表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/76

第39話 あの女・上


 その日、クリフ・アキシナイトは野暮用があるといって午後から出かけていった。

 カーネリアン夫人も街に出ており、ラト・クリスタルはひとり屋敷の、暖炉のある居間でカウチに腰かけ、紅茶を飲みながら読書をして過ごしていた。

 そこに音もなく女が現れた。

 ぜいたくな白い毛皮をまとった女である。

 執事の案内もなく、彼女は忽然とその場に現れてみせた。

 侵入経路はまったくの不明であった。 

 しかしラトは驚くことなく、その来訪をいくらか予期していたようなところがあった。彼は静かに、本から顔を上げ、新調されたソファに座るよう示した。


「警備に注意を向けるよう、忠告すべきでしょうね」


 ラトが言うと、キルフェ・アンダリュサイトはフードをうしろに払い落としてにこりと微笑んだ。白金の髪は手入れされて艶やかだが、手のひらは砦にいたときと同じに傷んでいる。ラトを見つめる微笑みは記憶にあるものとはいくらか異なるものだった。聖なる気高さではなく、いくらか悪魔的であった。


「メイドを怒らないでやってくださいまし。道で気分が悪くなったご婦人を見逃せない優しい子なの」

「なぜ来られたのです?」

「私が不用意なことをしたせいで、竜人公爵のいらぬ恨みを買うことになってしまいました。そのことを謝罪せねばと思ったのです」

「竜人公爵はまあ……なんとでも言いくるめられるでしょう。しかし、そういうこととなると、あなたは、あなたがしたことを全てお認めになるのですね」

「ええ。竜人公爵に手紙を送ったのはわたしです」

「僕に話をさせてくださいますか」

「聞きましょう」

「お茶はいかが?」

「結構です。物忌みの期間ですので」


 選抜を終えた聖女候補は王陛下への目通りを済ませたあと、儀式のために北部に向かう。聖女に選ばれることは家の名誉であるが、その道のりは容易なものではない。


「竜人公爵に送られた手紙の意図には、早い段階で……というより、見たそのときにわかっていました。あれは暗号などではない。そうですね」


 ラトはそう言い切った。


「僕はこれまで探偵になるために特殊な訓練を受けてきました。あなたの想像もつかないような訓練です。そのなかには古今東西ありとあらゆる暗号を学ぶ授業もありました。けれど、あなたが書いてよこした手紙に書かれていたものは、そのどれとも違っている。あれは何の意味もない、意味不明な単語の羅列でしかないのです」

「そのとおりです。お粗末なものをお目にかけましたわ」

「粗末などではありません……。あなたくらいの聡明さがあれば、暗号が必要であれば、たちまちに独創性のあるものを思いついたでしょう。でも必要がなかったので、それを創造することはなかったのです。それにへたな暗号を使えば、僕のような者にその意図を見抜かれる恐れがあった。だから、あえて暗号は使わなかったのです」

「買いかぶりです」

「そうでしょうか。しかしいずれにせよあなたの目論見は当たりました。不明なものにこそ人は魅力を感じます。わからないからこそ、わかろうとするのです。考古学者が完璧な標本を探して年がら年中ずうっと地面を掘り続けているみたいにね。あなたの目的は竜人公爵を最大限に怒らせて、砦に招くことで、それ以上でも以下でもなかった。ただ、そこには秘められた計画がありました。奇跡を起こすための、です」


 キルフェは何も言わず、まったく自明のことだと言わんばかりに、銀細工のようなまつげを瞬かせた。


「まあでも計画の全体に誤算があったとすれば、手紙の一点に限るでしょう。オスヴィンの筆跡で手紙を出しはしたが、あなたの願い通りに怒り狂った竜人公爵が砦を襲うことはなかったのです。そのかわりに僕が来た。僕と、クリフ君です。再会は偶然でしたか?」

「ええ、とても驚きました。最初は手紙のことが世に広まって、そしてお兄様がわたしのしようとしていることに気がついたのだろうかと疑っていました」

「彼は純情な男ですよ、あなたを疑ったりはしない」

「もちろん、ひとめでわかりました。そして貴方が鋭い鷹のような目をお持ちの方だということもです」

「三人の老人が言っていた隠語ですね。山羊でも羊でもなく、鷹だと」

「イエルクが亡くなった後も、彼らは私とクリフお兄様に必要な教育を授けてくださいました」

「まったくもって、とんでもない教育です。僕はラト・ペリドットを名乗り、求婚者を演じることであの砦をコントロールしているつもりでしたが、結局はそれさえも利用されてしまった」

「拮抗した戦いは、たいていは先にしかけたほうが負けるのです。戦争でなくともそれは同じです」

「ごもっとも。今後は肝に銘じましょう。さて、砦に僕らが現れても、あなたは目的を変えることはありませんでした。しかし計画は変える必要があった。病人の世話を続けながら機会をうかがい、とうとう最適なタイミングがやってきました。僕があなたの前に現れて、結婚を申し込んだそのときです」


 あのときラトはクリフの想像に反して完璧な求婚者を演じていた。

 わずかな時間ではあるが彼女の仕事に理解を示し、そして兄の近況を話した。

 決して、キャストライト子爵がそうしたようにペリドット家の財産をひけらかすようなことはしなかった。ただ彼女の求めるものだけを与えようとした。


「僕がペリドット家の嫡男ではないとお気づきになりましたか?」

「いいえ。どちらかといえば信じていました。もしも、何かの条件がちがっていたら、わたしはあなたを伴侶として選んでいたかもしれません。エセルバードには悪いですが、彼を選ぶことはあまり良い選択肢ではありません。かなり魅力的な申し出でした」

「それを聞いてほっとしました。でも、あなたが結婚相手に僕を選ぶことはなかったでしょうね。あなたの決意は固かった。そうでなければ耐えられない計画でした。そのあと、あなたはオスヴィンが来訪することを予見しました。クリフ君と同じで、あなたも養父の性格を知り尽くしていたからです。きっと夜に人目を忍んでくるでしょう。そこでマントの男を作りだすことにしました。背丈や肩幅をごまかし、男物の靴を履いて、大胆にもイライジャの前に姿を現したのです。彼らの気性を知り尽くし、小屋までは踏み込まないとわかっていたから、どれだけでも大胆に振る舞えた……」


 その頃、ラトたちはオスヴィンの部屋で彼の筆跡を探していた。

 もしもオスヴィンたちの後を追っていたら、そのあとの展開は違ったものになっていただろう。


「あなたは誰にも顔を見られることなく小屋に行き、マントを脱いで靴と一緒に焼却炉にすて、そしてみずからの手で窓を割ったのです。あとは隠し持っていたナイフで腹を突くだけ」

「森の方角に逃げ去った足跡のことはどう説明するのですか?」

「そのことを知っている時点であなたの自演であることは明白ですが、答えましょう。足跡は昼間、あらかじめあなたがつけておいたものです。同じ靴をはいて、森の奥に逃げ去ったふうを装い、そして丹念に同じ足跡をうしろ向きに辿って小屋に戻った。それだけです」

「ですが、傷は深かったはずです。疑いを逸らすためとは思えないほどに」

「そう……その通りです。死んでもおかしくない。内臓を傷つけなかったのは単なる偶然です。何より多大な苦痛を伴います。これは何の証拠もありませんが、あなたは解剖学にも精通しているはずです。あなたが世話をしたリム病患者のなかには、亡くなった方も多かったのでは? 埋葬はどなたが行っていたのでしょう」

「わたしです。森の別の区画を埋葬地にしてあります。そのまま埋めることはできないので、焼いてから埋めています」

「では、人体の構造をより深く知るため、ひいては自身の生存率を上げるために死体を解剖なさいましたね?」


 この質問だけは、キルフェ嬢は首を横にふって否定した。


「いいえ、そのようなことは決してしていません。人体の構造については、いくらか下男たちに教わりましたが、座学だけです」

「そうですか。そうとは思えませんが……まあいいでしょう。あなたは生還し、二つ目の奇跡を起こしました。ひとつめはもちろんリム病を治癒したことで、僕らが砦に来る前のことです。ただ、この奇跡も合理的に説明できるものと考えます。僕に理解ができないのは、三つ目の奇跡のことです。あなたが飲み干した器には致死量の毒が塗られていました。だからこそ、僕はあなたがしようとしていたことに最後まで気がつけなかった。これが最期になるとわかっているワインを、人は飲めるはずがないと思ったからです。しかし、あなたは飲んだ。僕は問題の杯にあなた以外の人間が毒を塗布する方法ばかりを考えていました。単に塗っただけでは、誰が死ぬかわかりません。確実にあなたの手に毒の杯が回るようにするにはどうすればいいか。いくつか効果的な方法は思いつきましたが、しかしいずれも他の証拠と矛盾してしまいました。けれどもこれは、試みそのものが時間の浪費だったといえます。あなたが夕食の席に現れることを知っていたのは、あなた以外にはいないのですから……。どう考えても理解ができません。いったい、どうやって生還したのですか?」

「あなたは、わたしが生き延びる道筋を見出していたからこそ、毒を飲んだのだと言いたいのですね?」

「もちろんそうです。自殺をするような方とは思えませんから」

「ラト様。わたしは死ぬとわかっていて杯を飲んだのです」

「行動学や心理学の見地からも、ありえません。ほんの少しでも望みがなければ」

「ほんの少しも望みがなかったのです。では、リム病のことはどう説明なさるのでしょう。病は女神がもたらした運命です」

「女神はさほど人間に興味はありません。病は生命の営みの一部です。おそらく、あなたは最新の医学理論、つまり免疫についてご存知だったのだろうと思います。あなたはわざと、リム病に感染したのです。それも弱いリム病です」


 ラトはリム病の患者のなかには、まれに発症しても病状が重くならず、症状も軽くてすみ、短期間で回復するものがいると説明した。それがラトの言うところの弱いリム病である。


「激烈な症状が出ている患者からではなく、その弱いリム病患者から病を得れば、生き残る望みは十分にあるでしょう」


 キルフェは微笑んだ。なんとも言えない笑みだった。聞き分けのない子をあやす母親であり、姉のようでもある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ