第38話 風と光
毒を飲み干したキルフェは生死の境をさまよった。
これはラトの判断だけではなかった。
急いで町から呼びつけた正式な医師も、いつ亡くなってもおかしくない、覚悟だけはしておくようにと診断を下したのだ。
こうなってはもう女神に祈ることしかできることがなかった。
とくにラメル婦人は熱心に、昏睡するキルフェのそばで祈りを捧げていた。
クリフとしては誰が犯人かわからない以上、ラメル婦人であろうともキルフェのそばにいるとどうにも落ち着けない気分になったが、ラトによると彼女が犯人である可能性は限りなく薄いとの見込みだった。
「キルフェ嬢が倒れたあと、僕がエセルバードを疑ってみせただろう?」
ラトはそう言って、当時の正確な記憶を呼び出すべくまぶたを閉じた。
「あれはエセルバードが犯人として疑わしかったからではない。僕は、彼を犯人に指名したあと、じつは他の面々の反応を探っていたんだ」
もしも、あの場に揃っていた人物――オスヴィン、イライジャ、エメリー、そしてラメル婦人――そのなかに犯人がいたとすれば、その人物は無関係なエセルバードが犯人に指名されたことで、一時的にではあるが容疑者の疑いから外れたかっこうになる。何かしらの計画と悪意をもって彼女の毒殺を試みたその人物は、疑いが逸れて少なからず安心したはずだし、もしもわずかにでも変化を起こせばラトの鋭い観察眼がその気の緩みを見逃さなかっただろう。
だが、彼らは一様に緊張し、混乱し、目に見えない人物の凶行を恐れているだけだった。
「しかし、その理屈だと指摘されたエセルバード自身が犯人だという可能性は捨てきれないんじゃないか?」
クリフは指摘するが、ラトはエセルバードをあまり疑ってはいなかった。
彼はそれについて、犯人が用いた毒のことを拠り所にしていた。
「あの毒の存在について子爵は知らなかったはずだ。イエルクが特別に用い、わざわざ森に植えた毒のことを知っていたのは、砦に住む者だけだ」
これはエセルバードやラメル婦人には知り得ない情報だ。
毒は恐ろしいが、正体がわかってしまえばその恐怖は半減してしまう。
いまキルフェを苦しめているムラサキツルイモの毒でさえ、銀の食器に触れれば変色するという欠点をもっている。
狡猾なイエルクは毒のことを伝える者は慎重に選んだはずなのだ。
これは、犯人は部外者ではないことを示唆していた。
結局、誰が犯人とは言えないまま、キルフェは峠を越えた。
何度も危険な発作を起こしたが、彼女はなんとか命を繋いでいた。
そしてそのまま、幾度かの夜明けを迎えた。
凶悪な犯罪が行われた砦に、希望の光が射しこみはじめた。
死の宣告を乗り越えて、キルフェのそのか細い吐息は止まることなく続いていたのである。
彼女の意志の強さは驚嘆に値するものであった。
彼女は繰り返す激しい発作と昏睡の果てに、かすかな生命の灯をしっかりと掴んでみせたのだ。
これには診察した医師ですら驚いて、彼が学んだであろう医学理論というものを端から忘れた様子で「彼女の命は女神によって救われました」と告げた。
とうとう死の危険は遠ざけられたのである。
そのころ、ラトとクリフは誰にも秘密の相談をしていた。
「今度こそ、彼女を砦から連れ出そう」
犯人が誰とはわからないなら、砦に彼女を置いておくのは危険だった。
幸いにも狩猟小屋の病人たちはラメル婦人が見ていてくれている。
その間にキルフェを砦から遠ざける必要があった。
パパ卿は既にマルタに到着していた。彼の協力が得られれば、それは造作もないことだろう。オスヴィンはいまだにラトの嘘を信じ切っているし、キルフェの身の安全のためならエセルバードも引き留めまい。
二人はパパ卿を迎えにマルタに向かうことにした。
ラトはクリフに砦に残るように言ったのだが、クリフはキルフェのことを三人の老人に預けることにした。状況を考えれば、ラトにキルフェを預けるしか方法がない。しかし、ラトはエセルバードとはまた違った方向性で、愛を知らない人間だ。
そのことでキルフェが苦しまないとも限らない。
もしもラトが本気でキルフェと結婚するつもりなら、せめてその父親とは話をしておきたかったからだ。
果たして、町の小さな宿屋で、田舎の宿屋の風景にとうてい馴染まない男が待ち構えていた。
上背のすらりと高い男だった。しかし威圧的な雰囲気ではない。女性が好みそうな甘やかで優しそうな風貌をしている。
身の回りのことを言えば、彼は鮮やかな黄緑色の宝石がはまった杖を手にしており、宝石と同じ色の上着に絹のシャツを着こんだ姿である。裕福な人物だというのは間違いない。髪は明るい金色のくせ毛で、とてもラトの父親とは思えないというのがクリフの感想だった。
彼は近づいてくる二人組を見てにこやかに微笑みかけた。
父親をみつけたラトが子供のように走っていく。
男は大きな息子をあやしながら、クリフに向けて人差し指を向けた。
「アロン領グーテンガルド! 父親とは仲が良くない。母親とは死別。三人の兄がいて、妹もひとりいる。つまり、君がクリフくんだね!」
明るい声音でそう言った。
すぐさまクリフは考えを改めた。
彼がラトの父親、ジェイネル・ペリドットことパパ卿で間違いないだろう。
パパ卿は少し腰をかがめて、ラトと向き合った。
「ラト、久し振りに会えてうれしいよ。君はパパの自慢の息子だ。どこにいても変わらず、僕の光だ」
ラトが子供のようにパパ卿に抱きすくめられる姿を見ても、いまのクリフはからかう気にもなれなかった。クリフは……これはイライジャもエメリーも、砦から去った三男も同じことではあるが、オスヴィンはそんなふうに息子に愛情を注いだことはなかったからだ。オスヴィンだけでなく、イエルクも息子に対しては冷淡だった。
この愛情がかけらでも、砦の住人の誰かにあったなら……。
そう思わずにいられない。
しかし、パパ卿の表情はわずかに曇っていた。
「だけど――君はミスをおかしている。重大かつ決定的なミスだよ」
ラトは戸惑ったようだった。
「どうしてそんなことを言うんです?」
「君はいま、周囲を正しく見れなくなっているからだ。友達を守るために、円満に事をおさめようとして、真実を見る目を失ってしまったんだ。探偵として重要な資質をひとつ手放してしまったんだよ」
クリフはパパ卿が何を言いたいのか、全くつかめていなかった。
しかしラトははっとして、周囲を見回した。
彼は宿屋を飛び出し、マルタの通りに飛び出した。
そこには迷宮街と同じに白い旗が翻っている。聖女選定を知らせる旗だ。
ラトはその旗を凝視し、そして、キルフェが血を吐いて倒れたのを見つけたオスヴィンやエセルバードのように真っ青になる。
「まさか――! 馬車が出たのはいつだ!?」
「どういうことだ、ラト……?」
ラトがトンチキなことを言い出すのは常日頃からそうだが、今日のものはいつもと違っている。
答えたのはパパ卿であった。しかしその言葉は息子ではなく、はっきりとクリフに向けられていた。
「クリフ君、きみのことは息子から聞いている。今回の出来事は、我々の教育不足がもたらした失態でもある。彼はまだ成長途中で、未熟なんだ。どうか真実が明らかになったとしても、息子を責めないでやってほしい」
「なんのことだ? ラト、答えてくれ」
ラトは悔しそうに奥歯を噛み、その場でうつむいた。
「一連の事件の犯人はキルフェ嬢だ……」
ラトは苦しげに顔を歪めて告げた。
「竜人公爵に暗号文を出したのも、マントの男に襲われた事件も、毒の杯をあおったのも、すべてはキルフェ嬢が仕組んだことだ。彼女自身の意志でなされたことだ。ぜんぶ自作自演なんだよ」
今度はクリフがうろたえる番だった。
「だが、そんなことは不可能だ。お前が言うことが真実なら、つまり、キルフェが自分で自分の腹を刺したということになる。そして自分の手で、自分が飲むワインの器に毒を塗ったということだ」
「そのとおりだ。僕にもわからなかった……。考えれば考えるほど、その結論しかないと思えるのに、何故なのかだけがずっとわからずに、その可能性を外し続けてしまった。だけどこれほど明朗な答えはほかにない」
「あり得ない、ひとつ間違えば死んでしまう」
「だけど、彼女はやったんだ」
ラトはそう言った。
クリフはその場に立ち尽くした。
渦中にいるときは気がつかないでいたが、思い返してみれば、ラトが真実を告げたこのときこそが、砦に置き去りになっていたクリフの過去のすべてが彼の手元にもどってきた瞬間であった。
過去のクリフがほんとうは何を手にしていたのかを悟った瞬間であった。
歪んで小心になった父親や、彼を邪魔者あつかいする兄弟たちからは得られなかったもの、イエルクの血の業でさえ押し流すことが困難だったものが彼のもとに戻り、そして今、風のように跡形もなく去ろうとしている。
チビとノッポがこちらに駆けてくるのがやけにゆっくりとして見えた。
「ぼっちゃん、今すぐに砦にお戻りになってください! キルフェお嬢様が!」
パパ卿から託された支度金を手に、クリフは馬を走らせた。
クリフとラトが砦を後にした直後のことだった。
これは二人が見逃していた出来事だ。
砦を訪れる者たちがいた。
彼らはマルタではなく一番近くの村に姿を隠しながら滞在し、そして機会をうかがっていた者たちだった。
彼らは四頭立ての馬車を引いていた。
純白の旗を立てた馬車であり、旗には菫の紋章が輝いている。
クリフが砦に辿り着いたとき、キルフェは砦から煙のように消え去った後だった。
そして、キルフェ・アンダリュサイトというただひとつの真心を失った砦にはエセルバードとオスヴィンが所在なげに立ち竦んでいるだけだった。
すべてのたくらみが彼女の手によるものとわかっていてなお、ラト・クリスタルでさえも、彼女を捕まえることはできなかったのだ。
数日後、王国は明るいニュースを迎えていた。
それは数年ぶりに、女神教会によって聖女候補が選ばれたというものだ。
選ばれた聖女候補は父親や兄弟に迫害されながらも流行病におかされた人々を助け、奇跡を三度起こした。
一度目はみずからも流行病にかかり、二度目は暴漢に襲われて下腹部を刺され、そして三度目は何者かによって毒の杯を飲まされたが、女神の恩寵によって生還したのである。
奇しくも、ヘレイナが起こした奇跡と同じ三度であった。
この奇跡は女神教会の聖女選定人によって見届けられ、近く、正式に奇跡として認定される見込みだ。
聖女キルフェ・アンダリュサイトの誕生である。
砦からキルフェ嬢を連れ去ったのは、教会からの迎えの馬車であった。
いったん聖女と認められてしまえば、彼女を糾弾することは容易ならざることだ。尼僧しか入り込めない教会の奥深くには、キャストライト子爵であっても手出し無用である。
かくして、彼女は名探偵の鋭い追及の眼差しから、まんまと逃げおおせてみせたのである。




