけなかった。それが罪でないとはもはや言い切れないだろう。
しかし、こうした工作のおかげで、もはやエリオット・ロードライトが要塞の兵士ではないのではないかと疑うものはいなくなった。エリオットは正式にセヴェルギンの部隊の仲間になったのだ。
クリフはそれを永遠の秘密として、ガンバテーザ要塞を後にした。
行く先も来し方も悟られぬよう、行きつ戻りつしながら慎重に進み、道中で持ち物を少しずつ手放した。
木製の食器やナイフ、革の小物いれ、防具のひとつひとつを手放すとき、思い出もまたクリフのもとを去った。
記憶は残っても、縫い目の粗い鎧下はもう手元にはない。手放してしまえば、あの縫い目がどのようにちぐはぐだったのか、確かめる術はない。そういうふうにして、あのときガンバテーザ要塞に確かにいたのだという確信、剣や正しさと向かいあったのだという確証は失われていった。
針魔獣のレガリアは人里から離れた沢に流した。
本当は粉々に壊してしまいたかったが、それができるのはレガリアに込められた魔力を操ることのできる祝福細工師しかいない。
祝福は天与の才能であり、針魔獣のレガリアを砕くとなるとそれなりの危険をともなう。いまのクリフの立場ではそうした技術者を探し出すのは困難だった。
剣を手元に残したのは、もしもガンバテーザ要塞の痕跡を追って来る者がいるとしたら、その者が辿りつく先にいるのはクリフ・アンダリュサイトであったほうがよいと思ったからだ。
クリフにとって、あくまでもエリオット・ロードライトは王国軍の一員でなければならなかった。セヴェルギン隊長を血を分けた息子に裏切られて部下たちもろとも殺された哀れな父親にだけはしたくなかったのだ。
このまま何も語らず五杯目の毒を飲み干せば、ガンバテーザ要塞で起きたすべての物事は、クリフの魂とともにこの地上から消え去るだろう。
あれほどハゲワシの血を憎んでいたのに、最後まで自分自というものを捨てられなかったその報いを受ける時がきたようだ。
だが、果たして目も見えず、腕の上げ下ろしでさえまともにできないような状態で、最期の杯を飲み干せるかどうか。
しかしそれは杞憂に終わった。
「刻限だ」
アルタモント卿の声が聞こえてくると、一気に視界が晴れた。
テーブルの向かいにはラトが座っている。
光の次に音が返ってきた。
激しい呼吸音が肺の奥から吐き出される。
心臓が鼓動を打つ音が鳴り、滝のように汗が流れ落ちるのを感じる。
これは夢ではない。幻覚でもない。
肉体が現実の手触りを感じ始めると再び、この意識をみずから手放すのかと心が責め騒ぎはじめた。
覚悟とはいかに陳腐で頼りないものであるか。
テーブルの上に二つの杯が用意されていた。
「被告人が犯行を認めたことにより、これ以上の審議を続ける意味はなくなった。被告人の自白をもって刑を確定する。最後の杯を飲むタイミングはふたりに任せよう。ラト……いまさら止めたりはしないね」
「アルタモント卿、考え直してください。事件の犯人はクリフ君ではありません。僕は絶対にそうとは思えないのです」
「ラト、悪人とはそういうものなのだ。見るからに邪悪なものもいれば、知らぬまに心のひだの内側に入り込んでしまうような魅力を持つ者もいる。しかしクリフ君をこれ以上信じるのは無駄だ。彼はずっと君を騙していたんだよ」
「僕は騙されてなどいません」
「では、彼は自分から君に真実を話したのかな? 自分がイエルクの血筋であると、はじめから真実を明かしたのかね」
ラトは黙りこんだ。
そうではないということは、クリフ自身がよくわかっていた。
「彼は自分の本性を隠し、君に近づき、そして重大な罪を抱えていることを打ち明けなかった。それが真実だ」
「ですが、それでも、クリフ君はガンバテーザ三十人殺しの犯人ではありません」
「ラト、ここは法廷なのだ。証拠のみが被告人の罪を定めるのだ」
「証拠ならあります。今この場に。ですが、お見せすることができなくて困っているのです」
ラトが大真面目な顔をしてそう言うと、アルタモント卿はかすかに笑い声を立てた。
「冗談を言っている状況かな、ラト・クリスタル」
「いいえ、冗談ではありません。僕はあなたが無実の人間を裁こうとしていることに危機感を覚え、それを何とか止めることができないかと考えている最中なのです」
「はったりは父親譲りの悪い癖だ。君が刑の執行を邪魔するというのなら、ドラバイト卿に介添えをさせねばならないぞ」
「その必要はありません。毒の杯を飲むことを、僕はもう止めません。ですが、その前に話をさせてください」
「構わない。自由に時間を使いたまえ。しかし、苦痛が長引くことを忘れずにな」
ラトはクリフに話しかける。
「クリフ君……僕は確かに、初めて君と会ったときに推理を誤った。君がイエルクの血筋であることも見抜けなかった。だけど……もし君がそうだと知っていたとしても、僕は君を相棒にと望んだと思う」
「…………迷惑な話だ」
「君はそう言うけど、でも手紙を届けてくれただろ」
「面倒はごめんだ……」
「そのかわりに女神レガリアを見せてもらったじゃないか」
そのかわりに、ガルシアに殺されかけたのだと言おうとして、クリフは咳き込んだ。テーブルのあちこちに細かな血飛沫が散った。しかし、何を言おうとしたのかはきっと伝わっただろう。
ラトが迷宮街のどこかにいて、不可解な事件や謎を解いていたそのとき、クリフはそのそばにいた。そして竜人公爵やナミル氏といったただならない者たちとクリフが対峙しているとき、ラトもその隣にいたのだから。
「僕は君を相棒にしたことをちっとも後悔なんてしていないんだ。これまで僕は、探偵の役目は真実を見つけることと、悪に苦しめられている人たちの助けになることだと思っていた。アルタモント卿やドラバイト卿たちと同じ考えだと。でも、いまは少し違うのかもしれない。僕の考えを決定的に変えたのはリサだ。リサは罪をおかしたけれど、悪ではなかった。この世界には本当は正しい心を持っているのに、心の通りには生きられない人もいるんだ……」
ラトはクリフに手を差し伸べた。
そして、鉄のかたまりのように重たくなってしまったクリフの掌を握りしめる。
その瞬間、激痛が襲ったが、振り払う気力もなかった。
「僕はそうした人たちの助けになりたい。いっさいの悪を許さぬ正しさではなく、痛みと苦しみのそばにいたい。そういう探偵でありたい」
きっとなれるだろうとクリフは思った。
ラトには特別な力がある。
まるで狂人そのものの行動をとり周囲に迷惑をかけてばかりいるが、それだけではない。
クリフが迷宮街に来たとき、その心は寂しく凍えていた。
正しく生きたいと強く願ったが、しかし、セヴェルギン隊長たちを無惨に死なせてしまった自分のことは許せないでいた。
だけど思いがけず始まった冒険のひとつひとつは細部にわたるまで鮮やかに思い出せる。
クリフはラトに語りかけた。
楽しかったよ。
伝わるとは思わなかった。
伝わらなくても構わなかった。
しかし、ラトは答えた。
「僕もだ」
ラトはクリフの掌を、黒い杯へと導いた。
そしてステッキを手にして立ち上がり、控室のほうの扉へと歩いていく。
クリフはラトの姿を杯越しに見送った。
「最後の杯は――……黒だ。さようなら、クリフ・アンダリュサイト。悪鬼の血筋よ」
アルタモント卿が告げる。
それは、最終的な死刑宣告であった。
クリフはにやりと笑った。ラトが最後の杯を読んでいたことをアルタモント卿はまるで知らないでいるのだろうと思うと、そのことが妙におかしかった。
クリフは震える手で杯を掴んだ。
石の冷たい感触が神経を苛むが、それよりも一滴たりともこぼさぬように細心の注意を払う。
本当に死ぬのだろうか、と弱い心が言う。
本当に自分は死んでしまうのだろうか?
死にたくなかった。
絶対に死にたくなどなかった。
鉄の手袋をはめたかのように動かぬ手足でも、内臓が腐りきって体中から血を流していたとしても、生きて明日を迎えたい。
ありとあらゆる希望が死をためらわせ、惨めな気分をもたらした。
すべての希望をひとつずつ振り払う度、それはしつこくクリフのもとに戻ってくるのだ。
どれだけそうしなければいけないという理由があったとしても、みずから死を選ぶということは恐ろしかった。
何度も何度も逡巡し、最後にクリフは妹のことを考えた。
これほどまでに恐ろしいことを彼女はしたのだと思う。
いまさらながら彼女の勇気に感嘆する。
ふがいない兄に自由を与えるために毒を飲んだのに、クリフはいま彼女と同じ道すじを辿ろうとしている。
そしてその先は彼女とは別の行き先へと続いているのだ。
希望は人を惑わせる。
だが、いま、クリフの願いはひとつだった。
キルフェ、どうか幸せに。
いつも誰かに支えられていた人生だったと思う。
セヴェルギン、そしてキルフェに。
そして……。
友人に。
若き名探偵に。
ようやく手の震えが凪ぐ。
杯の中身が唇へと注がれる。
ラトは控室の扉の前に立って、石の杯が床に落ち、割れる音を聞いていた。
クリフは机の上に突っ伏して、二、三度呻いたあと、動かなくなった。
もう二度と顔をあげることはないだろう。
法廷には永遠があった。
永遠の終わりだ。
*
彼は夢を見ていた。
食卓の夢だ。
それは走馬灯と呼ばれる類の現象に思われたが、話に聞くほど心穏やかなものではなかった。
その食卓はアンダリュサイト砦の食堂にあった。
テーブルの端には祖父イエルクが座っている。
その反対側には、幼い子供がいる。
赤錆色の髪の毛をした痩せた男の子だ。
彼の前には焼いた鹿肉の皿が置かれていた。
三日ぶりにまともに与えられる食事であった。
少年の胃はきりきりと痛むほどに、皿の上の食べ物を求めている。
皿の端に垂れた肉の油でさえもごちそうにみえた。
しかし、彼が皿に手をつけないのは、食堂の空気が重たく静かで、まるで葬式のように凍え切っているからだ。
「食べなさい」とイエルクは言う。「少しは食べないと強くなれないぞ」
いつも怒声か罵声しか投げかけない彼が、珍しく発した優しい言葉だった。
しかし、そのとき、控えていた侍女がとつぜん泣き出した。
イエルクが存命の頃、砦には侍女が何人かいた。
だが、彼女たちは時折、突然思い詰めたふうになり涙を流す事があった。
そうした後、決まって侍女は砦を去っていった。
「泣かないほうがいいよ、おじいさまは女性のなみだがおきらいなんだ」
幼いクリフが声をかけると、侍女の泣き声はさらに強まり、許しもないのに勝手に食堂を出て行ってしまった。
窓がほとんどない砦の廊下は暗く、まるで死の国へ通じる地下道のようだった。
それが最後に見た夢であった。
クリフ・アキシナイトが手放そうとして手放せなかったもの。
名前を変えても、身分を偽っても、その血にまとわりついた呪いの断片である。
しかし呪いはもはや、その魂に追いつくことはできない。
死者の国ではすべてが平らかであり、何もかもが穏やかなのだから。




