第59話 泥棒
客室に何者かが侵入したという報せを受け、ペリドット侯爵に仕える使用人たちは粛々と行動を始めた。彼らは表向きには一切の動揺をみせず、武器と明かりを持ち、二人組になってタウンハウスの隅々を検分して回った。破られた鍵や戸がないかどうかを確かめ、盗まれたものがないか改めるためだ。
その手際のよさはさすがのものである。
クリフが使っていた部屋はテーブルが横たわり、割れたガラスの花瓶の破片がそこら中に飛び散っていたが、ひと通りの検分が終わるとメイドの手によって速やかに整えられた。あれよあれよという間に元通りである。
翌日になると、リンゴが二個と銀のナイフが一本、洗濯部屋にあったシーツと枕カバーが一枚ずつ、メイド部屋にあった針入れがひとつ、そして広間に敷かれた小さめの毛織物が一枚なくなっているという報告がもたらされた。
いずもささやかな品々であり、高価な宝飾品や現金などは手つかずだ。
大胆にも侯爵家のタウンハウスに、しかも探偵騎士の邸宅に押し入ったにしては小心な成果である。
とはいえ侵入者は窃盗犯だろうと思われた。
しかし、それにしては説明のつかないことがあった。
すなわち、犯人の姿がクリフの祖父にしてアンダリュサイト砦のかつての主、そしてディッタイの悪鬼と呼ばれたあのイエルク・アンダリュサイトと瓜二つであったことだ。
「本当に侵入者はイエルクの姿をしていたの? 君の妄想や幻覚とかではなくて?」
翌朝、朝食の席でラトは不審そうな顔つきでそう言った。
妄想や幻覚を疑いたいのは、どちらかといえばクリフのほうであった。
「なんでイエルクの変装をしていたのかは知らないが、幻覚でないかどうかくらいはすぐ確かめたさ」
クリフは侵入者の姿を見失ってすぐ、窃盗犯が座っていた椅子を確認した。
そこにはしっかりと体温が残されていた。
それからすぐに荷物をあらためたところ、クリフの荷物の一部が持ち去られていることもわかった。
クリフは浮かない顔だ。
「幸いにして剣や防具は無事だったが……」
「何を盗まれていたのかな?」
「服だ」
「服ね。下着でもシャツでもなく、ずいぶんぼんやりした物言いをするじゃないか」
「古いもので、大した価値なんかないんだよ」
「まあいいや。それよりも、君の部屋に出現したイエルクのことだけど、本人が墓場から蘇ったとかではなく、変装だっていうのは、それは確かな話なんだね」
眠気覚ましのミントティーを飲みながら、ラトが訊ねる。
「ああ……。だが、確証はない。なんとなく、話し方が違う気がするってだけで……」
しかし、昨夜、薄暗い部屋でソファに腰かけていたのは、見た目だけならば確かにイエルクそのものだった。そのときはまちがいなく偽物だと思ったが、夜が明けてみると、だんだんと自信がなくなってくるクリフであった。
少なくとも、外見や声はそっくり本人と同じなのだ。
二人の話を横合いで聴いていたジェイネルは思案顔であった。
「声か。おもしろい着眼点だね。亡くなった人の記憶は声から忘れていくというから、クリフ君は耳がいいのかもしれないね」
途端に朝食が灰の味になったような気がした。
昨晩、ジェイネルの過去を耳にしたばかりのクリフにとっては、感想の言いづらい話題である。しかしジェイネルは邸で起きたこの出来事を事件として捉えており、他意は無さそうだった。
「見た目にはまったく同じで、声も判別がつかない。なのに君が違和感を持ち、変装だと思ったということは何かしらの原因があるはずだ」
「でも、姿を見たのは一瞬でしたし……」
「それじゃ、私が思い出すのを手伝うよ。目を閉じて楽にしてくれ」
ジェイネルの言われるがままクリフはまぶたを閉じる。
耳元から、柔らかな優しい声が聞こえてくる。
「人は忘れたと思っても、記憶は完全に消え去るということはないものだ。昨日のことを順番に思い出してごらん。昨晩、君は私の部屋を出たあと、どうしていた?」
記憶を辿っていくと、そのときの情景がいままさに目の前にあるかのように感じられた。廊下のつめたさや夜の気配が肌で感じられるようだ。客室のまえまで来ると体が緊張する。扉を開き、視線をめぐらせ、再び祖父に会うのは心の底からぞっとするような体験だった。
「イエルクがいる?」
「はい。やっぱり、すごく似ています」
あの尖った目にもう一度見据えられると、クリフは息が詰まりそうになる。
「見た目は本人のものなんだね。だったら香りはどうだい?」
「香り……?」
ジェイネルに言われるがまま、そのことに思いを馳せる。
すると、新鮮な驚きがあった。
「何もしない……!」
祖父の身体から常にしていた煙草の灰のにおいがまったくしないのだ。
それどころか、その場にいた人物からは、およそ体臭というものがかけらも感じられなかった。コロンや香水、髪油や化粧のにおいもしない。
なんのにおいもない人間というのは、かえって不気味な印象を与えるものだ。
まぶたを開けると、微笑んでいるジェイネルの顔がみえた。
彼がかざしているステッキからは、柔らかな緑色の光が放たれている。
その光に当たっていると、不思議に心のとげとげした部分が落ち着いていくのがわかった。それは自然な心の働きというよりは、強制的な働きだった。怒りたくても怒れない、慌てたくても慌てられないのだ。
「これは私のレガリア。肉体ではなく人の精神に働きかける《心》のレガリアだ。君が心を落ち着け、記憶をよみがえらせるのを手伝ってもらったんだよ」
「なんだか危険そうなレガリアですね……」
「そうでもない。能力は特殊だが、出力はいまひとつでね。君が想像しているように、人の心を思い通りに操るほどの力はないんだよ」
「探偵騎士はみんな探偵のレガリアを使うのかと思っていました」
「探偵のレガリアは特別なレガリアなんだ。使えるのはラトしかいないよ。しかし、これでクリフ君の言い分はまんざら当て推量でもないことがわかった。その場に居合わせなかったことが悔やまれるね。泥棒であることには間違いないのだから、一応、憲兵隊には届け出ておこうか」
ジェイネルが執事を呼ぼうとすると、ラトがそれを止めた。
「その必要はありません、パパ卿。僕はすでにこの事件の犯人というものに目星がついています。おそらく、泥棒はいまごろ拠点に帰り着き、人心地ついている頃あいでしょう。探偵騎士たちに首尾を報告し、ご褒美をもらっているかもしれませんね」
「ラト、これが探偵騎士団のしわざだっていうのか?」
「その通りだよ、クリフ君。僕たちがカーネリアン邸を出発した日のことを覚えているかい? ——猫だよ。あのとき、黒猫に変身して屋敷に潜んでいた人物が、再び姿を変えて君の前に現れたんだ」
思い返してみると、それは三ヶ月も前のことで、ピンときたと表現するにはあまりにも鈍い記憶だった。マラカイト博士の事件や、二か月に渡る放浪の日々の思い出を頭の中心部分からどけると、ようやく思い出せるような事柄だった。
「そういえば、そんなやつもいたような気がするな」
「君は命を狙われていたんだよ? もっとしゃっきりしたまえ」
「命を狙われていたかどうかは、お前の推測に過ぎないだろう」
「推理だ! まったく、クリフ君はお気楽なんだから」
「なんだと!」
くだらない口喧嘩をする二人をみて、ジェイネルは目頭をハンカチで押さえていた。
「ラトにもお友達ができるなんて、パパはとってもうれしいよ。でもラト、私はこの館の主として使用人を守らなければならない立場にある。憲兵隊を呼ぶ必要がないというなら、その理由を説明してくれるかな」
「はい、パパ卿。おそらく泥棒は探偵騎士団が雇い入れた何者かでしょう。僕とクリフ君は迷宮街で一度だけ、その人物と対面しています。真の姿は見ていませんが、レガリアで姿を変えるところを見ました」
クリフは複雑な表情である。
「探偵騎士の仲間がなぜ、同僚であるペリドット侯爵家で盗みを働くんだ?」
「もちろん、それは僕らの目を欺くためだ。これは単なるこそ泥のしわざで、取るに足らない盗みだと誤認させるため。そして本当の目的を隠すためだ」
「本当の目的?」
「それはまだ僕にもはっきりと見えていないんだ。先に、泥棒の逃走経路の話をしよう。クリフ君は、犯人は窓から逃げたと言っていたけれど、それははっきりと目撃した事実なんだね」
そう改めて確認されると、クリフは頷けないものがあった。
「いや。じつは、窓から出ていったところを見ていないんだ。蹴り飛ばされた机を避けることに集中していて、一瞬だけ目を逸らしてしまっていたからな」
「ふむ。じゃ、君は窓の下を走り去る犯人を見たわけではないんだね」
「覗き込みはしたが、そのときには犯人の姿はなかったな」
「なるほどね。よかったね、君。犯人にその気があったなら、そのまま窓の下に突き落とされていたかもしれないよ」
「えっ?」
クリフが思わず声を上げる。そのそばで、ジェイネルも深く頷いている。
ラトは説明を続ける。
「つまり、こういうことだよ。犯人は窓を開けてみせただけで、そこから外に出たというのは、単なる君の思い込みだということだ。もしも庭に降りたとしても、タウンハウスの構造上、そこから外に出ることは難しい。この屋敷の使用人たちは特殊な訓練を受けていて、こそ泥をおいそれと逃がしてくれるほど優しくはないからだ」
「じゃあ、犯人は窓から逃げたと見せかけておいて、室内に留まっていたということか? いったいどうやって」
絢爛豪華な侯爵家のタウンハウスとはいえ、客室に隠れられるところはそう多くはない。せいぜいがクローゼットの中か寝台の下くらいのものだろう。
「だから、犯人はレガリアの力を使って姿を変えたんだよ。おそらく犯人の持つレガリアの変装能力は僕のものよりも数段上だ。その力は、持ち主を命なき物体にも変化させ得る。犯人は部屋の中にある物に変化して、室内に留まり、逃走のチャンスをはかっていたんだよ」
「いくらレガリアの力といったって、そんなことができるのか?」
「不思議かい? でも、むしろ猫に姿を変えられるなら、ほかにどんなものでも変装できると思うのが自然だと思うね」
「そうかもしれないが……。だが、物に変化したって足がついているわけでなし、自分で逃げ出すこともできないんだぞ。それに、室内にあったものの数は屋敷のメイドたちが針一本にいたるまで完璧に管理している。すぐにバレてしまうじゃないか」
「そうだ。だから、その人物は、数えられないものであり、かつ、自然と屋敷の外に出ることのできる物体に化ける必要があった」
「そんな都合のいいものがあるわけ……いや……」
頭ごなしに否定しようとしたクリフの言葉は尻すぼみになっていく。
「かんがえてみれば、確かに……」
あの状況下で、ただ一つだけ、それだけは誰からも見とがめられず、数を数えられることもなく、屋敷の外に排出されたであろうものがあった。
「そう。割れた花瓶の、ガラスのかけらだ。探偵騎士のメイドたちであっても、何ら気に留めることなく、現場から排除されたものはそれしかないんだ」
昨晩、犯人はメイドや使用人たちと交戦する危険を避けて、ガラスの破片に姿を変えた。犯人は後片付けの最中も現場を調べるラトやクリフたちと共にいたのだ。
メイドたちはそれが犯人であるとは露とも思わず、指を切る危険性から客や主人を遠ざけてほうきで掃きとり、捨てたのである。
犯人は、こうして誰にも見とがめられることなく悠々とタウンハウスを去ったのだ。
すべての推理を聞き終わると、ジェイネルはラトにゆったりとした拍手を送った。
「お見事。推理の腕はなまっていないね」
「パパ卿、この件も探偵騎士団の挑戦と受け取ってもよろしいでしょうか」
「いや、残念ながら、私の縄張りに盗みが入るという報せは誰からも受けていない。この件は探偵騎士団の意図しないものか……それか、私は君たちの味方になると判断し、意図的に外されたのかもしれない。それよりもラト、泥棒が屋敷に留まっていると知りながら、わざと逃がした理由を聞いておこうか」
確かに犯人がガラスの破片に変身したと気がついていたなら、そのときにガラスの破片を確保しておけば、犯人を捕まえられたかもしれないのだ。
「それはもちろん、犯人みずからに真相を語ってもらうためです。犯人がガラスのかけらに変装しているということも、探偵騎士団の差し金であるというのも、推測であり証拠がありません。ですから、僕のレガリアの新しい能力を使って、それを証明しようと思うのです」
ラトはそう言って自分のステッキをみせ、胸を張ってみせた。
「新しい鉱石スキルがまた出たのか?」
「そう! 数々の試練を経て、君がびっくりするような新しいスキルが誕生したんだ。迷宮街に戻ったら、敏腕氏に名付けてもらわないとね。今日のところは追跡者とだけ呼んでおこう」
そう言って、ラトがスキルの力を解放する。
すると、ステッキの持ち手の部分が変形した。
風船のように丸く膨れ、小鳥の姿になって分裂する。
「これはね。現場から持ち去られた物がどこに行ったか、探し出してくれる便利な鉱石スキルなんだ」
「おお、まさに今の状況にぴったりじゃないか」
そう言ってクリフが珍しく褒めると、ラトは鼻高々で、うれしげである。
おそらく、前のスキルが発動したときにクリフが「役に立たなそう」と言ったことを気にしていたのだろう。
「さあ、僕の追跡者よ。クリフ君の客室から持ち去られた花瓶のかけらを置いたまえ!」
ラトに命じられた小さな鳥は、金色の翼を広げて宙に浮かび上がる。
そして、思いがけない素早さで窓ガラスを突き破って王都の空へと飛んで行ってしまった。
翼がかすめたクリフの頬には一筋の傷ができていた。
元はといえばラトのステッキの柄に使われた金属であるので、重量や鋭さもなかなかのものがある。
「あ…………危ないじゃないか!」
食卓には割れた窓ガラスが舞い散り、無惨な様相である。
しかも、飛び去った小鳥はもうどこに行ったかわからない。
なにもない平原とかならともかく、背の高い建物が林立する王都では、小鳥の姿を肉眼で追いかけるのは難易度が高い。それこそ、あらかじめ竜人公爵に空から見守ってもらう、とかでもなければ難しいだろう。
「あれぇ……? こんなはずじゃなかったのに……」
パパ卿の前で、せっかく手柄を自慢できると思っていたラトはしょんぼりとして肩を落としていた。
そのときだった。
タウンハウスの前に黒い馬車が停まった。
馬車にはオブシディアン家の家紋が掲げられている。
応対に出たメイドに対し、御者は赤い封筒を手渡した。
手紙はラト・クリスタルとクリフ・アンダリュサイトに当てられたものだった。
『探偵の館に参上せよ』
内容は簡潔なものであった。
手紙はメイドが携えた銀のトレイに載せられ、運ばれる途中であったが、どのようなことが書かれているかはクリフでさえ見当がついた。
迎えの馬車を見下ろしながら、クリフはラトに話しかける。
「行きたくないなら行かなくてもいいんだぞ」
「どうして? 君はこの一連の面倒事をとっとと終わらせて、迷宮街に帰りたいんじゃなかったの?」
ラトは昨晩、クリフがなぜジェイネルの部屋を訪ねたかなど何も知らぬ顔つきで、不思議そうに首を傾げている。
クリフは、ラトが王都に来るまで二か月もの間あちこち遠回りをしたのは、探偵騎士団と対峙するのが嫌だったからではないのかと訊ねたいのをがまんして「そうだな」とだけ答えた。




