第48話 正真正銘の戦い
部屋中が殺気立っていた。
ナミル氏は額に青筋を立てて貧乏ゆすりが止まらない。
不用意な発言をしようものなら一瞬で首の骨を折られそうな雰囲気である。
「ヴィクトリアス氏にはいろいろと聞きたいことがありますが、まずは八百長の件です。客たちはもうずいぶん前から、隠された台本のその先を読んで賭けに興じていたんですよ」
「俺の拳闘場で……八百長が公然と行われていただと……？」
「まあ八百長なしの拳闘よりも台本ありのほうが良い面もあるでしょう。客はストーリーを求める。たとえば万年最下位の選手が突然、格上の選手をぶちのめしたほうが場は盛り上がる。しかし現実にはそんなことは起こり得ない。客たちは暴力ではなく演技を楽しんでいたんですよ。しかし、貴方のところへ上がっていく報告は『ヴィクトリアス氏が試合をした』という人伝の情報だけ。ですから……デュマンが殺された夜も、ヴィクトリアス氏にはアリバイがあると思い込んでしまったのです。
ヴィクトリアス氏は今回の犯行を行う上で、初めから客全員を騙す必要なんてなかったのです。騙す必要があるとしたら、たった二人だけです。すなわち、店の主たるナミル・デマントイド氏、あなたと支配人のブラントン氏。その二名で十分なのです。そしてあなた方は、今回の不正を行う上でずいぶん都合のいい行動を取っておられたようですね」
それはつまり、ナミル氏が拳闘場に来ていなかったという事実だ。
クリフもラトも、拳闘好きのナミル氏は当然その場にいて、犯行時、ヴィクトリアス・フェニックスを目にしたのだと信じていた。
だが、違った。
あまりにも単純な誤解であった。
「おまけに拳闘場の客たちが見ていた試合と、あなた方に知らされた試合の結果は、まったくの別物であるかもしれないなどと考えたこともなかった。そしてナミル氏に招聘された僕とクリフ君は、ある時点まで、常識的に考えてヴィクトリアス氏が試合に出たのはナミル氏も確認した事実であると誤認したままでした。これは名探偵にとってはあってはならない誤認でしょう。慎んでお詫び申し上げます」
ラトはぺこりと頭を下げたが、それを謝罪だと認識している者はこの場にはひとりもいなかった。誰もが求めている。この名探偵が何を言いだすのかを。
「さて、そうなると真実は明快なものでした。ヴィクトリアス氏は試合には出ず、別の人物に覆面だけを渡し代理に仕立て、その間にデュマンを殴打し酒のボトルで殴りつけて命を奪った……それだけです。殴打した後、デュマンを拘束したのは、試合の時刻に死亡時刻を合わせるためでしょう。そしてデュマンは死んだ。ただそれだけのことです」
そしてそれだけのことを、客たちは自らの楽しみのために語らなかった。
誰にも秘密にしていた。公然の秘密だ。
しかも、それが秘密だとも知らないままだった。
「そんなことはどうだっていいんだ！ この俺の店で、八百長をしたっていうのか！ 俺の拳闘士が！」
ナミル氏は激高し、蒸留酒の入ったグラスをラトめがけて投げつけた。
グラスとその中身は、クリフが広げたマントの表面に飛び散り、床に落ちて砕け散る。マントの下で、クリフは剣の柄に手をかけていた。
「クリフ君、ありがとう。でも依頼を受けた以上、最後まで話を聞いてもらいたい」
「この先は本当に助けられないかもしれないぞ」
クリフは言った。全員が激高したナミル氏の行動に気を取られ、クリフの存在を視界から外した一瞬、それが最後のチャンスだった。——ナミル氏を人質に取って、脱出する。それだけがクリフが出せる助け舟だった。
しかし、ラトはその小舟に乗らないと最初から決めていた。
全員の殺気を全身に浴びながら、ラトは滔々と話し続ける。
「八百長を認めますか？ ヴィクトリアス氏。この時点で何か反論があるなら聞いておきましょう」
この場でラトと同じくもっとも危うい立場に立たされている男——ヴィクトリアス氏は青白い顔をしていたが、逃げられないことは十分理解し覚悟もしていたようだ。
「八百長のことは認めよう。確かにそうだ」
彼はハッキリした声音で言い、頷いてみせた。
ブルーノが何かを言いかけたが、ヴィクトリアス氏は言葉を遮り、反論させなかった。
「俺が仕組んだことだ。拳闘士たちが毎年のように体を壊し、ぼろきれのように捨てられていく様を見ていられなくなったからやったことだ。だが、デュマンを殺してはいない。俺がどうして自分の付き人を殺さなくちゃならないんだ」
「事件の全貌を解き明かすために、十五年前の話をしましょう。弟殺しの件です」
拳闘士たちの目つきはますます剣呑になっていく。ナミル氏もそうだ。
落とし前をつけた過去の事件を掘り返したからには、もう逃れられないという雰囲気だった。
「当時、ゴッドフリーは落ち目だった。というか、落ちる以前に高く飛ぶことすらなかった。実の兄からも店からも軽んじられ、いずれは拳闘の世界からも街からも消え去らねばならない運命にありました。そのあたりの事情は、覆面兄弟の知己であるエイブリルから聞いたので確かだと思われます」
エイブリルの名を出すと、ヴィクトリアス氏は少しだけ身じろぎをした。
「そこで彼が大人しく暴力の世界から去っていれば、今回の事件は起きなかった。けれどゴッドフリーは一計を案じました。起死回生の一手を打つことにしたのです。彼は試合中に兄を殺し、自分自身が兄になり替わる計画を立てたのです。ゴッドフリーはヴィクトリアスに自分の覆面を渡し、試合には赤い覆面をつけて出ました。この成り代わりは十分可能です。二人は双子で、練習場の絵が十分写実的なものであれば、見た目は大して変わりません。後はヴィクトリアスを試合中の事故に見せかけて殺してしまえば、証拠は何もかもナミル氏や裏社会が揉み消してくれる。ヴィクトリアスはゴッドフリーとして死に、自分自身はヴィクトリアスとして生きていけばいいだけです。問題があるとすれば、ここから」
ラトは黙りこくっているヴィクトリアスに向かい合った。
「ご存知の通り……ヴィクトリアス氏、いえ……ゴッドフリー氏に拳闘の才能はない。見てくれは兄にそっくりで強そうではあるが、いざ戦いになればてんでダメだ。成り代わったとしても、一番人気の拳闘士の座を守り切ることはどう考えても不可能でした。そこで彼は一計を案じた。彼はほかの拳闘士たちを懐柔することにしたのです。私財を投じて練習場を作り、報酬を公平に分配する。故障して、本来なら切り捨てられるはずだった拳闘士たちの面倒を手厚く見てやり、その見返りとして八百長を提案したのです。常勝不敗のヴィクトリアス・フェニックス……何度でも蘇る不死鳥を全員で演出することによって、全員がその恩恵を受けることができる。支配人とナミル氏が気がつかぬよう、激しい戦いを演出する必要はあった。そのための練習場でもあったでしょう。こうして十五年の月日が流れていった」
ラトは言葉を切った。そして全員の注目を浴びながら、真実を引き寄せていく。
「デュマンは氏の……いや覆面兄弟の知人です。それも古くからの、同郷の人物でしょう。彼は貴方がこの拳闘場で何をしているのかを知り、あなたを脅迫したものと考えます。つまり、デュマンは貴方がヴィクトリアスではなく、ゴッドフリーであることを知っていたのです」
「馬鹿げた話だ。八百長までは認めるが、成り代わりなんぞ馬鹿馬鹿しい話だ。俺はヴィクトリアスだ」
氏はそう言って、はっきりとした敵対の目をラトに向けた。
「それに仮にお前の言うことが真実だったとして、しかしそこには大きな矛盾がある。ゴッドフリーは万年最下位の選手だった。それほどまでに弱い男に、ヴィクトリアスは殺せない。ましてや、試合中という衆人環視のもとだ。覆面を交換したといったが、それも無理がある。自分のものではない覆面を身につけるはずがないからだ。さらに言えば、俺達は双子だ……デュマンがお前の言う通り、俺達の同郷人だったとしても数十年ぶりに会った兄弟のちがいを見抜けるわけがない」
ヴィクトリアスの反論は的確であった。八百長は認めたとしても、十五年前の事故、そしてデュマンの殺害については疑問点がいくつもある。
しかしここで引き下がるわけにはいかない。
今やナミル氏は凄まじい形相でヴィクトリアスを睨みつけている。
これもまた獲物を吟味する虎の目つきだった。
「その通りです。あなたは賢い方だ、ゴッドフリー。しかしあなたの言った疑問点、その全ての事象がひとつの事実を導いています。僕はデュマンは貴方と同郷の人物だと言った。でもこれは正確な表現ではありません。おそらく、デュマンは血の繋がった親類縁者だ。母親か父親が同じ、これが確率的に怪しいでしょう」
ラトは続ける。ラトは断崖にかけられた細い橋を、言葉だけで渡ろうとしていた。
あるいは、言葉という剣を戦わせていた。
少しでも気を抜いたら、命を失ってしまうだろう極限の状況でだ。
「ヴィクトリアスが自分のものではない別の覆面を受け取った理由を、僕はこう考えます。彼には先天性の色覚異常があったはずだと。彼は生まれつき、赤色と青色の区別がつかなかったのですよ。そしてこの異常は、確率によって遺伝する。デュマンも同じ病を抱えていたのです。貴方たちの出身地は高山地帯にあり、茶葉を育てることで収入を得ていたが、非常に貧しかったはず。デュマンには栄養失調の兆候がみられました。そういう地域では、血が濃くなり遺伝病の発現率が上がる。そう……デュマンも同じ障害を抱えていたのですよ。だからデュマンには貴方がゴッドフリーだと気がついた」
「ゴッドフリーが兄に勝てたことの説明にはならないぞ」
「それは簡単です。それこそ八百長を持ちかければいい。ゴッドフリーは最下位の拳闘士で、兄と戦って勝てば大番狂わせになる。ゴッドフリーに賭けていれば、大金が手に入るでしょう。金の力で釣ればいいのです、ただ一度きりの八百長で大金が手に入れば無用の弟は故郷に去り、厄介払いできるのだから……と。そして互いの覆面を交換した。ヴィクトリアスは油断しきっている。あらかじめ決めた段取り通りの攻撃が来ると思っている。覆面の取り換えにも気がつかず、試合にはわざと負けるつもりで、弟が兄を本気で殺すための一撃を狙っているとは思いもしない」
「証拠はあるのか！？ 証拠がなければ、すべてはお前の妄想だ」
「証拠……それが問題です。色覚異常のこと、デュマンのことは、エイブリルにもっと詳しく聞けば済むでしょう」
エイブリルの名前を聞いても、ヴィクトリアス氏は余裕の表情であった。
まるで何も知らない新人拳闘士を相手にするように「ああそうだな」とのたまった。その態度からクリフは嫌な想像を働かせた。もしかすると……エイブリルは色覚異常のことまでは知らないのかもしれない。デュマンの存在は知っていても、色覚異常であったことを証言できなければ、ラトの推理は証拠のない妄想だ。
クリフは緊張しながら眉間に深い皺を寄せた。
「ラト、決め手に欠けるぞ」
ラトは何故か微笑んで、腕を組んで眉間を叩いていた。
それから、わざとらしく良く通る声で、とんでもないことを言いだした。
「うーん、困ったね。実はその通りなんだよ、クリフ君。十五年前の事件は全て裏社会の闇の奥に揉み消されてしまった。それにデュマン氏の殺害についてだって、ブルーノをはじめとする拳闘士たちは真相に気がついているだろうに、ヴィクトリアス氏を守るためなら誰もが口を噤んで証言しないに違いない」
拳闘士たちは殺気立った目つきでラトとクリフを取り囲んでいる。
剣は拳より強いが、全員を一瞬で切り殺せるほどではない。
証拠が無ければナミル氏もラトに味方することはないだろう。
彼も所詮は裏社会の人間だ。
しかしラトは穏やかだった。
「そこで僕はナミル氏に、今夜、素晴らしいタイトルマッチを提案します」
「タイトル……マッチ……？」
クリフはうめき声を上げた。
「ナミル氏も八百長の話ばかり聞かされて、がっかりなさったでしょう。口直しはいかがですか？ あなたのお望み通り、拳と拳の、正真正銘の戦いをお目にかけます。数十年ぶりに、本当の闘いを御覧になってください」
「何を考えているかは知らねえが、話だけは聞いてやろう」
ナミル氏はしばらく思案した後、この提案に乗ることを決めた。
＊
ラトはナミル氏と拳闘士たちを引き連れて地下拳闘場に向かった。
拳闘士たちはどちらかというとラトが逃げ出さないよう見張っていたというのが正しいが、営業していないはずの店に入ると驚いて目を瞬かせていた。
店は煌々と明かりがつき満員御礼であった。
どこから現れたのか老若男女がリングの周りを取り巻き、「はやくしろ」と罵声を浴びせている。
それらの客の大半がギルド街で見かけたことのある冒険者であることにクリフはすぐに気がついた。
「お集まりいただいた紳士淑女の皆さま、お待たせいたしました！」
ラトは楽しそうに、客たちに向かって両手を広げた。
「ここに世紀のビッグマッチが開催されます。注目の対戦カードは、ご存知の通り、十五年もの間、地下拳闘場で最強の名を欲しいままにしてきた英雄、覆面男ヴィクトリアス・フェニックス！ それに対するのは――……」
そこまで言って、ラトはリングに近づいて行き、振り返った。
そして左手を胸に当てて恭しく頭を垂れ、圧倒されているヴィクトリアスに紹介してみせる。
リングの中央、明るい照明に照らし出された不動の男を。
「冒険者ギルドの鉄の掟、敏腕氏にご登場願います」
そこには、赤銅色の瞳を眼鏡の下に隠した青年が退屈そうに待ち構えていた。
格好はいつものしわひとつない臙脂色のシャツにベスト、アームバンドをつけている。まるっきり、受付係の格好である。
「私はクリフさんと戦えるって聞いたから来たんですけどね。ま、いいでしょう」
敏腕氏はいつもよりぞんざいな口調でそう呟き、溜息を吐いた。
そして深く腰を沈めると、左手を前に出して構えを取った。
目を閉じて深く息を吐き、呼吸を整えて再び瞼を開いたそのときだった。
酒を飲み、ヤジを飛ばしていた客たちが静まりかえった。
クリフもそうだが、ジュリアンがまとっていた闘気をさらに濃く煮詰めて鋭くしたような殺気が放たれたのが感じ取れたからだ。
「あいつは一体何者なんだ……」
ヴィクトリアスが呆然として言った。鉄の眼差しに見据えられ、まだ何メートルも距離が開いているというのに、全身から冷や汗がにじみ出ている。
クリフも同じ感想である。
「知らなくていいこともあります。まあ、ザックリいうと、彼は冒険者界の超有名人でして。今夜あなたと戦ってもらうために呼び出しました。拳闘士ではありませんが、しかし……ヴィクトリアス氏、あなたが本当に十五年もの間、不敗の座を守っていたというのなら、敏腕氏に手も足も出ずに負けるなんてことはないでしょう。さあ、服を脱いで。リングに向かってください」
ラトが言うと、前に進み出たのはヴィクトリアスではなかった。
ブルーノが上着を脱ぎ捨てて、リングの中央に向かっていく。
「どこの馬の骨とも知れん男を、俺達の頭と戦わせるわけにゃいかねえ。まずは前座が相手だ！」
敏腕氏は眼鏡をはずし、囲いの上に置いた。
鋭すぎる目つきが明らかになる。人殺しの目つきだった。
「ラトさんからは誰も殺すなと言われています。命までは取りませんので、お気軽にどうぞ」
ブルーノは恐れることなくまっすぐに敏腕氏に向かっていく。
ラトたちからは、細身に見える敏腕氏の姿はブルーノの鍛え抜かれた背中に隠れて見えなくなる。
次の瞬間、その背中が浮き上がるのが見えた。
ブルーノはリングを囲う塀に背中から叩きつけられていた。
あまりにも呆気なかった。
ブルーノはなんとか立ち上がり、再び敏腕氏に立ち向かっていく。
敏腕氏は突き出された拳を退屈そうに何度か捌き、頃あいをみてブルーノの側頭部に左肘を叩き込んだ。衝撃に揺れている顎に拳が刺さり、膝蹴りが腹を抉る。
再びブルーノの体が宙に浮いた。地面に倒されたブルーノは、今度は起き上がらなかった。そこには暴力による興奮はない。
歓声も勝者への賛美もない。
ただ圧倒的な強さが、弱者をねじふせただけである。
敏腕氏はちらりとヴィクトリアスに視線をやると、無言のまま、ヴィクトリアスを手招きする。
「俺には……彼と戦う資格はない……」
ヴィクトリアスは苦しげな表情となり、戦うことなく負けを認めた。
「罪を認めますか。たとえ負けるとしても、あなたがヴィクトリアスとして積んだ研鑽がほんものなら、彼に立ち向かうことでそれを証明できるでしょう」
しかし、ヴィクトリアスは戦うことを選ばなかった。
「俺は……君の言う通り、ヴィクトリアスではない。ゴッドフリーだ」
いつまでも対戦相手が訪れないので、退屈になったのかもしれない。
敏腕氏は呼吸を整え、左足をゆっくりと持ち上げた。だれもが注目するそのつま先が再び地面を踏み抜いた瞬間、振動が拳闘場を襲った。
敏腕氏が踏み込んだつま先を起点として床が割れていく。ひとりの人間によって起こされた小規模な地割れはリングを覆う囲いの一部を粉砕した。
「あいつは一体なんなんだ……」
クリフはうめき声を発した。
「知らないほうがいいこともある」
ラトは答えた。
