第47話 真実よ、名探偵を守りたまえ
「じゃ、さらにもうひとつ。覆面の下にいたのは、本物のヴィクトリアス・フェニックスだろうか?」
そのとき、男は「ヘヘッ」と声を立てて笑った。
そしてこう言った。
「旦那、それを言っちゃおしまいですぜ!」
それは耳を疑うような発言だった。
ラトは次々にやって来る客たちに同じ質問を投げかけた。
ある者はこう答えた。
「それは、店の常連たちの間じゃ、言っちゃいけない禁句って奴ですよ!」
次の者はひとしきり笑った後で、まじめな顔をして言った。
「だって――いや、こんなことは本当は口が裂けても言っちゃならねえが、旦那にはお駄賃を貰っていますからね。十五年もの間負け無しなんて、普通あり得ないじゃありませんか」
「芝居とおんなじで、ああいう見世物には筋書きってモンがあるんでさ」
「台本があるんですよ。どんなにピンチになったって、ヴィクトリアスは勝つようになってんです。覆面の下に誰が入ってようとね」
クリフが唖然として声も出なくなっているのを見届けると、ラトはトドメとばかりに、最後のひとりに極めつけの質問を投げかけた。
「覆面の下には誰が入っているの?」
「さあね、俺は知りませんし、興味もない。ただ、ヴィクトリアスは地下拳闘場の英雄だからね。そこんところは疑わないんでほしいんだが……ヴィクトリアス役は大変だから、三人くらいで回してるって専らの噂でさあ!」
客たちを追い返した後は、驚愕し、呆然としたクリフが残された。
「ラト、どいうことだ? つまり……拳闘場で行われていた試合は、全部八百長ってことか!?」
八百長、つまりはいかさまだ。賭け事がからむ勝負事で、あらかじめ勝敗を打ち合わせておくことを言う。
「ああ、それも特殊な八百長だよ、クリフくん。それを八百長と呼ぶならだけど。つまり、常勝不敗の覆面男、ヴィクトリアス・フェニックスという存在そのものが、あるときから巨大な幻想にすり替わっていたということだ。ヴィクトリアスはあくまでも役なんだ。誰が演じたってかまわないんだよ。ヴィクトリアス氏の覆面の下には、ほかの誰かが入っていてもよく、代役を含めたすべての拳闘士が常勝不敗の覆面男、ヴィクトリアス・フェニックスなんだ」
「そんなことあるはずが――」
「ない? これは夢の中ではなく現実なんだよ、クリフ君。それというのも、僕も思い込んでいた。ナミル氏に限って、こんなミスをおかすはずがないってね」
ラトはモーリスから紅茶のカップを受け取りながら、やや辛辣な口調で答える。
「おそらくヴィクトリアス氏はもう長い間、リングには立っていない。フェニックスの覆面をかぶっていたのは、ほかの拳闘士の誰かだよ」
「そんなことありえないだろう」
「何故? 僕からしてみれば、十五年もの間、全ての試合で勝つなんてこと自体がありえない」
「それが現実だとしても、目当ての拳闘士がニセモノとすり替わっていたら、誰だって文句を言うだろう。なぜ誰もが、そのことを指摘しなかったんだ!?」
「それが当たり前だからだ。芝居を見に行くのと一緒だよ。舞台の上に立つ美しい女神を指さして、あれは本物の女神さまじゃない、なんて言う奴がいるかい? ヴィクトリアス氏の弟が試合中に亡くなってから十五年……十五年という歳月があれば、何もかもが変わる。人間は負傷し、病にかかり、老化という避け難い運命によって強さを失う。だれも英雄が老いさらばえてリングを去るところなどみたくない。それくらいなら、黙っていたほうが利口だ」
「そんな、まさか……」
クリフは今しがた自分が見たものが信じられずに、酸欠の魚のように口を開けたり閉めたりしている。
「覆面男の中に誰がいるかは、わからないんだ。誰にもだ。客はだれひとりとして、覆面の下を確認していない。でも覆面をかぶっているかぎり、彼はヴィクトリアス・フェニックスなんだ。わかっちゃいるけど、誰一人として口には出さない……そういうルールを、彼らは十五年かけて作りあげたんだよ」
「しかし、それは賭けとして成立していないじゃないか」
「いいや。成立し得る。拳闘士の強さに賭けるか、その背後に仕組まれたストーリーに賭けているだけのちがいだ」
「そんなことナミル氏は許さないだろう」
「そこだ」
ラトは人差し指を立てた。
「ナミル氏はけっして八百長を許さない。彼が求めるのは真実の暴力だからだ。だけど、裏を返せば、ナミル氏だけを騙せばよいということでもある。そのあたりは確認するとして、だからこそ……ナミル氏から情報を得た僕らもそう思い込んだ。店の誰もがヴィクトリアス・フェニックスを見ていないのに、リングに上がったのは彼だと信じた。客ははじめから気がついていたんだ。気がついていたが、しかし語らなかったんだ」
それが正しいとしたら、ヴィクトリアス氏はデュマン殺しにかかわることができないという前提条件が崩れ去る。
「ヴィクトリアス氏はどうしてデュマンを殺したんだ? 動機がわからない」
「十五年前の弟殺しが関係していると僕は思う」
ラトは遠い目をして紅茶のカップの底を見つめていた。
「おそらく、デュマンは覆面兄弟の近縁者だ」
なぜ、そんなことがわかるのかと鸚鵡返しに問いかけて、クリフははたと思いとどまった。彼もまた、事件現場でその答えを目にしているからだ。
「もしかすると――顔か?」
ラトは頷いた。
「被害者は顔を集中的に殴打されていた。原型を留めぬほどにね。店の関係者にはわからずとも、ある者ならば知っているということも考えられる。たとえば、覆面兄弟と同じ出身であるエイブリルならばわかるような特徴だ」
「筋は通っているように思えるが……」
「僕が思うに、デュマンは十五年前の弟殺しの件でヴィクトリアス氏を脅迫していたはずだ」
「弟殺しの件はヴィクトリアス氏がすでに罪を認めている。証拠もすべてナミル氏が消してしまい、片はついているはずだ」
「その事件にはもっと重要な秘密がある。知られたら身を亡ぼすような、ずっと罪深い秘密が……ぜひともそれを知りたいところだが、問題がある」
ラトはそう言って、クリフに視線を投げた。
「証拠がない」
「なんだって?」
「事件現場に残された痕跡は、すべてコーネルピン隊長が奪い去って行ってしまった。すなわち、現時点で、ヴィクトリアス氏は通そうと思えば白を切り通すことができるということだ。十五年前の件に関してはナミル氏自身がすべて処分してしまっていることだし……」
「つまり……?」
クリフは嫌な予感がした。
「僕たちは、この事件の真相を明らかにしたとき――お抱え売れっ子拳闘士と、店の公然の秘密を暴き立てて一ヶ月分の営業利益をかっさらおうとしている僕たちのどちらをナミル氏が優先するのかという、事件とはまた別の問題を抱えている」
「ナミル氏がヴィクトリアス氏を優先した場合は?」
「彼の秘密を知っている僕と君をロープで縛り、馬車の後ろに括りつけて走らせるかもしれないね。何か作戦を考えなくちゃ」
「作戦というと」
「自白だ。ヴィクトリアス氏にみずから罪を認めさせるしかない」
ラトは長椅子に移動し、ゴロリと横になった。
そのとき、モーリスがやってきて「黒ずくめの使者様がお見えです」と渋い顔つきで言った。
ナミル氏の使者は、今夜、関係者を集めると伝えてきた。
それは時刻にしてあと三、四時間ほどで、ラトとクリフが夜明けを見られるかどうかが決まるということだった。
*
夜の九時ぴったりに、ラトの指示通り事件の関係者たちが一堂に集められた。
ナミル氏と支配人のブランドン氏、ヴィクトリアス氏が率いる拳闘士軍団、もちろんブルーノもいる。
集められた場所はてっきり拳闘場かと思いきや、少し離れた場所にある高級レストラン『寝鼠亭』であった。
その個室に逞しく暑苦しい男たちが詰め込まれている。
呼び出したラトはクリフを連れて遅れて登場した。
そして部屋に入って来るなり、ステッキを掲げた。
「《走査》!」
合図を送ると、レガリアが薄青い光を放つ。光はステッキを中心に部屋中をまんべんなく照らし、消えていった。
ナミル氏は眩しそうに目をしかめる。
「なんだなんだ、ラト坊」
「失礼しました。これは僕のレガリアの新しいスキルで、ここにいる人たちが魔法やレガリアを所持しているかどうか、そして場所に使用した痕跡があるかどうか調べる力があります。約束に遅刻したのも、改めて拳闘場に赴き、事件現場を調べてきたからです。失礼をお許しください」
「結果はどうだい」
「どちらも使用された形跡はありませんでした。もともと、僕はこの件について魔法の関与を疑ってはいませんでした。ご存知の通り、魔法というものは女神の加護に満ちた空間……つまり迷宮内部でしか使えません。地下拳闘場は迷宮の影響を受けていないようですので魔法の効果を持ち出すならレガリアが必要ですね。あくまでも念のための確認です」
「殴り合いは正々堂々じゃねえと面白くないからな」
ナミル氏はそう言った。
「で、犯人はわかったんだろうな、お前さんの言うところの真犯人とやらが」
「はい。ブルーノ氏を解放してください、彼が事件の真相を知っていることは間違いありませんが、デュマンに直接手を下したのは別人です」
罪を自白したブルーノは部下たちに連れられ、縄で縛られた姿だった。
部下たちが拘束を解こうとすると、ブルーノは何故か抵抗した。
「ちがう! デュマンを殺したのは俺だ!」
ラトはその叫びに全くと言っていいほど取り合わなかった。
「事件の説明をするまえに、ナミル氏にも確認しておきたいことがあります。事件の根幹にかかわることです。包み隠さず答えてください」
「なんでも聞いてくれ」
「拳闘場の運営のことです。あの店では不正は一切していない、そうですね。つまり、八百長をしていないかどうか——試合を盛り上げるため、勝敗を操作するようなことはしていないと……それは真実ですか?」
「当然だ。俺とここにいる支配人はな、どっちも心の底から拳闘が好きなんだ。男たちが汗水たらし、拳をぶつけあい、時に血を流しながら腕っぷしひとつでのし上る様は、正直言って痺れるね。男のロマンってやつだ」
男の、と言ったとき、ナミル氏はラトに片目をつぶってみせた。
彼なりの愛嬌であろう。
「もしも八百長をするような拳闘士がいたら、どうしますか?」
「残念ながら、そいつには引導を渡すことになるだろうな。偽物の血や汗に興味はねえんだ」
「そうですか。ではもうひとつ。これは僕が事件を調べていくあいだにふと気がついたことで、そして最初に確認しなかったことを後悔したことでもあります。ナミル氏、もしかしてですが、事件の当日あなたは地下拳闘場にはいらっしゃらなかったのでは? 大の拳闘好きを自称する貴方にはあり得ないことですが、そうではありませんか?」
それは、昼間の時点でラトが指摘していたことだ。ナミル氏は拳闘好きで、木曜日は必ず拳闘を楽しむ――それは迷宮街の地下の事情というものを知っている人間にとっては常識だったはずだが、ナミル氏はその問いにあっけなく首肯してみせた。
「その通りだ。俺は試合の最中、店に行くことはしない。ここにいた」
「ブランドン支配人も一緒でしたね」
「そうだ。拳闘の試合があるときは、店は手下に任せて、俺達は揃ってこの店で夕食と酒、あとはカードなんかを楽しむことにしている。女たちを呼ぶこともあるが、そいつらも呼んだほうがいいか?」
「いいえ、結構です。あなたとブランドン支配人は事件現場にいなかった、それだけが確認できればよかったのです。その習慣は、長い間続けられたものでしょうか」
「必ずこの店で食事をする、というのは言い過ぎだな。しかし店には一歩も立ち入らないようにしている。支配人にもそう言い聞かせてある。十五年以上前からそうだ」
クリフはナミル氏の返事を聞いて驚いた。
拳闘好きだと言うからには毎週店に通って、特等席に座り試合を見物するものだと思っていたが、それどころか店には立ち入りもしないという。そんな生活を十数年間も続けているとは思ってもみなかったのだ。
「もう少しくわしく説明していただきましょうか、ナミル氏」
「つまりだな、この店が俺の持ち物だというのが問題なんだ。経営のほうはブランドンにまかせっきりだが、新しい拳闘士を雇うだの、故障した拳闘士を辞めさせるだの、いつ誰と誰を戦わせるかだの、そういうことは俺が自由に決められる、そういう権限を持っている。それが問題なんだ。ジレンマってやつだな、言葉の使い方、あっているか?」
「さあ、まだわかりません」
「こういうことだ。俺が店に出ると、拳闘士たちは正々堂々戦わなくなるんだよ。支配人だってそうだ。俺達のように、拳闘士たちの今後を左右しかねない力を持った人間が店にしょっちゅう出入りしてみろ、たちまち連中は俺達の顔色をうかがうようになるんだ」
「なるほど、それはジレンマといっていいでしょうね」
ナミル氏は拳闘を心の底から愛しているのだ。だからもちろん店に通いたい気持ちはあるだろう。しかしそうすれば、拳闘士たちはナミル氏に気に入られようとする。それはまだいいほうで、中には『ナミル氏のお気に入りの拳闘士を勝たせようとする』者まで出てくるかもしれない。
ナミル氏のように、感情の起伏を素直に出してしまうタイプならば尚更だ。
店の主人、しかも裏社会の顔役のお気に入りを、力いっぱい殴れる男はなかなかいないだろう。
だから、ナミル氏はあえて店には通わず、支配人と共に離れたレストランで食事をするのだ。
「試合の様子は部下たちに命じて事細かに報告させている」
「貴方の部下が直接、店に来るのですか」
「いや、それだと同じことになりかねないからな。部下たちにも店の敷居はまたがせねえ。店の客を買収して、試合の様子を報告させてるのさ」
「それで大体の事情がわかりました。すなわち、なぜこの事件がここまで複雑になってしまったのかということについてです。ご協力ありがとうございました、ナミル氏。ですが、今日は貴方に残念なお知らせをしなければならないかもしれません」
「ぜひとも忌憚のない意見を聞かせてくれ」
「その前にお約束して頂きたい。僕が良いと言うまでは、怒鳴り散らして勢いで人を殺さないことを。部下に命令するのもやめてください」
いいだろう、と言って、ナミル氏はテーブルに拳銃を置いた。
「では、申し上げます。残念ながら、貴方の聖域である拳闘場には不正がはびこっていました。八百長です。試合の結果は、あらかじめ決められていたのですよ」
ラトは、昼間、カーネリアン邸に人を集めて行った実験について話した。
その結果をナミル氏は深い怒りを持って迎えた。
彼は怒鳴り散らすことはなかった。
ただ部屋に揃った部下たちと拳闘士をぐるりと眺めただけだ。
しかし、部下たちは悲愴な顔つきでテーブルの上の拳銃を見つめていた。
「そして、デュマンを殺害したのはブルーノ氏ではありません。犯人はあなただ、ヴィクトリアス・フェニックス氏」
拳闘士たちが殺気立つのがわかった。
ナミル氏も血走った目つきをしている。
当然だ。
店一番の売れっ子であり、試合に出れば負けなしのヴィクトリアス氏を卑劣な殺人犯だと指名したのだから。
鍛え抜かれた肉体を持つ男たちに囲まれ、ラトは吹けば飛ぶ木の葉のように頼りなかい存在に思えた。
戦いの火蓋が切って落とされた。
これでもうこの夜は、ひとりの死人も出さずには終えられなくなった。
「そしてもう一つ、大切な真実というべきものを申し上げます。彼はヴィクトリアス・フェニックスではありません。彼の本当の名前はゴッドフリー・フェニックスであり、十五年前、ヴィクトリアスを事故に見せかけて殺害した殺人犯です」
そのラトの推理にクリフは驚いたが、それよりも場に張り詰めた緊張の糸、殺気の渦のほうが重大事であった。
「こいつらがまとめて襲いかかってきたとしたら、俺は一目散に逃げるぜ」
「部屋を出る前に八つ裂きにされるよ、クリフ君」
「じゃあどうする?」
「信仰のある者は女神によって守られるだろう。しかし、ひとりぼっちの名探偵を守るものは真実のみしかない。だから名探偵は相棒を必要とするんだ」
なんとも頼りない発言ではあった。




