第49話 行動と信頼
すべての幕引きが衆人環視の元で行われたこともあり、かつ裏社会とは関係のない冒険者たちが証人であったため、ゴッドフリーの身柄はナミル氏ではなく衛兵隊に引き渡された。
地下拳闘場に詰めかけた人々はもちろんあらかじめラトが呼びかけて集めた者たちだ。ナミル・デマントイドは陽気な友人ではない。あくまでも裏社会の顔役だ。ラトたちにも口封じに殺されないよう賢く立ち回る作戦が必要だった。
その後、ヴィクトリアス氏あらためゴッドフリーはデュマン殺しの罪を認めた。
大筋ではラトの推理の通りである。
ゴッドフリーは十五年前、兄に八百長を持ちかけた。そして不意打ちをしかけ、観衆の前で兄を殴り殺した。その後のゴッドフリーは知っての通りだ。
彼は拳闘士としては劣っていたが、仲間をまとめる才覚はあった。しかしひと月前に迷宮街に現れたデュマンはゴッドフリーの入れ替わりを知り、ナミル氏に真実を告げると言って脅した。ゴッドフリーはそれにがまんがならず、デュマンを殺害することを決意した。
ヴィクトリアスを庇おうとしたブルーノは入れ替わりを知る唯一の人物だ。彼は一時期、故障で身動きが取れなくなったところをゴッドフリーに救われており、彼の方針の賛同者でもあった。
もちろん真実を知ったナミル氏は怒り狂っていた。
が、しかし拳闘士たちを皆殺しにすることはしなかった。
目撃者が多数いるため、したくてもできなかったのか、それとも別の考えがあるのかは店の営業再開を待たねばわからない。
ほとぼりというものが冷めるまでクリフとラトはカーネリアン邸に共に籠って過ごした。ある夜クリフが中庭で冷たい夜風を浴びていると、ラトがやって来てベンチに腰掛けた。
そして酒のボトルと葉巻を置いた。
どちらも申し分なく高級なものだ。
「ナミル氏は僕達を殺すつもりはないらしい。部下がこれを送り届けて来た。報酬ももらえるだろう。贈り物のどちらもに毒が混入されていなければね」
「拳闘士たちはどうなるんだろうな」
「ナミル氏には営業は続けるべきだと進言しておいた。真実の殴り合いではないが、興行としては価値のあるものだと言って。それを聞いた彼がどうするかまでは僕の関与すべきことではない」
ラトは酒の封を切り、二つのグラスに注いだ。
「野良犬にでもくれてやれ」
「犬にはきかないが人間にきく毒というものも考えられる。あるいは酒と煙草を併用した場合に毒性が発現するタイプかもしれない。どうしても真実が知りたければ、迷宮内部で飲んで確かめてみるというのが有効な手段だね」
「捨てろ」
「まあ――形だけでも、あの場から生きて帰れた無事を祝おうじゃないか。僕の素晴らしい作戦のおかげだ」
「ああ、お前の無茶苦茶な作戦が通じてよかったよ。しかしお前のおかげじゃない、ゴッドフリーが敏腕氏にビビってくれたおかげだ」
「さて、ゴッドフリーが敏腕氏に恐れをなしたかどうかは判定不能だ。仮に恐怖を抱かなかったとしてもゴッドフリーは戦えなかっただろうから」
「……どういうことだ?」
クリフは首を傾げた。ゴッドフリーは兄に劣っていたが、それでも一応は拳闘士なのだ。兄を殺してみせた気迫をみせれば、一矢報いることはできたかもしれない。
「それはね、クリフ君。彼は服を脱げなかったと思うからだ」
「服を……?」
そう言ってからクリフは思い出した。
寮を訪ねていったとき、ラトはゴッドフリーに「ガウンを脱いでほしい」と頼んでいた。その後すぐにブルーノがやってきてうやむやになってしまったのだが、あれは単なる思い付きや気まぐれではなかったのだ。
「デュマンが拳闘士たちに虐待を受けていたという証言をした酒屋がいただろう」
「ああ、確かに……」
「あれは逆ではなかったかと思うんだ。おそらく虐待を受けていたのはゴッドフリーだ。殴られていたのは彼のほうだったんだよ。顔は覆面で隠せるが、体は無理だ。デュマンの場合、拳は使えないから、酒瓶や手近な道具を使っただろう。殴打によってできた傷や痣と、道具によってできる体罰の痕跡はまったくの別物だ。観客にだって判別がつく……」
「しかし、そんなことがあり得るか? いくら拳闘に弱いとはいえデュマンよりは圧倒的に強いんだぞ」
「彼は困難に立ち向かうとき、辛抱強く耐え抜くタイプだ。攻撃より防御を選ぶ慎重な男だ。気軽には反抗できない性格だし、それに力が強くて体が大きい者ほど暴力を受けたことを恥だと思うものだ」
ラトが敏腕氏とゴッドフリーを戦わせようとしたのは彼がヴィクトリアスと同じ強さを持っていないことの証明と、そして人前で衣服を脱ぐことができるか試す意味合いがあったようだ。
もちろんゴッドフリーが虐待を受けていたかどうかの確証はない。
しかしラトはその可能性に賭け、勝利したのだ。
「可能性は高かった。何よりゴッドフリーからは罪悪感というものが感じられなかった。それは殺人を『当然の行い』だと感じているからだ。デュマンは脅迫者であり、暴力を使って彼を支配しようとした悪人だった。だから殺されるのは当然だと思っていたんだ」
その推理は、クリフにとっては不愉快なものだった。
クリフはあるときまでヴィクトリアス氏のことを信じていた。
彼が弟の死を目撃し、変わったことを。
自らの非を認め、善人になったのだと。
しかし現実は違った。
ゴッドフリーは実の兄を卑怯な方法で殺害したが、罪悪感を抱かず、罪を悔い改めることもなかった。ほかの拳闘士たちに善行を施しはしたが、しかしそこには殺人とその隠匿という悪意が潜んでいた。
「君は少し落ち込んでいるだろうね」
ラトは言った。心の内を読まれ、クリフは少しむっとしたが、しかし口にはしなかった。それよりも素直な質問を投げかけた。
「お前は言ったな、人は変われないと」
「変化するのは難しいと言う意味だよ、クリフ君」
「悪人はいつまでも悪人のままか? 心に巣くった卑しい感情や、身についた暴力は、永遠に取り払うことができないのか?」
「僕は探偵として、さまざまな犯罪者を目の当たりにしてきた。君と出会う前から……。おそらく人の死に力はない。死者は生者の進む道を変えることはできない。苦痛と苦悩は人の善性を堕落させるだけだ。悲劇と困難が生み出すものは往々にして悪であると思う」
「お前らしい意見だ」
「しかし……僕は……人の心とは、そして善とは、行動に現れるものだと思う。君はナミル氏から僕を庇おうとした。いかなる強大な敵が立ちはだかったときでも逃げることはなかった。行動だ、クリフ君。君がこれまでどのように生き、何を選択したかとは全く関係ない。そして心の中で何を考えているかも。これからの行動が君自身を作り上げる。正しい道を行け、クリフ・アキシナイト」
「正しい道とはなんだ」
「君が決めるんだ。行動だよ、クリフ君」
ラトはそう言ってグラスを掲げた。
空は明けかけており、東の空が金色に輝きはじめていた。
朝日がグラスに反射し琥珀色の酒をきらめかせる。
クリフは自分の分のグラスを持ち上げた。
二つのグラスが軽く重なり響いて音になる。
朝日が十分に昇った後で、朝露を浴びた薔薇のつぼみの間からカーネリアン夫人が現れた。
クリフは貴婦人を迎えるために立ち上がり、ラトも同じようにした。
早朝ではあるがカーネリアン夫人はモーリスを伴っており、ドレスをまとい女主人の正装をしていた。
「クリフさん、お話があります。クリフ・アキシナイト――いいえ、クリフ・アンダリュサイト」
クリフは全身が強張るのを感じた。
「その名前をどこで……?」
「竜人公爵です」
その返答を聞き、クリフは誰も責められないことを悟った。
人の口に戸は立てられても、竜の口が何を吐くかは誰にも決められない。
炎でなかっただけましだと思うほかない。
「迷宮街での決闘騒ぎを聞いて、私のほうでも方々に使者を送り、あなたの素性を確かめました。そしてアンダリュサイト卿イエルクの息子、オスヴィンの第四子で間違いないという確信を持ちました」
クリフは無言であった。カーネリアン夫人がそこまで調べを進めていたとは思わなかったが、クリフは屋敷の客分でしかなく、今すぐ出ていけと言われてもただうなずくことしかできない身分だ。
しかしカーネリアン夫人が現れたのはクリフを追い出すためではなかった。
彼女は何かしらの覚悟を秘めた瞳で、確かめるようにクリフを見つめた。
「あなたの才能と力を見込んで、お願いがあります」
カーネリアン夫人はクリフとラトを連れて馬車を走らせた。
向かったのは、ギルド街に近い一角にある邸宅である。
その玄関には最近だいぶ見慣れてきた人物が待ち構えていた。
銀縁眼鏡をかけた青年。敏腕氏である。
「何故ここに……? 暗殺か?」
「今の私は一介のギルド職員です。カーネリアン夫人のご要望で参じました」
敏腕氏はそう言って懐から邸宅の鍵を取り出した。
玄関を開けると、広々としたホールが姿を現す。長らく窓を開けられていなかったようで少し埃っぽい。
案内されるまま正面の階段を上がる。
カーネリアン夫人はその先にある硝子の扉を開いた。
そこでクリフたちを待ち構えていたものたちがいた。
それは物体でありながら、持ち主を呼んでいた。微かな奇跡の輝きを秘めながら。
部屋には、数々の武具が並んでいた。剣や杖、槌や槍、最奥には鎧が並んで、紫のレガリアを嵌めた長剣が静かに立てかけられていた。
「ここは……」
カーネリアン夫人は鎧の前に立ち、頷いた。
「ここは、我が息子エストレイ・カーネリアンが仲間たちと共に築いた彼の城。クラン銀狐のクランハウスです。クリフさん、お願いがあります。ここに保管された武具とレガリアを含めた息子のすべて、それを貴方に相続して頂きたいのです」
クリフは圧倒されていた。
エストレイ・カーネリアンはクランメンバーであったガルシアの裏切りに遭い、亡くなった。その仲間たちもエストレイ殺害に関わっているとされ、クランは崩壊した。彼らが築き上げたすべての冒険の歴史はいずれ売却され、消え去る運命のはずだったのだ。
「…………どうして」
クリフはただそれだけしか返せなかった。
「ここにある息子の資産を処分すれば、彼が生きた理由も消えてしまうでしょう。しかしあなたが現れた。あなたにはこれらを受け継ぐ資格があると気がついたのです」
カーネリアン夫人はそう言って、腰帯を取り出した。竜人公爵の領地で暗殺者に襲われたとき、命を救ってくれたエストレイの持ち物だった。
「俺がイエルクの孫だからですか? そのことに期待をなさっているのなら、見込み違いです。あいつは悪人だ。懸命な判断とは思えません」
「いいえ、クリフさん。わたくしは資格があると申し上げたまでです。アンダリュサイト卿の孫であれば、それに応じた教育を受けているでしょう。才能も十分おありのはず。その上で、あなたがエストレイの名を受け継ぐに相応しい者になれるかどうかは、それは未知数です」
はじめ、クリフは自分が何を言われているのかわからなかった。
イエルクの孫だと知られれば罵られ、追い出されるものだと思っていた。
だが夫人がクリフに向けている視線は侮蔑ではない。
ラトはそっとクリフの隣に並んだ。
「行動だよ、クリフ君」
自分が何者になるかは、行動のみが決定する。
何が正しい道であるかは、自分で決めるしかない。
心のうちに何がひそんでいるとしても……。
その影が何ものであっても。
カーネリアン夫人は選択肢のひとつを提示していた。
そこにあるのは思いがけない未来だ。
クリフは差し出された帯を見つめ、可能性に向けて手を伸ばした。
《地下拳闘場の秘め事 おわり》




