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第40話 あの女・下


「あなたは人の行動になんらかの合理性があると仰りたいのですね。どんなことにも理由があると。すべての現象が合理によってひとつなぎになるからこそ、一から十を十から一を導きだすことができるのだと」

「そうです。それが名探偵が用いる推理というものです」

「ではそれが推理というものの致命的な欠点であるとご指摘申し上げます。もしも、私の行動が合理に紐づけられたものだとしたら、あなたはそれを見逃したでしょうか」


 よどみなく発せられるキルフェの語り口に、ラトは黙りこんだ。


「とっくの昔に私の意図に気がつき、私がすることを止めようとしたのではないのでしょうか。あなたは鷹です。天から地を睥睨し、どんなに些末に思えることも見逃さない鋭い目をお持ちです。わたしはそのことを十分理解していましたし、そんな方を相手にするに当たって、田舎娘が付け焼刃の知恵や知識を用いて戦えるとお思いですか。そうではないはずです。私は、小さな策を弄することはしませんでした。ですから、あなたの目につくようないかなる証拠も残さなかったのです。あなたも最後の瞬間まで、わたしのしようとしていたことを読めなかった。一と十がつながっていないからこそです」


 沈黙が彼女への肯定であった。

 ラトはなかば、彼女の答えを予測していた。そういう人物ではないと、もうわかっていた。

 竜人公爵へ送られた手紙と同じだった。

 なんの小細工もなく、隠された秘密も存在しない。

 キルフェ嬢は死ぬとわかっていて、あの暗い小屋で懸命に病人の世話をし、みずからの体に刃を突き立て、これを飲めば死ぬとわかっていたからこそ杯を口にした。

 彼女は死に向かう苦痛をみずから受け入れ、そして人間が生まれ持った死にあらがう力だけで、すべてを克服してみせたのだ。

 ラトは認めた。


「僕は間違った。あなたのしたこと、そのすべてに()()()()()()()()()()()。あなたはただ毒を飲み、生還した。その間を結ぶ論理的説明など何一つ存在しないからこそ、誰もがあなたの思惑を見抜けなかった」


 ラトはそのことに思いを馳せ、遠いものを見る目でひとりの女を眺めた。

 もしもラトの言う通り、生存する確率を上げるためのなんらかの工夫が計画に含まれていたら、彼女は痕跡を残しただろう。切り刻まれた遺体や目撃者、王都から取り寄せられた最新の医学書、解毒薬をつくるための科学装置。それらを隠すための場所や、不審な行動。

 そして何よりも、隠しようのない、疑いの目を向けられたときの体の反応だ。

 彼女にはそのいっさいが存在しなかった。


「そうまでしてあなたを駆り立てるもの……それは信仰ではありませんね。絶対にそうではない。神の忠実なるしもべがいたとすれば、それはラメル婦人でした。状況を考えると、彼女はひそかに女神教会から派遣された聖女選定人だ。病人のために献身するあなたの噂を聞き、派遣されて来たのでしょう」


 キルフェははいともいいえとも言わなかった。

 それは二人にとって自明だったからだ。


「選定人が現れたことで、あなたは今回のことを仕組んだのです。ラメル婦人の前で三つの奇跡を起こして聖女候補になるためです。過酷な試練を生き延びた、その強い意志を支えたもの。あなたを死へと駆り立て、同時に死の淵からあなたの魂を呼び戻したもの。それはすべて……僕があの砦で見聞きしたものはすべて、木々のそよぎであり光のあたたかさだった」


 ラトはそこで言葉を切った。


「あなたはクリフ君のことを愛している。クリフ君があなたを愛しているのと同じに」


 愛だけが、合理では繋げることのできない物事をひとつにする術であった。


「やはり、おわかりでしたね」

「それだけは、はじめて砦を訪れたその日そのときから、明確にわかっていた事柄です。あなたたちは見つめ合っていた。僕はその秒数を数えていました。あなたはご存知ないでしょうが、冒険者のジュリアンという男がいます。そいつがクリフ君を見つめていた時間と同じです。僕と目を合わせたときなんか一秒だってもたないクリフ君が……です。これ以上は野暮ですね。わかっていたからこそ、僕はクリフ君の友人としてあなたに求婚したのです。もしもあなたが僕と結婚してくれたら、手続きを済ませ、適当な結婚式をあげ、あとは自由にさせるつもりでした」


 ラトはそう言って、さらに付け加えた。


「結婚の手続きなど形式ばかりのものです。支度金などペリドット家の全財産にくらべればほんのささやかなもの。あなたとクリフ君は、どこにでも行ってよかったのですよ。あなたたちが兄妹きょうだいであることなど誰も知らない遠くに逃げ去ればよかった。そういう未来を提示したつもりです」


 ラトがキルフェに求婚したのは、イヤガラセでも面白半分の悪ふざけでも、何でもなかった。心からの親切心だ。クリフがキルフェのことを愛していると知っていたからこそ、ふたりの幸福のためにラトはキルフェと結婚するつもりだったのだ。

 クリフは最後までそのことに気がつかなかったが、聡明なキルフェはそのことを理解していたはずだ。理解していなくとも、砦を出て養父やキャストライト子爵から離れることさえできれば、クリフと共にラトのもとから逃げるのは簡単だったはずだ。

 しかしその計画こそがパパ卿の言う通りラトの目をくもらせた。

 キルフェはラトの計画に乗るだろうと信じ切っていた。だから、それを振り払い、毒の杯を自ら飲み干す未来を予見できなかった。


「なぜ、クリフ君を選ばなかったのです? もう愛していないからですか? それとも聖女になる名誉ことがあなたの理想なのでしょうか」

「愛しているからこそ……」


 キルフェは答えた。


「あの砦で、わたしとお兄様はふたりきりでした。お互いのことを心の底から理解しあえるのはお互いしかいなかったのです。本当のことを言えば、お兄様が砦を出ていってからもずっと、いつかわたしのことを迎えにきてくれるのではないかと、子どもじみた考えも持ちあわせていたのですよ」

「クリフ君はきっとそのつもりでしたよ」

「わかっていました。だから、竜人公爵ではなくお兄様が現れたときは天にも昇る心地でした。もしも彼がひとりで砦に戻ってきたとしたら、私は彼と共に砦を去ったかもしれません。でもクリフお兄様はひとりではなかった」

「僕ですか?」

「ええ。お二人が共にいるのをみて、気がついたのです。このまま、お兄様と共に行ったら……。お兄様は仮にも妹である私を砦から、エセルバードのもとから連れ去ったことを一生思い悩むに違いないと。クリフお兄様にはクリフ・アンダリュサイトとしてではない、ハゲワシの孫としてではない、全く別の人生があるのだと。わたしはお兄様に愛されることよりも、彼に自由という贈り物を差し上げたいのです。これは地上の女のほかの誰にもできないこと、わたしだけにできる唯一無二の贈り物なのです」


 このときはじめて、ラトは圧倒されていた。

 実のところ彼はキルフェ嬢が毒の杯を持って食堂に現れたとき、あのみごとな口上の前でも、ラトはただひとり冷静を保っていた。

 彼女の演技力に感嘆はしていても、それは一流の女優に対するもので、ひとりの人間、ひとりの女性に対するそれではなかった。


「ですから、ラト様。わたくし、キルフェ・アンダリュサイトは聖女になります。そして永遠に遠くに去るのです。もう二度とお兄様にも、貴方様にもお目にかかることはありません」


 愛ゆえに。

 すべてが愛ゆえに……だ。

 いま彼女は真実とも呼べる愛を手にしていた。

 いや、彼女自身が愛そのものであった。

 それゆえに病を身に受け、刃を身に突き立て、猛毒を飲み干した。

 そして奇跡を起こした。地獄の炎に焼かれるような痛みと高熱、繰り返す発作を、強い感情だけを頼りに生き延びた。もし死んでしまったら、クリフは一生そのことで自分を責めて生きねばならない。だが、そうはさせなかった。

 彼女は彼のことを本当に愛しているのだ。だからだ。

 その意地とも呼べる一念だけで彼女は奇跡を引き起こし、そして、つかみ取ったすべてを捨てて、かけらも受け取ろうとしないで去ろうとしている。


 ラト・クリスタルはこのとき初めて愛というものの真実の姿を目撃した。


 乱暴につかみかかっても、キルフェ嬢を止めるべきなのはわかっていた。

 誰の、どんな人生を覗いてみたとしても、ひとりの人間のことを同じだけ愛するのは無理だろうからだ。

 しかし彼女はそれさえも予見していた。

 キルフェはテーブルの上に、金色の指輪を置いた。それは大きな緑玉がはまった、蛇の図柄の指輪である。

 ラトがオスヴィンへの誓いのかわりに贈った指輪だ。キルフェがそれを隠し持っていたということが何を示すのか、ラトにはよく理解できた。

 あれだけ娘を、よりよい条件で嫁がせることに執着していたオスヴィンが、聖女となる名誉のためだけに手放したのは何故か……。その答えは、まさにこの指輪が示している。

 キルフェは毒を飲むまえにこの指輪を盗んだ。オスヴィンは指輪がなくなったことに知り、まさか、それがいま死にかけている養女のしわざであるとは思わなかったに違いない。常識的に考えればラトを疑ったはずだ。彼はとんでもない詐欺師なのではないかと。

 折しもクリフとラトは揃って街に出かけており、弁解のチャンスはなかった。

 何よりもキルフェはオスヴィンの部屋で似合わぬ高価な指輪を見つけて、それがラトが約束の代わりに贈ったものだということを瞬時に見通したのである。


「……ひとつ聞かせてほしい。もしも僕らが来ず、怒りくるった竜人公爵が砦を襲っていたとしたら、君はどうしていたんだい?」

「どうしていたと思いますか」

「まさか、剣を抜いて戦うわけではあるまい」

「もちろん、おっしゃる通りでしょう」


 キルフェは言ったが、彼女は竜人公爵を恐れているようには見えなかった。

 恐れていれば、あのような大胆不敵な手紙は送るまい。

 ラトは、燃え盛る炎の砦で彼女が鎧をまとい剣を抜いて戦うところを想像した。

 それは推理ではなく、まったくの想像であったが、ひどく現実味を帯びていた。


「親愛なるラト・クリスタル様。ではこれで失礼いたします」


 彼女は立ち上がり、堂々と、表玄関から出ていった。

 キルフェ嬢が舞台から降りるのを、ラトはただ見ているしかなかった。

 あとから、何も知らぬ間抜け面でクリフが帰ってきた。ラトは彼女がここに来たことを伝えるかどうかしばらく悩んだ。それはめずらしく深い悩み事になった。

 そしてとうとうラト・クリスタルは、自分の明晰な頭脳が、ひとりの女性の忍耐と勇気によって出し抜かれたことを認めるほかなかった。


 今日このときをもって、クリフ・アキシナイトにとっても、名探偵ラト・クリスタルにとっても、女性といえばただひとりのことを指す言葉になった。

 そして、この名探偵と相棒が砦で起きたことや彼女のことを思い出して話題にするようなときは、いつでも「あの(ひと)」という呼称を使うのだ。




《奇跡の生還 おわり》

《参考文献:シャーロックホームズの冒険 ボヘミア王のスキャンダル 石田文子訳 コナン・ドイル著》

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