第44話 覆面の男・上
店で殺されたのは付き人をやっていたデュマンという男であった。
デュマンはひと月ほど前にふらりと迷宮街へとやって来て、ナミル氏の店で掃除夫として雇われた。最近は店で一番人気の拳闘士の後ろにくっついて使い走りや着替えの手伝い、試合後のマッサージなどの雑用をしていたようだ。
デュマンの死体はラトが運び出し、再度の検死と解剖を行った。
クリフにとっては吐き気を催すような邪悪な行いであるが、ラトの推理術にとって遺体を切り刻むことは必要不可欠な行為であるらしかった。
翌日、ラトは事件当夜店にいた拳闘士たちと面会するため、ナミルの用意した馬車に乗りこんだ。
「デュマンがどこから来た流れ者かはわからないが、過去に深刻な栄養失調を経験していたことは確かだ。店の者が言うには、暗い店内での掃除に苦労していたらしいから、栄養不足による夜盲症を発症していた可能性がある」
「食い詰め農夫ってところか、よくある話だ」
「死亡時刻は昨晩九時頃。死因は頭部の外傷によるものだ。わずかではあるが手足に縛られた痣があった」
「それは見りゃわかる、あれだけボコボコに殴られていたらな」
「とはいえ顔面の打撲は直接の原因ではない。後頭部にガラス片による鋭い裂傷を確認した。服や絨毯に飛び散った高級ワインの染みもね」
「つまり、さんざん殴ったあげく、酒のボトルでトドメを刺したってことか」
「そういうこと。残念だが凶器はコーネルピンが持ち去ってしまったが、しかし、それが最後に加えられた攻撃だというのは間違いない」
「確かなのか?」
「頭皮を切開し、頭蓋骨の状態を確認した」
ラトはステッキの頭を軽く撫でた。
嵌め込まれたレガリアが反応し、馬車の天井に被害者の頭部が……それもむき出しになった頭蓋骨が浮かび上がり、クリフは朝食を吐き戻しそうになるのを必死に耐えた。
「デュマンは強い力で何度も頭部を殴られていた。特に右側頭部からの一撃、そして後頭部からの攻撃が強く、深刻な骨折をもたらした。レガリアの神秘を目の当たりにするのが嫌なら、素焼きの壺か地割れの様子でも思い描いててくれ。強い衝撃は壺を割る。大地の神秘による地震によって、地面が割り砕かれるように。さて、衝撃によって生じた罅は無限に伸び続けるだろうか? 否だ。そこにあらかじめ深い亀裂があったなら、新しい罅はその先には行けない。地割れが川や断崖、深い渓谷にせき止められるようにね。このことを人間の故障に応用すると、被害者が受けたであろう攻撃の順番を推理できる」
「特別知りたくもなかった豆知識を教えてくれてどうもありがとうよ」
「どういたしまして。状況からして、試合が行われていたあの時間に、誰にも見とがめられずに死体を移動させることは難しい。殺害現場があの個室であることは間違いないだろう」
「じゃあ、個室の持ち主が犯人だ」
クリフは言った。いつもの適当な返事ではなく彼なりに考えた結論である。
あの店で唯一個室を持つことを許されていた男の名は覆面男ヴィクトリアス・フェニックスという。もちろん偽名だ。
彼は不死鳥を描いた覆面をつけた巨漢の拳闘士であり、もう十年以上も前から、試合では一度も負けたことのない不敗の拳闘士として名を馳せていた。
「残念だけど、デュマンが死亡した時刻、ヴィクトリアス氏は試合中で犯行は不可能だ。もしも彼が犯人だとしたらナミル氏は憤慨し、怒りのあまり店の支配人を殺害するかもしれない」
「そうかもしれないな」
「僕だってガッカリするだろうね。そんなに単純なものは謎とは呼べない」
「俺は報酬が手に入れば何だってかまわない」
そう吐き捨てるように言ってから、クリフは自分をじっと見つめるまなざしに気がついた。
ラトの瞳は、今は穏やかで落ち着いた暗い色をしている。
しかし真正面から見据えられると妙に落ち着かない心地がした。
「何か言いたいことがあるなら言えよ」
「君はナミル氏のような犯罪者に手を貸すことを一度はやめさせようとしたね」
しかしナミル氏から多額の報酬を提示され、どうなったかというとラトと同じ馬車に乗り込んでいる時点で明らかである。
「どんな人間でも大金がかかれば態度が変わる」
「その通りだよ、クリフ君。僕もそう思う。だけど……君はそのことに罪悪感を抱いているように見える」
「何だって? 俺がか?」
「その通りだ。そしてそのことと、君がジュリアン氏との決闘の後、どんなクランの誘いにも乗らずに部屋に閉じこもっているのは、同じ問題の別の側面なのではないかな。そんな気がするよ」
「…………」
クリフはわざとらしい演技をやめて黙りこんだ。
嘘や冗談はラト・クリスタルには通用しない。
ふざけた奇行に目がいきがちだが、ラトの厄介な点はそこだった。
どれだけ奇抜に振舞ったとしても、ラト・クリスタルの芯にあるのは真実を見通す瞳なのだ。
「そもそも、決闘自体が疑問だった。僕は何度か、クリフ君の戦い方を間近に見てきた。主にガルシアとの戦いだ。カーネリアン邸の地下室でみせた、あれが君のほんとうの実力だとしたら――君はジュリアン氏には勝てなかっただろう。そして決闘の様子も普段の君の戦い方ではなかった。どんな記事にも、まるで別人のような君が描かれている。決闘のときの君は……その戦いぶりは……まるで……」
ラトは珍しく言い淀んだ。
クリフはその言葉の続きを知っていた。
「悪鬼イエルクのよう……か? そう言いたいんだろう」
クリフがその名前を口にすると、ラトは押し黙る。
しかし沈黙は長くは続かなかった。
「……そうだ。彼そのものではないが、その血を引く者にふさわしいと思った」
多少強引ではあったが、ジュリアンは正々堂々と勝負を持ちかけた。
しかし追い詰められたクリフが取った戦法は、それとは正反対のものである。
奪い、裏切り、卑怯だと言われたとしても勝つためなら手段を選ばないやり方だ。
「どうしてその戦い方を隠していたの? 君の真の才能を。もしもガルシア戦で君が全ての実力を発揮していたら、あれほど苦戦はしなかったはずだ」
「才能なんかじゃない。砦で生き残るためには何でもするしかなかった……ただそれだけだ」
クリフはそう言った。言ってから気がついたが、それを口にするのは思いのほか苦しいことだった。
イエルクが支配していたアンダリュサイト砦では暴力が全てだった。
飢えれば盗み、殺されたくなければ剣を覚えて強くなるしかない。
愛情は奪い、出し抜いて勝ち取るものだった。
クリフは砦で戦い方を覚え、生き抜く術を身に着けた。ジュリアン氏との決闘でみせたものはその一部だ。
イエルクは死んだが、死はクリフに植え付けられた暴力を取り去ることまではしなかった。その恐怖はまだクリフの中で息をしている。
地面に跪いたとしても砕けぬプライドや、他人を平気で見捨てられる心の冷たさに、クリフはその影をみては言葉にならない恐ろしさを感じるのだった。
「俺はハゲワシになりたくない」
絞り出すような声音でそう告げたとき、ラトははっとした表情を浮かべた。
そのときラトはひとりの女性のことを思い浮かべていた。兄を自由にしたいと、それだけを願い全てを投げ打った女性のことだ。
「俺はあの砦で身につけたもの全てを、イエルクの血と暴力の歴史を捨て去りたい。ただそれだけを願って砦を出て、この街に来た。正しく生きたいんだ」
「僕には君が、すでに願いを叶えているように見えるよ」
「願いを叶え続けるために、多大な努力を必要としている。こんなことを言っても、お前にはわからないだろうけどな」
それは皮肉でも、嫌味でもなかった。
ほんの一瞬邂逅であったが、パパ卿はラトのことを心から愛していた。掛け値なしの愛情を受けて育ったラトにはクリフのような境遇は理解できないに違いない。
「たしかに、僕には人間の心はわからないかもしれない、でも……」
ラトが何かを言いかけたとき馬車は目的地に到着した。
御者が扉を叩き、降りるように言った。
*
覆面男の住居はなかなかの豪邸であった。
流石にカーネリアン邸とくらべれば見劣りするが、バルコニーや水浴場を備えた邸宅は驚くほど広々としている。とてもではないが、小汚い地下の店で殴り合うことを生業としている人物の住まいとは思えなかった。
三階建ての建物の一階は拳闘の練習場になっており、壁の一面に覆面をつけた男の絵が掲げられていた。
不思議なのは、描かれている筋骨隆々とした男が二人いることだ。
二人は体格も似通っており、色違いの、赤と青の覆面をかぶっている。
覆面の目もとに縫い取られた、炎の翼を広げた不死鳥の刺繍はどちらも同じものだ。
練習場には昨晩の興行に出場していた拳闘士たちと支配人のランドン氏が待ち構えていた。
ラトたちが入っていくと拳闘士たちはそれぞれの訓練に集中しており、見向きもしなかった。重りをつけて体を鍛えるもの、砂袋を叩いて拳を鍛えるもの、様々である。ランドン氏以外は、いずれも筋骨隆々とした実に堂々とした佇まいである。
彼らの体は長年、拳によって磨き抜かれ、瞳には闘志がこもっている。
ラトは彼ら全員を眺め渡しながら言う。
「はじめまして、僕はラト・クリスタル。ご存知の通り、昨晩、店でデュマンという雑用係が殺されました。ナミル氏はその犯人を捜そうとしており、そのために僕達をここに派遣しました」
ナミル氏の名前を出すと流石に男たちの視線がラトに集まった。
砂袋を殴打する音が止み、誰もがラトに視線を向ける。
「犯人は……ええと、そこの君かな?」
ラトはその拳闘士のうちのひとりを指で示した。
金色の口髭を生やした背の高い男である。
男は目を見開いて驚きを示し、気まずそうに周囲に目をやる。
ラトがとんでもないことを言いだすのはいつものことだ。そしてクリフはその理由を理解しつつある。
ラトは推理のためにしばしばブラフを用いる。
優れた観察眼を有効利用し、あやしい行動を取る者を炙り出すためだ。
「…………どうだ?」
クリフが小声で訊ねる。クリフの目には誰もが同じように戸惑い、遠巻きにしているようにしか見えない。
ラトの観察眼なら何か別のものを読み取っているのではなかと思ったが、あまり芳しくないようだ。
「うーん……思ったような反応はないね……」
すると、練習場に新しく人がやって来た。
「俺の仲間にデュマンを殺すような奴はいない」
二人が振り返ると、そこには赤い覆面をかぶった男が立っていた。
絵とは違い半裸姿ではない。練習着の上に青いガウンを羽織っている。しかし、確かにそこに立つ巨体はヴィクトリアス・フェニックスその人である。
「ですがデュマンは殺害されました。しかも貴方の部屋で発見されたのです」
「どうせ客のひとりだろう。賭けに負けた憂さを晴らしたい奴はごまんといるのさ。だが、力じゃ俺達には敵わない。決まって弱い者を狙うんだ」
その語り口は思いがけず穏やかだった。
暴力で日銭を稼いでいるとは思えない知性が滲んでいるようにも思える。
「失礼ですがその覆面を脱いでいただけますか」
ラトが訊ねると、ヴィクトリアスは指示に従った。
濃く暗い色の髪と瞳が現れた。




