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名探偵ラト・クリスタルの追放  作者: 実里晶
クリフ・アキシナイトに正義はあるか?
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第58話 対話


 ペリドット侯爵が帰還したのは翌日の早朝、まだ夜明け前のことであった。

 公爵家の執事は(ひか)えめなノックでクリフを起こすと「ずいぶん非常識な時間ではあるものの」と前置きしたうえで、侯爵がクリフを呼んでいると伝えた。

 その申し出は、クリフをいささか戸惑わせた。

 たしかにクリフは前もってパパ卿と二人で話したいとその(むね)を申し入れていた。

 しかしそれは太陽がのぼった後でも十分な話だと考えるのが、いわゆる常識というものの範疇(はんちゅう)だろう。

 そう伝えると、執事は何とも言えない渋い表情となった。

 どうやら探偵騎士はかなりの多忙を極める職業であるらしい。


「申し訳ございませんが、旦那様は短い睡眠(すいみん)のあとにも何が待ち受けているかわかない身分でございます。じっくりと話したいなら今すぐがふさわしいでしょう」


 控えめな口調でそう言われると、クリフは断ることもできずに最低限の身支度(みじたく)だけをしてパパ卿の書斎(しょさい)へと向かうことになった。

 ぼんやりとして眠たい目をこすりながら立派な書斎に足を踏み入れたクリフは、正直に言うとこの対面で何を言うべきかを夢の中に置いてきてしまっていた。

 なにしろマラカイト博士の実験で眠れない夜と緊張の続く昼間が何日か続いた後だった。あの愉快(ゆかい)とは言い難い出来事の連続を乗り越えた後に残されていたのは、深い疲労だけであり、睡眠によってそれを払拭(ふっしょく)することは他の何よりも優先される事項に思えた。

 しかしパパ卿の書斎に踏み込んだ瞬間、クリフの全身をそっと(つつ)みこんでいた眠気はすっかりと取り払われてしまった。

 大量の本で()()くされたペリドット侯爵の個人的な執務室。

 そこではかなり異常な事態が起きていた。

 なんと面会を申し込んだパパ卿本人が、その部屋の真ん中で、頭の先からつま先まで血まみれになって倒れていたのだ。

 これは夢かと何度か(うたが)ったが、どうやら現実である。


「パパ卿……! じゃない、ペリドット卿!」


 クリフは床に仰向(あおむ)けに倒れたペリドット卿の元に()()った。

 かなりの出血だ。

 すぐに止血をしないとまずいことになる。

 傷を探そうとするクリフの手を、普段は()みひとつない手の平が弱々しい力で(つか)んだ。


「クリフくん……」

「ぺリドット卿、いったい何があったんだ!?」

「僕はもう駄目だ……。でもラトは呼ばなくていい。あの子に父親が死ぬところをみせたくない」


 パパ卿はそう言って、弱々しく微笑(ほほえ)んで見せた。


「しっかりしろ、弱気になるんじゃない」

「ラトに愛していると伝えてくれ。それから……君には最後にひとつお願いがある。正式にラトの助手になってほしいんだ」

「こんなときにするお話じゃないだろう!」

「いや、こんなときだからこそだ。私たち探偵騎士にとっては大切なことなんだ。探偵騎士はかならず助手を選び、二人一組で行動しなければいけないんだよ」

「……なぜだ?」

「それは私にも分からないけれど、そういう決まりなんだ。そしてどう考えてもラトの助手になれるのは君だけだ。やってくれるね、クリフくん……」


 クリフの腕の中で、ペリドット卿の脈はどんどん弱々しいものになっていく。

 表情は蒼白(そうはく)で、いまにも呼吸が止まりそうだ。

 何が起きたかはわからないが、ペリドット卿が最期(さいご)の頼みをクリフに託そうとしていることだけは理解できた。

 ラトの相棒になるなんてとんでもないことだ。

 しかしパパ卿の頼みとなると断りにくい。

 キルフェとラトの婚姻(こんいん)は破談となったとはいえ、パパ卿はラトと違って真っ当で善人だ。良い父親であるという要素も断りにくさに拍車(はくしゃ)をかけている。

 クリフは一も二もなく(うなず)きかけて、しかしすんでのところで思いとどまった。

 なかば「はい」と答えかけていたのに、急に自分が冷静になっていくのを感じた。

 それから、どこからともなく声が聞こえてきた。

 まるで死神のような、低く、くぐもった声だ。


 なあクリフ、もっとよく見てみろ。まわりをだ。

 これはなんだ?

 こいつはお前に見せようとしているぞ。

 相手がわざわざ見せようとしているものを馬鹿正直に見るんじゃない。


 それは祖父イエルクの声であった。

 クリフがかねてからアンダリュサイト砦での因縁(いんねん)を、ハゲワシの血の(きずな)を断ち切りたいと言っていたのは、つまりこういうことだった。

 イエルクは四番目の孫であるクリフを厳しく養育した。

 厳しく、という言葉の意味内容には種々様々な要素があるだろうが、イエルクの場合は《再現性》を重視した。

 つまり――彼はどのような《教え》であっても、必要なその時になって思い出せなければ意味がないと考えていた。だから彼は、どのような訓練でもしっかりと体に馴染(なじ)むまで繰り返し、教えの全てを細部にわたって思い出せるようにと求めた。

 それがどれだけの肉体的な苦痛を生み、精神を(さいな)むかということは、イエルクの頭にはなかった。あるいは、知っていても無視をした。

 だからこんなとき、クリフはまず教えの内容そのものではなく、その周辺を思い出す。まるで今そこに誰かがいるように、足音が聞こえたり、煙草(たばこ)のにおいがする吐息(といき)を肩越しに吐きかけられたように感じるのだ。


 何かがおかしいと思わないか?


 それは今まさに耳元で(ささや)かれているかのように聞こえてくる。

 死んだはずのイエルクが生きているかのように感じられる。

 だからクリフはつい、声にしたがって自分の周囲に視線をやってしまう。

 気持ちの上では、一刻もはやく助けを呼びに行かないといけないと感じているのにだ。

 しかし冷静さを取り戻したクリフの目にはパパ卿が血まみれで倒れているという事実以上の風景がうつりこんでしまう。

 それははじめこそ言葉にはならなかったが、訓練を積み重ねた結果として、認識するよりもはやく口からすべりだした。


「こんなに血が流れているのに絨毯(じゅうたん)がきれいだ……」


 パパ卿の体についた血はほとんどが(かわ)いていて、絨毯には染みこんでいなかった。

 それに、部屋に並べられた調度品は整然としている。

 それはつまり、パパ卿がここでだれかに(おそ)われ、刺されたり切られたりの()問答(もんどう)をしたわけではないという事実を示していた。

 そうとわかるとクリフはすぐにパパ卿の体を抱き起こした。

 すると、クリフが脈を取っている側の腕の脇から、ゴム製のボールが転がり出した。

 それが何をするためのものなのか、想像するのは容易であった。

 どうやらパパ卿は、固いものを脇に(はさ)むことで、血管を圧迫して無理やり脈を止めていたようだ。

 もちろん本当に瀕死(ひんし)の状態なら、脈の喪失(そうしつ)を偽装する必要はない。

 そうなると出血自体が(うそ)だということになる。


「この血は血糊(ちのり)ですね、パパ卿……」


 クリフが(あき)れたように言うと、パパ卿はびっくりしたような表情を浮かべた。

 それから数秒開けて笑顔になり「ふふふ」と笑いだした。


「正解! 君が見抜いた通り、これは全部、血糊(ちのり)さ。ラトが言うには君は探偵にするには鈍感(どんかん)だとかなんとか言っていたけど、意外と(するど)いじゃないか!」


 そういってすんなりと立ち上がると、血まみれのコートを()ぎ去った。

 コートの下には、いつもの貴族然とした上着がある。


「これはいったい何ごとですか?」

「だましたみたいで悪かったね。ちょっとしたいたずら心ってやつさ」

「いたずらというには、手が込みすぎていると思います。驚きを通りこして、心臓が止まるかと思いました」

「そうかい? とはいえ君へのいたずらのためにこんなことをしたんじゃないよ。今日、探偵騎士として事件を解決するうえで、どうしても私が死体になる必要があったんだ。もちろん、死体の演技をしただけで本当に死ぬわけじゃないけどね。それでこの衣装のまま面会に来たら、クリフ君が驚くだろうと思ったのさ」


 これがラトだったなら、親子の間の阿吽(あうん)の呼吸か、はたまた同じ探偵どうしのひらめきで、たちまちのうちにパパ卿の言わんとするところを理解したことだろう。しかしクリフには、血糊まみれになることと事件解決がうまく結びつかない。


「事件の解決のために、どうしてペリドット卿が死体になる必要があるんですか?」

「それはね、これが私の十八番(おはこ)だからだよ。ほら、よく言うだろう、どんなに寡黙(かもく)な人でも墓場では饒舌(じょうぜつ)になるって」


 パパ卿は笑いながら、血まみれのインバネスコートをコートかけに掛けた。

 その際、部屋の奥のロールカーテンを開けた。

 カーテンの奥には隠された空間と書棚があった。書棚に並ぶ本のそのほとんどが戯曲(ぎきょく)と演技に関するものである。

 ほかにも、著名な劇作家の稀覯本(きこうぼん)()しげもなくずらりと陳列(ちんれつ)されていた。

 彼はデスク脇の飲み物を置いたテーブルからグラスをふたつ手にとり、高級な酒を()いで、片方をクリフに差し出した。

 グラスを受け取りながら、くしくも、死体になったペリドット卿を発見したその驚きのせいで、目はすっかり()めていた。


「人は死者の前に立つと感傷的な気分になるからね。そういう気分になると、人はなぜだか秘密を打ち明けたくなるんだよ。隠し子がいるとか、ほんとはお前のことは嫌いだったとか、好きだったとか、借金があるとか、うそをついたとか、とんでもない隠し事でも油断(ゆだん)してぺろりとしゃべってしまう」


 それは一般的にいって油断とかいう類のものではなく、懺悔(ざんげ)とか悔悟(かいご)と呼ばれる心の働きによるものだと思われたが、パパ卿がそう表現したということと、部屋中に置かれた演劇と演技の本、そしてパパ卿自身が血糊まみれであることを結びつけると、彼が今宵(こよい)、何をしでかしてきたかがおのずと明らかになった。


「まさかと思いますが、自分の死を偽装して、そして、そのことにショックを受けた人物からの自白を(さそ)ったってことですか?」

「そういうことだ。君はラトの助手だから、特別に教えてあげようね」

「助手じゃありません!」

「あれ? そうかい? 君はほとんど(うなず)きかけていたようにみえたけど」


 ジェイネルは若い令嬢相手にするように、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。

 彼の持ち物は、今やステッキ以外、血糊で使い物にならなくなっていた。

 上着に施された刺繍(ししゅう)の上にも、シャツの(えり)にも、赤い刺激的な染みが散らばっている。どれも安い品ではないだろうに、それだけ事件解決を急いでいたということだろうか。


「…………最初は、するどい観察眼以外は似てない親子だと思ったが、どうやら貴方がラトの父親で間違いなさそうだな」

「どうもありがとう。最高の()め言葉だよ。ちなみに、どういう点を見てそう思ったのかな?」

「ラトは……事件解決のために、ときどき嘘をつく。わざと相手の感情を()さぶって本心を(あぶ)り出す。そうした手法はすべてあなたから教わったものに違いない」

「いかにも。それは私がラトに教えた探偵術のひとつだね」

「ほかの探偵騎士もそういう卑怯な技を使うのか?」


 卑怯という単語を聞いても、ジェイネルはぴくりとも表情を変えなかった。

 わかりやすくて簡単なブラフに引っかからないのは、彼自身が同じ技を使いこなすからだろう。

 ジェイネルは穏やかな表情のまま瞳をきらりと輝かせた。


「お察しの通り、こういう(から)()を使うのは私だけだよ。ほかの探偵騎士のやり方はもっと論理に沿()ったものだ。他の探偵騎士たちからは邪道(じゃどう)だと言われている。だけど、この仕事は緊急を要することが多くってね。悪党相手であれば、方法を選ばないのがジェイネル流だ」

「息子に筆跡模写や声真似を教え込むことも、貴方流か?」

「そうした新しい手法を推理に用いる手腕を買われていると理解しているよ」

「なぜ俺がここに来たか、もうわかっているはずです」

「うん、少し話そうか。クリフ君は、私が自分の地位のために息子であるラトを利用したかどうか問い詰めにきた。そうだろ?」


 ジェイネルはクリフの言いたいことをピタリと言い当ててきた。


「そして、もしもそうでないなら、探偵騎士団に一言ある」

「その通りだ。俺が思うに、探偵騎士団はクソか、クソ野郎どもの集団が探偵騎士団だ」


 パパ卿は微笑みながらも、クリフの視線を逸らさなかった。

 初対面のときからわかっていたことだが、パパ卿はけして肉体的に強いわけではない。筋肉のつきかたや身ごなしは、どうみても戦士のそれとはちがう。

 彼の体はしなやかで、暴力を振るうよりも、繊細な感情を表現することに向いている。役者や俳優のような(おもむき)がある。

 しかしクリフがイエルクの孫と知っていても、その視線は揺るぎなく力強い。

 ナミル氏と対峙していたときのラトと似ているとクリフは思った。

 きっとジェイネルも、そうした数多の窮地を、その知恵と真実のみで戦い抜いてきたのだろう。その数はラトよりもずっと多いにちがいない。


「質問の一つ目に答えよう。私が私利私欲のためにラトを利用することは一切ない」

「俺がそれを信じられると思うか? 探偵騎士団は訓練と称して年端(としは)もいかない子どもを誘拐し、犯罪すれすれのテクニックを覚えさせ、そして何よりも師と(した)っていたマラカイト博士との縁まで切らせた。まともな人間のやることじゃないぞ」

「もっともだ。では、マラカイト博士の事件をラトは解いたのだね」

「ああ。リサが犯人であると博士のまえで明言した」

「なるほどね。それじゃあ君が探偵騎士団を嫌うのも無理からぬことだ」

「博士の事件については、もっと言いたいことがあるぞ。あんたたちは事件を知っていながら、三か月もの間、事件を傍観していた。救えたかもしれない人命があったかもしれないのにだ」

「まったく、その件については何の言い訳もしようもない。だが、それでもね、クリフ君。私がラトを利用して、探偵騎士団の地位を得るということはないんだ。そもそも探偵騎士の称号を得たとしても、名誉以外に得られるものはない」


 ジェイネルはそう言って手招きをする。

 執務机の横の壁に、小振りな肖像画がかけられていた。女性の絵である。

 黒髪に(りん)とした藍色の瞳をした美しい女性だった。


「紹介しよう、彼女はエメリーン・ペリドット。ペリドット侯爵家の女主人であり、探偵騎士ジェイネルの助手であり、私のただひとつの愛……彼女が若くしてこの世を旅立ったあとも、永遠にただひとつだけの愛だ」


 ジェイネルは机の縁に腰かけた。

 ペリドット侯爵家の女主人ということは、彼女は正式に婚姻をかわしたジェイネルの妻ということになるだろう。

 彼はペリドット夫人の姿を愛おしげに見上げていた。


「君も薄々わかっていることと思うが、探偵という仕事はなかなか大変だ。なにしろ相手はありとあらゆる犯罪者で、法の埒外(らちがい)にいる存在で、しかも大抵はその姿を巧妙に隠している。若い頃、私は彼らが恐ろしかった。彼らの持つ圧倒的な暴力がね……。でも彼女(エメリーン)はちがった。父親が憲兵隊の隊長だったこともあって、いつでも勝気で、悪を許さなかった」


 ジェイネルの語り口には、しみじみとした響きがあった。

 眼差しは遠く、過去を見つめている。その愛おしげで寂しそうなまなざしは、エメリーンがすでにこの世を去った人物であることを強調していた。


「どんなにやめろと説得しても、わざわざ男装までして私の後をついて来て、事件解決に力を貸してくれたよ。実際、私たちはいい二人組だった。私が犯人を追い詰め、勇敢な彼女が私を守る。あらゆる犯罪を解決に導き、探偵騎士としての名声は揺るぎなく、何もかも順調だった……とある凶悪な犯罪者が、彼女の命を奪うまでは」


 クリフに衝撃を与えたのは、事件が彼女の命を奪ったという点だけではなかった。

 いまなお鮮やかな心の痛みのためにうつむき、唇を嚙みしめたジェイネルから苦鳴のように漏らされた次の言葉が、ただ話を聞いているだけのクリフをも、十分すぎるほどに打ちのめしたのだ。


「そのとき、彼女のお腹のなかには私たちの子どもがいたんだ」


 クリフは言葉をうしなう。

 目の前にいるのは妻を失った男であるだけではない。

 父親なのだ。


「何もかもを失い、私は生にまつわるすべてを(あきら)めようとしていた。そのときだよ、アルタモント卿がまだ赤ん坊のラトを連れてきたのは……。その日からラトの成長は私の希望になった。赤ん坊だった彼が泣いたり笑ったりしているのみていたら、不思議と力が湧いてくる気がした」


 ラトが養子だったという事実には驚いたが、クリフの目からは、ジェイネルは本心を語っているようにみえた。


「だから、私がラトを利用するということは絶対にない。人は人を裏切り、うそをつくが、希望だけは裏切らない。私が助手を失ってなお、いまも探偵騎士として騎士団に残っているのは、あくまでもラトが選んだ道を支えるためだ。信じてもらえないかもしれないがラトに厳しい訓練を課したのはアルタモント卿の方針だ。私を含めた仲間たちの何人かはそのことに異議を唱えたが、団長は意見を変えなかった。すべての決定権は団長にあったんだ。言い訳にすぎないけれどね」

「いいえ、あなたを責めたのは俺のまちがいでした」


 クリフはそう言って、少しだけ頭を下げた。

 悲惨な事件で妻子を失った父親が、養子とはいえラトを裏切るとはとても思えない。普段の素振りからも、彼の愛情は確かなものだと思ったからだ。

 そんなクリフを見つめながらジェイネルは微笑んだ。

 それは優しく、思いやりと慈愛に満ちた表情で、クリフを戸惑わせるのに十分だった。クリフには、パパ卿からそのように(おもんぱか)られなければならない理由が思いつかなかったからだ。


「クリフ君。私はエメリーンの前ではうそをつかない。今言ったことはすべて本当のことだ。でも、これだけは覚えていてほしい。エメリーンも死者だよ」

「……え?」

「これは私から、ラトの助手になるかもしれない君への忠告だ。君がもしも探偵騎士団を敵視するとしたら、そして敵対するとしたら。もしかすると君は、これ以上に狡猾(こうかつ)に、そして悪辣(あくらつ)にならなければいけないのかもしれない」


 その忠告を、クリフは衝撃のむこうで聞いていた。

 クリフははじめ、ラトのためにここに来たのだった。

 マラカイト博士の事件を経て、ラトにとって、探偵騎士や、探偵騎士団とかかわることは良くないことだと感じたからだ。

 そして探偵騎士団のやり口というものを把握していながら……何よりもマラカイト博士の事件がどのような顛末(てんまつ)を迎えるのかを知っていながら、それを看過したパパ卿の考えというものを知るためにここに来た。

 だが、いまクリフは糾弾することすら忘れてしまっている。

 そのことに気がついたのだ。

 パパ卿は対話の終わりに、ひとつの、きわめて重大な教えを授けた。


 死者の前では人は感傷的になる。


 悲しみに満ちた過去が、苦しみが産む心の痛みが人から目的を見失わせて惑わす。悲痛を感じる心の働きはどこまでも正しいのに、人は選択を間違う。

 慈愛に満ちたそのまなざしが向けられているのは、ラトの友人でも助手でもない。クリフの未熟さだった。

 これが探偵騎士なのだとクリフは思った。騎士団にはジェイネルと同じくらいの力量を持つ探偵騎士があとどれだけいるのだろう。

 クリフはパパ卿の元を辞したが、心は晴れなかった。

 もやもやとしたわだかまりをいつまでも解くことができないまま自室に入ったからだろうか。

 自分のまぬけさに意気消沈して頭を垂れたクリフの耳に、暗闇の中から声がかかった。


「まさか、一度使って、すでに手の内が割れた技をもう一度使うなんて……」


 正確には、それはクリフに向けられた言葉なのかどうか、その時点では確信がなかった。だがそんなことはどうでもよいことだった。

 誰もいないはずの客室に人がいること、その事実に驚き対処をする前に全身がびくりと震えて硬直する。


「まさか舌の根も乾かぬうちに、死んだ妻子で気を引くなんて……そんなふうに考えているんじゃなかろうな。愚かしいことだ、あまりにも愚かしいぞ、クリフよ。結果だけがすべてなのだ。まさかと思うならばはじめから疑ってみよ」


 まるで死神のようにくぐもった声だった。

 月明かりに照らされた部屋の中には男がいた。

 その横顔は、あり得ないことだが、ハゲワシのイエルクそのものであった。

 赤錆色の髪と髭、心の弱いものならばひと睨みで倒れてしまいそうなほど鋭い眼光。アンダリュサイト砦の当主の部屋に掛けられた肖像画から抜け出してきたかのようなその痩躯(そうく)を背もたれにゆったりと預けている。

 クリフが見間違えるはずもない。

 すでにこの世を去った祖父の顔だ。

 その顔に向けて、クリフはすばやく隠し持っていた短剣を投擲(とうてき)した。

 短剣はハゲワシの姿形をした何者かが()り上げたテーブルの天板に突き刺さった。

 部屋の窓が開いたと思った次の瞬間には、侵入者の姿は消えていた。


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